「妹の結婚祝いに、お前が育てた領地を譲れ」と父に命じられましたので、収穫祭の翌朝、領民全員と出て行きました
「ローデン領を、ミレーヌへ譲れ」
十年ぶりに領地を訪れた父は、挨拶より先にそう言った。
執務机へ置かれたのは、父の署名とレーヴェン伯爵家の印章が入った命令書だった。
窓の外では、明日に迫った収穫祭の準備が進んでいる。荷車いっぱいの麦。赤く実った林檎。水路を飾る花。十年前には何一つなかったものばかりだ。
「ミレーヌの結婚相手は、南部のオルブライト侯爵家だ。豊かな領地を持参金とすれば、先方も満足する」
父の隣で、異母妹のミレーヌが微笑んだ。
「お姉様なら分かってくださいますよね?」
「私が領地を譲れば、あなたが領主になるの?」
「ええ。でも安心してください。お姉様のお部屋は残してあげます」
「私の部屋を?」
「お姉様には、これまでどおり代官として働いていただきます。私も夫も領地経営なんて分かりませんもの」
父も当然のように続けた。
「領主の名義と収益はミレーヌへ移す。日々の仕事はお前が行え。問題が起きた場合は代官であるお前の責任だ」
「収益はミレーヌへ。働くのは私。失敗した際の責任も私が負うのですね」
「家族の役に立てるのだ。不満などあるまい」
十年前、母を亡くした十四歳の私は、荒れ果てたローデン領へ送られた。
水路は土砂で埋まり、水車は壊れ、領民の半数が故郷を離れていた。父へ助けを求めても返事はなかった。
私は残った領民と水路を掘った。母の宝石を売って種籾を買い、農業技師を招き、診療所と学校を建て、交易路を開いた。
十年かけて王国有数の小麦生産地に育てた今、父は初めて領地を訪れたのだ。
「お姉様は働くのがお好きでしょう? 私は領主として社交を担当します。二人とも得意なことをするのですから、よい分担ですわ」
妹は私を憎んでいない。
私が妹のために譲り、働き、我慢することを当然だと思っているだけだ。
「承知いたしました」
父は満足そうにうなずき、ミレーヌは喜んだ。
「ありがとうございます、お姉様!」
「命令書を確認させてください」
私は文面を読み上げた。
「『セレスティア・レーヴェンは、収穫祭終了をもってローデン領の管理権をミレーヌ・レーヴェンへ譲渡する。同時に、領地経営に関するすべての職務から直ちに退くものとする』。間違いございませんか?」
「職務から退くとはどういうことだ」
「管理権を失った私が仕事を続ければ、妹の権限を侵すことになります」
「形式上はそうなるが、代官として残ればよい」
「代官契約は、新領主と改めて結ぶ必要があります」
「ならば契約すればよい」
ミレーヌもうなずく。
「これまでと同じ条件で雇ってあげます」
これまで私は報酬を受け取っていない。同じ条件とは、無給で働けという意味だ。
「そのお話は、管理権の譲渡後に検討いたします」
私は受領欄へ署名した。父とミレーヌも署名する。
「これでローデンは私の領地ですね」
「明日の収穫祭が終了した時点で、あなたのものです」
「領民にも結婚を祝っていただかなくては」
「ええ。領民は全員、明日のために準備しています」
ただし彼らが準備しているのは、妹の結婚祝いではない。
ローデン領との別れだった。
◇
翌日の収穫祭には、ほぼすべての領民が集まった。
広場には焼きたてのパンと麦酒。端には祭りの荷物を運ぶものと思われた幌馬車が並んでいる。
積まれているのは、領民たちの家財だった。
父が壇上から宣言した。
「本日をもって、我が娘ミレーヌをローデン領の新たな領主とする!」
まばらな拍手が起きた。
「皆さん、これからは私をお姉様と同じように慕ってくださいね」
返事をする者はいなかった。
私も壇上へ上がる。
「本日、ローデン領の管理権はミレーヌへ移ります。私はすべての職務を退きます」
領民たちは静かに聞いていた。三か月前から全員に伝えてある。
「私とともに新しい土地へ移ることを選んだ方には、移住証と住居番号をお渡しします。残る方には、冬を越すための食料と今年分の賃金を支払い済みです」
「移住?」
ミレーヌの笑顔が消えた。
「どこへ行くのですか?」
「北東のクロイツ辺境領です」
父が怒鳴った。
「そのような話は聞いていない!」
「お伝えする必要はございません。移住するのは私個人ですから」
「領民を連れていくつもりか!」
「いいえ。誰にも移住を命じておりません。残る自由も、別の土地へ行く自由も伝えました。クロイツ辺境領への移住を希望した方と、個別に契約を結んだだけです」
「領民は伯爵家のものだ!」
広場の空気が凍った。
村長が一歩前へ出る。
「私どもは、伯爵家の家具でも家畜でもございません。税を納め、土地の賃借契約も本日で満了します。三か月前に転出届も提出しております」
領民たちが一斉に転出許可証を掲げた。
「最初から計画していたのか」
「お父様から譲渡のご意向を伺った日から準備しました」
「なぜ相談しなかった!」
「相談すれば、認めてくださったのですか?」
父は答えなかった。
「領地も屋敷も水車も倉庫も、今年の収穫物も、すべて置いてまいります」
ミレーヌが安堵する。
「なら問題ありません。皆さんはここへ残りますよね?」
治療師が私の隣へ立った。教師、農業技師、料理長、鍛冶師も続く。やがて広場にいたほぼ全員が、私の後ろへ移動した。
「どうして……。私も皆さんを大切にします!」
料理長が尋ねた。
「お嬢様は、私どもの名前をご存じですか?」
妹の口が閉じた。
日が沈む頃、私は管理権を示す銀の鍵をミレーヌへ渡した。
「これで、ローデン領はあなたのものです」
◇
翌朝、六十七台の幌馬車がローデン領を出発した。
老人と病人には寝台を備えた馬車を用意し、幼い子供のいる家族には途中で休める宿場も確保した。
全員が来たわけではない。家族の墓を守るため残る者には、一年分の食料と賃金を渡した。
誰かの人生を、私が決めるつもりはなかった。
街道へ出て間もなく、父とミレーヌが馬で追ってきた。
「今すぐ全員を連れ戻せ! 井戸の揚水機も水車も動かん。朝食さえ用意されていない!」
「揚水機は農業技師、水車は水車番、朝食は料理人の仕事です」
「だから戻せと言っている!」
「すでに契約は満了しています。新しい契約はご本人たちと交渉してください」
父は農業技師を見た。
「伯爵家が雇ってやる。戻れ」
「報酬はいかほどでしょう」
「これまでどおりでよいだろう」
「これまでの賃金はセレスティア様個人からいただいておりました。伯爵家からではございません」
ミレーヌが私の腕をつかんだ。
「お姉様を代官として雇います。皆さんも戻るのでしょう?」
「報酬、権限、任期、責任の範囲を伺います」
「家族なのに、お金を取るのですか?」
「無給で働く者を、雇ったとは申しません」
「お姉様は、そんな冷たい方ではなかったわ」
「そうですね。ですから十年間も無給で働きました。もう十分です」
父が命令書を掲げる。
「伯爵家当主として命じる。ローデンへ戻れ!」
「その命令には従えません。お父様が昨日、別の命令を出されたからです」
私は写しを開いた。
「『セレスティアは領地経営に関するすべての職務から直ちに退くものとする』。お二人の署名もございます」
「撤回する!」
「領地の譲渡も撤回なさるのですか?」
「それは困ります!」
ミレーヌが父を止めた。
「ローデン領は、オルブライト侯爵家へ約束した持参金です!」
「ならばセレスティアだけ戻せばよい!」
「管理権を持たない私が介入すれば、ミレーヌの権限を侵害します」
二人は初めて、自分たちの要求が自分たちを縛ったことに気づいた。
「領地は命令どおりお譲りしました。ですが、領民は土地に付属する財産ではございません。誰に仕え、どこで暮らすかは、彼ら自身が決めることです」
「お姉様が働けば済むではありませんか!」
「あなたが欲しがったのはローデン領です。私ではなかったはずですが?」
私は御者へ出発を告げた。
◇
国境の丘には、クロイツ辺境伯アルベルトが待っていた。
背後には新しい家、井戸、診療所、学校、家畜小屋、食料庫が並んでいる。
「クロイツ辺境領へようこそ。不備があれば申し出てほしい。契約に反する点があれば、別の土地へ向かう自由も保証する」
彼は私だけでなく、領民全員へ頭を下げた。
アルベルトとは五年前の農業会議以来、技術や種籾を交換してきた。父から譲渡の話を聞いたとき、最初に相談した相手でもある。
「本当に全員分を用意してくださったのですね」
「家族構成も職業も必要な治療も、あなたの名簿に記されていた。準備できない理由はない」
「費用は共同事業の収益からお返しします」
「もちろんだ。慈善事業ではないからな」
彼が差し出した契約書には、農地開発、水路建設、利益配分、雇用条件が具体的に記されていた。
私の役職は、共同開発責任者。
「私に、あなたの領地を任せるおつもりですか?」
「違う。私と一緒に、新しい領地を作ってほしい」
命令でも同情でもない。対等な相手としての申し出だった。
「お引き受けいたします。ただし、働きすぎた場合は互いに止めるという条項を追加してください」
アルベルトは笑った。
「最も守るのが難しい条項になりそうだ」
◇
半年後、父から命令書が届いた。
水車を修理できず、交易商人も戻らない。種まきの時期を誤り、ミレーヌの結婚も延期されたという。
『直ちにローデンへ戻り、領地を以前の状態へ戻せ』
私は一行だけ返した。
『私はご命令どおり、ローデン領に関するすべての職務から退きました。今後のご発展を心よりお祈り申し上げます』
窓の外では、新しい収穫祭が始まろうとしていた。
広場で待っていたアルベルトが、私へ杯を差し出す。
「来年も、この祭りを一緒に迎えてくれるだろうか」
「仕事上のご依頼ですか?」
「できれば、それ以外の意味でも」
彼の耳が、わずかに赤くなった。
私は微笑み、杯を合わせた。
もう、家族だからという理由で自分を差し出すことはない。
これから与えるものは、私自身が選ぶ。
土地を奪われたと思っていた。
けれど私が十年間育てていたのは土地ではない。
ここにいる人々と歩いていく、未来だった。




