第93話 家族と話す夜
父が、夕飯の後も工房に戻らなかった。
珍しいことだった。
その珍しさが、今夜は何かを話す夜だということを教えていた。
暁の月の十三日。誕生日から、十日あまりが過ぎていた。
家族は、わたしが「行くかもしれない」と言葉にしたことを、何も追及してこなかった。けれど、家の空気の中で、その問いが静かに息づいているのは、誰にとっても分かっていた。
エマが、夕飯の片付けをしながら、ふと、こちらを見ていた。
ノラは、屋根裏で先に寝床に入っていた。
「お父さん」
「うん」
「町へ、行くかもしれない。あるいは、王都へ呼ばれるかもしれない」
(——言えた)
その事実が、頭の中ですとんと収まった。
誕生日の朝、ノラの直球の問いで「行くことになるかもしれない」と言ったときよりも、もう一段はっきりと、わたしは言葉にした。
◇◇◇
エマが、片付けの手を止めて、椅子に座った。
父も、すでに食卓の椅子に座っていた。
「なぜ行くの?」
エマが、わたしの方を、まっすぐ見て聞いた。
「もっと作りたいから」
短く答えた。
それから、もう少し言葉を足した。
「ここにいるだけでは、作れないものがある」
エマが、ゆっくり頷いた。
「お父さんも、若い頃、町で修行したわね」
「ああ」
父が、軽く頷いた。
「あの時の俺は、ここにいたら時計師になれない、と思って、出ていった」
「うん」
「お前さんは、ここにいたら作れないものがある、と思って、出ていく」
「うん」
「俺と同じ動機じゃない。けど、似てる」
父はそう言って、お茶の椀を一口飲んだ。
(——お父さんも、若い頃、ここを出ていった)
頭の中で、その事実が、ゆっくり広がった。
父は、これまで、自分の修行時代の話を、わたしに詳しく語ったことはなかった。今夜、初めて、その一端を見せてくれていた。
◇◇◇
「リナ」
父が、続けた。
「一人で行くのか」
「……分かりません」
短く答えた。
そして、考えながら、続けた。
「でも、一人ではないかもしれない」
エマが、わたしの方を見て、軽く頷いた。
「ヨハンが、町にいるわね」
「うん」
「お兄ちゃんが、町で何かを助けてくれるかもしれない」
「うん」
「だから、リナが行くなら、わたしたちは、お兄ちゃんに連絡を取る」
エマがそう言って、父の方を見た。
父は何も言わずに、軽く頷いた。
(——わたしが一人で行くわけじゃない)
(——お兄ちゃんが、町にいる)
その事実が、頭の中にゆっくり染みた。
これまで、「町に行く」とは「家族から離れる」と思っていた。けれど、お兄ちゃんが町にいる限り、それは「家族の一人と合流する」ことでもあった。
◇◇◇
エマが、しばらく黙ってから、ゆっくり言った。
「リナ」
「うん」
「どこにいてもあなたはあなただ。それは変わらない」
(——え)
エマの言葉に、わたしは思わず母の顔を見上げた。
「お母さん——」
「あなたが王都に行っても、ハーラム町に行っても、あなたがリナであることは変わらないわ」
「うん」
「だから、行きたいなら、行きなさい。わたしたちは、ここで、あなたを待っている」
エマの声は、いつもより少しだけ低くて、いつもより少しだけ柔らかかった。
それは、ヨハンを送り出した日の朝の声と、似ていた。けれど、あの日のエマよりも、もっと深いところから出ている声だった。
胸の奥に、温かい何かがじんわり満ちた。
怖くなかった。
むしろ、エマの言葉に支えられて、胸の中の何かが、ふっと軽くなった。
◇◇◇
そこへ、屋根裏から、ノラの足音が下りてきた。
「ねぇね、まだ起きてた」
ノラが、寝ぼけ眼で、わたしの方に駆け寄ってきた。
「ノラ、寝てなかったの?」
「ねぇねの声が聞こえた」
ノラが、わたしの膝に飛び乗ってきた。十一歳のわたしの膝に、六歳のノラがちょこんと座る形は、もう「ちょうど良い」というより、「ぎりぎり」だった。
「ノラ、ねぇね」
「うん?」
「ノラもね、いつか、ねぇねについていく」
(——え)
ノラの言葉が、頭の中にずしりと届いた。
「えっと——」
「ノラも、大きくなったら、ねぇねの作るものを、見たい」
ノラの言葉は、いつもの「ねぇね、すごい」のような感嘆ではなくて、もう少し自分の意思を持った言葉だった。
「うん。ノラ、大きくなったら、おいで」
「うん」
ノラが、満足そうに頷いた。それから、わたしの肩に頭をくっつけて、また眠りに落ちかけた。
エマが、軽く笑った。
父も、わたしと、わたしの膝のノラを、ゆっくり見ていた。
◇◇◇
食後、父が、わたしを工房に呼んだ。
「リナ」
「うん」
「お前が行くなら、何が必要だ」
「えっと——」
「俺が用意できるものなら、用意する」
父は、作業台の上で、いつもの小さな工具を整理しながら、聞いてきた。
「お父さん——」
「言ってみい」
わたしは、しばらく考えてから、答えた。
「お父さんの工房から、何か、一つ、持っていきたい」
「ほう」
「お父さんが作った時計の、小さな部品を、一つ。お守りみたいに」
父が、しばらく作業台の上を見ていた。
それから、棚の奥から、小さな布袋を取り出して、机の上に置いた。
「これ、持っていけ」
布袋を開けると、小さな金属の部品が入っていた。父が時計を作る時に使う、機構の中の小さな歯車。指の腹に乗るくらいの大きさだった。
「これは——」
「俺が、お前さんが生まれた年に、新しい鐘時計の中に組み込もうとして、合わなくて使わなかった歯車だ。それからずっと、棚の奥に置いてあった」
(——え)
頭の中で、その事実が、ゆっくり広がった。
「お父さん、これ——」
「十一年前の、俺の手の中にあった歯車だ。お前さんが王都に持っていくにはちょうどいい」
父はそう言って、軽く笑った。
それは、わたしが見たことのない、父の笑顔だった。
◇◇◇
その夜、わたしは屋根裏で、父の歯車を手に握っていた。
ノラの寝息が、隣で規則正しく繰り返されていた。
頭の中で、前世の「あと一つだけ」を、もう一度なぞった。
——あと一つだけ関数を書き終えれば、家に帰れる。
——あと一つだけ。
——あと一つだけ。
前世のわたしは、その言葉を、追い詰められたときに繰り返していた。それは、終わりが見えない仕事を、強引に終わりに近づけようとする、強迫の言葉だった。
今のわたしは、違う言葉を、頭の中で繰り返している。
——もっと作りたい。
——次の発明を、作りたい。
——王都に行って、誰かと一緒に、何かを作りたい。
(——あ)
頭の中で、その違いに、初めて気付いた。
前世の「あと一つだけ」は、怖かったから出てきた言葉だった。
今の「もっと作りたい」は、嬉しいから出てきた言葉だった。
——それが、違う。
胸の奥に、温かい何かがじんわり広がった。
それは、前世のわたしと、今のわたしの間に、はっきりした境界線が引かれた瞬間だった。
前世のわたしは、強迫に追い立てられて、力尽きた。
今のわたしは、希望に押されて、次の場所へ向かおうとしている。
——同じ熱に見えて、違う熱。
——同じ「あと一つ」に見えて、違う「あと一つ」。
頭の中で、その違いを、もう一度確かめた。
(——わたしは、もう、前世のあの日のわたしとは違う)
(——同じ熱に動かされていても、その熱の出どころが違う)
何かが、胸の奥にすとんと収まった。
父が渡してくれた、わたしが生まれた年の歯車が、手の中で、少しだけ温かくなっていた。
あと一つだけ、と思っていた頃と、今は違う。
今は、もっと作りたい、と思っている。
それが怖いことではなく、嬉しいことだと気付いた時、目が覚めた気がした。
■あとがき・解説
第93話は、誕生日から十日あまりが過ぎた夜、リナが食卓で「町へ、行くかもしれない。あるいは、王都へ呼ばれるかもしれない」と家族に切り出す回でした。父が若い頃に町で修行した話を初めて漏らし、母が「どこにいてもあなたはあなただ」と言葉を渡してくれて、ノラが「ノラもね、いつか、ねぇねについていく」と膝の上で告げる。そして父が、リナが生まれた年に作って合わなかった歯車を布袋から取り出して渡してくれる。今回はその「家族と話す夜」と、リナの中で起きた「あと一つだけ」の質的転換について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「もっと作りたいから」——理由を、自分の言葉で短く言える
エマの「なぜ行くの?」という問いに、リナが「もっと作りたいから」と短く答えた場面。
前世の言葉でいうと、これは「自分の動機を、自分の言葉で短く言える段階に来た」ということでした。動機の言語化は、たいてい三段階で進みます。最初は「なんとなく行きたい」「行かなければならない気がする」という曖昧な感覚。次は「外の世界を見てみたい」「人の役に立ちたい」という、抽象的だが少し形を持った理由。そして最後に、自分にとって最も切実な、短く言い切れる一言。
リナの「もっと作りたい」は、その三段階目の言葉でした。「ここにいるだけでは、作れないものがある」と続く一行も、外側の風景を語っているようでいて、実は自分の内側を語る言葉でした。同じ机の前に座って同じ手で部品を組み立てる限り、自分が辿り着ける場所には限界がある。その限界を、自分が手で触れることで、初めて自覚していました。
母が「ヨハンを送り出した時と、同じ顔をしてる」と気付いたのは、たぶん、この種類の動機の輪郭を、母がよく知っていたからでした。母自身も、若い頃、似た顔をしたことがあるのかもしれません。
■「父の修行時代」——同じ動機ではなく、似た動機
父が「あの時の俺は、ここにいたら時計師になれない、と思って、出ていった」と漏らした場面。
前世の言葉でいうと、これは「親が、子の旅立ちを理解する手がかりとして、自分の過去を一段だけ開いて見せる」場面でした。父はこれまで、自分の若い頃の話を、リナに詳しく語ったことがありませんでした。職人の父は、語る代わりに作業台の上で手を動かす人でした。だから今夜、その手を止めて、自分の過去の一端を見せたこと自体が、すでに一つの大きな所作でした。
「俺と同じ動機じゃない。けど、似てる」という一言。父は、リナの動機と自分の動機を、安易に同一視しませんでした。同じ職人の家から旅立つにせよ、父は「ここにいたら時計師になれない」という不足の動機で出ていった。リナは「ここにいたら作れないものがある」という外向きの動機で出ていく。出発点の不足を埋めるための旅と、到達点の広がりを掴むための旅。それは、似ているけれど、別の旅でした。
父がその違いを正確に言葉にできたのは、たぶん、自分の若い頃の旅を、何十年もかけて反芻し続けてきたからでした。自分の旅を理解した人だけが、他人の旅を「似ているけれど違う」と区別して語れる。父の短い二行には、その反芻の厚みが滲んでいました。
■「どこにいてもあなたはあなただ」——場所が変わっても、輪郭は変わらない
エマの「どこにいてもあなたはあなただ。それは変わらない」という言葉。
前世の言葉でいうと、これは「持ち運べる自己」という考え方の、最も柔らかい表現でした。人は、自分が住んでいる場所や、自分の周りにいる人によって、自分が変わってしまうのではないかと、旅立ちの前には不安になります。新しい場所では、自分が知らない自分が現れて、それまでの自分を裏切るのではないか。新しい人たちは、自分のことを「ここにいた頃の自分」ではなく、別の何かとして見るのではないか。
エマの言葉は、その不安に対する、最も短い答えでした。場所が変わっても、人が変わっても、あなたという輪郭は変わらない。あなたの中にある「物を作りたい」という動機も、家族を思う気持ちも、考える時の癖も、全部、あなたが持って動かせるものなんだ。だから、行きたい場所に行きなさい。わたしたちは、ここで、あなたを待っている。
ヨハンを送り出した日のエマと、今夜のエマの違いは、たぶん、一度すでに我が子を送り出した経験が、母の声を一段だけ深い場所から出させていた、ということでした。あの日のエマは、まだ「我が子を送り出すことの怖さ」を全部は知りませんでした。今夜のエマは、それを知った上で、それでも「行きなさい」と言える人になっていました。
■「いつか、ねぇねについていく」——妹が、自分の意思で発する言葉
ノラが「ノラもね、いつか、ねぇねについていく」と告げた場面。
前世の言葉でいうと、これは「子供が、感嘆ではなく、自分の意思を初めて言葉にする」場面でした。これまでのノラは、いつも「ねぇね、すごい」「ねぇね、きれい」と、目の前のリナの作るものに対する感嘆を口にしていました。それは、姉の作るものに憧れる妹の素直な反応でした。けれど今夜のノラは違いました。「ノラも、大きくなったら、ねぇねの作るものを、見たい」。これは、感嘆ではなく、自分の未来の意思の宣言でした。
寝ぼけ眼でリナの膝に飛び乗ってきた六歳の子供が、自分の人生の方向を、一行だけ短く宣言する。それは、リナにとってずしりと届く重みでした。妹は、姉の作るものを「見たい人」になりつつあった。姉が遠くに行くことを、止める方向ではなく、いつか自分も追いかける方向で受け止めようとしていた。
これは、リナにとっても新しい関係でした。これまでの「妹を守る姉」という関係から、「いつか妹に追いかけられる姉」という関係への、静かな移行。ノラの膝の上の重みは、もう「ちょうど良い」より「ぎりぎり」だ、というリナの感覚は、その移行の物理的な現れでもありました。
■「あと一つだけ」の質的転換——強迫の熱から、希望の熱へ
その夜、屋根裏でリナが父の歯車を握りながら、前世の「あと一つだけ」と、今の「もっと作りたい」を頭の中で並べた場面。
前世の言葉でいうと、これは「同じ言葉が、出どころの違いで別の意味を持つ」気付きでした。前世のリナ——愛田莉奈は、過労死する直前まで「あと一つだけ関数を書き終えれば、家に帰れる」と自分に言い聞かせていました。「あと一つだけ」は、終わらない仕事を強引に終わりに近づけようとする、追い詰められた人の言葉でした。終わりが見えないという恐怖から、無理矢理に出てくる呪文のような言葉。
今のリナの「もっと作りたい」は、表面上は前世の「あと一つだけ」と似て見える、同じ「次の何かを作りたい」という熱でした。けれど、その熱の出どころは、まったく違いました。前世の熱は、終わらせるために出ていた熱。今の熱は、始めるために出ている熱。前世の熱は、追い立てられて燃えていた熱。今の熱は、希望に押されて灯っている熱。
この区別が、リナの胸の中で言葉になった瞬間、これまで静かに進んできた一つの主題が、ようやく形を結びました。——前世の強迫と現在の希望の境目——という大きな問いが、ここで質的に転換しました。
「わたしは、もう、前世のあの日のわたしとは違う」「同じ熱に動かされていても、その熱の出どころが違う」——その気付きは、リナがリナとして、この世界で自分の動機を引き受け直した瞬間でもありました。手の中の歯車が少しだけ温かくなったのは、その引き受け直しに、父の十一年前の細工が、ちょうど立ち会ってくれたからでした。
リナが生まれた年に、父の手の中で合わなかった歯車。十一年の間、父は棚の奥にしまったまま、いつか娘に渡す日のために置いていたのかもしれません。「お前さんが王都に持っていくにはちょうどいい」という父の不器用な笑顔。それは、合わなかった歯車が、十一年後にようやく「合う場所」を見つけた瞬間でもありました。次の話もお楽しみに。




