第91話 去り際の言葉
テオドール様の荷馬車が、朝早くに仕立てられていた。
村の外への人が動く朝は、いつも少し静かに感じる。
穣の月の六日。朝の風には、麦の刈り入れが本格化する季節の張りつめた気配が、はっきり乗っていた。霜はまだ降りていなかったけれど、地面の土は朝の冷えで固く締まっていて、踏むと乾いた音がした。
わたしと父とエルナは、村の南の辻まで、テオドール様を見送りに行った。
昨日、テオドール様が「明日、村を発つ」と言ったので、最後の挨拶のために集まった。
集まった、というのは、わたしたち三人だけではなかった。
村長ハインリヒも、グスタフ親方も、いつの間にか辻の脇に立っていた。
バルドゥス爺さんは、少し離れた畑の脇から、こちらを見ていた。
(——みんな、見送りに来てくれた)
その事実が、胸の中にゆっくり染みた。
◇◇◇
テオドール様が、荷馬車の前で、父に向かって、軽く頭を下げた。
「アルベルトさん」
「はい」
「ご令嬢のこと、無理にお願いするつもりはありません」
「うん」
「ただ、お父上の育て方が、良かったのだろうと、申し上げておきます」
(——え)
その言葉に、わたしは思わず父の横顔を見上げた。
父は、テオドール様の言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
それから、目を逸らしながら、短く答えた。
「……そうか」
(——お父さん、少しだけ、頬が赤い)
胸の奥に、温かい何かがじんわり広がった。
父はリナのことを褒められるよりも、自分の育て方を認められるほうが、たぶん嬉しいのだ。
それは、父らしい嬉しさの受け止め方だった。
◇◇◇
テオドール様が、次にエルナの方を向いた。
「祭司様」
「はい」
「ご令嬢を、しっかりと守っておられる。それは、王都の祭司にもなかなかできないことです」
「いえ。わたしは、リナのために、自分が何ができるかを、考えているだけです」
エルナの声は、いつもより少しだけ低かった。
「それで十分です」
テオドール様はそう言って、軽く頭を下げた。
◇◇◇
最後に、テオドール様がわたしの方を向いた。
「ご令嬢」
「はい」
「あなたの作るものを、王都の人間に、見せていただきたいと思っています」
「うん」
「ただし、それは、あなたが『今、行く』と決めた時です」
「うん」
「時期が来たら、また連絡を差し上げます」
「分かりました」
短く答えた。
迷わなかった。父にもエルナにも、確認はしなかった。
(——わたしは、今、即答した)
その事実が、頭の中ですとんと収まった。
「分かりました」という短い返事を、わたしは自分の口で、自分の意思でまっすぐ言えた。
テオドール様が、それを聞いて、軽く頷いた。
それは、納得した頷きでも、了承した頷きでもなかった。
ただ「あなたの答えを、わたしは受け取った」という頷きだった。
◇◇◇
テオドール様が、荷馬車に乗り込んだ。
御者が手綱を握り直した。馬が一歩、ゆっくりと進んだ。
「皆様、ご機嫌よう」
テオドール様が、軽く帽子に手をかけて、挨拶を返した。
荷馬車が、村の南の道を、ゆっくり進んでいく。
木の車輪が、固く締まった土を、規則正しく踏んでいく音が、辻の脇まで伝わってくる。
家族と村人たちが、その後ろ姿を、しばらく見ていた。
馬車が、丘の麓のところで小さくなっていく。
丘を上っていく。
丘の頂に達する。
そして——丘の向こうに、消えた。
(——前にも、こうやって、誰かを見送った)
頭の中で、その記憶が、ゆっくり広がった。
——お兄ちゃんを見送った日。
——あの日も、丘の向こうに馬車が消えた。
似ていたけれど、違っていた。
あの日は、家族の一人を送り出していた。
今日は、わたしを「いつか呼ぶかもしれない人」を、送り出していた。
◇◇◇
バルドゥス爺さんが、畑の脇から、こちらを見ていた。
爺さんは、何も言わなかった。
ただ、わたしと目が合ったとき、ゆっくり一度だけ頷いた。
(——え)
その頷きが、頭の中にずしりと届いた。
それは「お前さんが旅立つことを、わしは最初から知っておった」と言うような頷きだった。
わたしは、爺さんに軽く頭を下げた。爺さんは、それ以上の動きをせずに、また自分の畑の方へ向き直った。
穣の月の初めの澄んだ風が、辻の脇を撫でていった。
村の道の脇の、刈り入れの始まりかけた麦畑が、黄金色に広がっていた。風が、その色の表面を、ゆっくり走った。
◇◇◇
家に戻る途中、エルナが横で軽く言った。
「リナ」
「うん」
「あなた、今日、即答したわね」
「うん」
「『分かりました』と」
「うん」
「あなたが、自分の意思で、自分の道を選ぼうとしているのを、わたしは感じました」
エルナの声は、いつもより少しだけ穏やかだった。
それは、教会で祈祷をする時の声に近かった。
「これからも、わたしは見守ります」
「ありがとうございます」
エルナがそれだけ言って、軽く頷いた。
父も、横で頷いていた。
◇◇◇
夕方、わたしは屋根裏に上がった。
机の上には、印の試作の紙が、いつもどおり並んでいた。
けれど、わたしは、その紙を一度全部、机の隅に寄せた。
新しい紙を一枚、机の中央に広げた。
ペンを取って、しばらく、何も書かずに紙を見ていた。
頭の中で、テオドール様の言葉を、もう一度なぞった。
——時期が来たら、また連絡を差し上げます。
——あなたの作るものを、王都の人間に、見せていただきたい。
——あなたが『今、行く』と決めた時です。
(——時期が来たら、わたしは、行くんだろうか)
(——行く、と即答しなかった)
(——けれど、行かない、とも、言わなかった)
怖い感覚と嬉しい感覚が、同じ強さで、同時に胸の奥にあった。
(——行かなければならない気がする)
(——でも、まだ、その理由が、言葉にならない)
その言葉が、頭の中にゆっくり居ついた。
ペンを、紙の上に置いた。
けれど、何も書かなかった。
ただ、ペンの先が紙に触れて、小さな点だけが残った。
穣の月の初めの風が、窓の外で一度音を立てて、また静まった。
ノラの寝息が、隣で規則正しく繰り返されていた。
穣の月の風が吹いた。
バルドゥス爺さんが遠くで頷いた。
行かなければならない気がする——でも、まだその理由が、言葉にならなかった。
■あとがき・解説
第91話は、テオドール様が村を発つ朝の見送りの回でした。父アルベルトが「お父上の育て方が、良かったのだろう」と褒められて頬を赤くする場面。バルドゥス爺さんが畑の脇から、ゆっくり一度だけ頷く場面。そしてリナが「時期が来たら、また連絡を差し上げます」というテオドール様の言葉に、「分かりました」と即答する場面。今回はその「即答という選択」について、ゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「即答」——返事の早さは、その人の輪郭を映す
テオドール様の「時期が来たら、また連絡を差し上げます」に対して、リナが「分かりました」と短く答えた場面。
前世の言葉でいうと、これは「即答できるかどうかが、その人の準備を映す」場面でした。返事の早さは、頭の回転の速さの問題ではありません。むしろ、その問いを以前から自分の中で何度も転がしていたかどうか、の問題でした。事前に答えを作っていない問いには、即答できません。あるいは即答すれば、たいてい後で覆ります。逆に、ずっと自分の中で考え続けていた問いには、自然に短い返事が出てきます。
リナが「分かりました」と返したのは、テオドール様の打診が予期せぬ襲撃だったからではなく、屋根裏の机の上で「時期が来たら、わたしは行くのだろうか」を、ずっと頭の片隅で転がし続けていたからでした。父にもエルナにも確認しなかったのは、確認するまでもなく、その問いはすでに自分の中で何度も繰り返されていたからです。
「分かりました」という短い四文字には、迷いの欠如ではなく、むしろ迷いを通り抜けた人だけが出せる落ち着きがありました。
■「見送る側」と「呼ばれる側」——同じ丘の越え方の、別の意味
ヨハンを見送った日と、テオドール様を見送った日の、似て非なる景色。
前世の言葉でいうと、これは「同じ動作が、立場の違いで別の意味になる」例でした。荷馬車が丘の麓を上り、丘の頂に達し、丘の向こうに消えていく。動きそのものは、どちらの日も同じでした。けれどヨハンを見送る側のリナは「家族の一人が、しばらく帰ってこない」という事実を受け止めていた。テオドール様を見送る側のリナは「いつか自分を、向こうから呼ぶかもしれない人」を、こちら側から送り出していた。
同じ景色の中に、二つの違う意味が重なっていました。ヨハンの旅立ちはリナにとって受け身の出来事でした。誰かが行く。自分は残る。けれどテオドール様の旅立ちは、その逆の構造を半分だけ含んでいる。誰かが帰っていく。やがてその誰かが、こちらを呼ぶ。
丘の向こうに消えていく馬車の小ささは、同じ大きさに見えても、見送る側の心の中では、ずいぶん違う質感を持っていました。
■「無言の頷き」——言葉を発しない人の、最も強い言語
バルドゥス爺さんが、畑の脇から、ゆっくり一度だけ頷いた場面。
前世の言葉でいうと、これは「無言が、最も多くを語る瞬間」でした。普段から多くを語らない人が、特定の場面でだけ示す小さな所作。それは、その人がずっと前から見ていたものを「見ていたぞ」と確かめる合図でした。説明を伴わない頷きは、説明を伴う言葉よりも、しばしば重く受け取られます。
バルドゥス爺さんは、リナのことを最初から「いつかここを出ていく子供」として見ていたのかもしれません。第76話で「人と人の約束を、機械に任せるのか」と問いかけた時、爺さんはたぶん、リナの作るものが村の中だけに収まらない種類のものだ、ということを既に感じ取っていました。今朝の頷きは、その予感が確かに実現の方向に動き始めた、ということへの、爺さんなりの確認でした。
「お前さんが旅立つことを、わしは最初から知っておった」と語るような、説明を必要としない頷き。リナの胸の奥でずしりと届いた重みは、そこから来ていました。
■「父の褒められ方」——本人を褒めるより、育てた人を褒める
テオドール様が「お父上の育て方が、良かったのだろうと、申し上げておきます」と言って、父アルベルトがしばらく黙ってから「……そうか」と短く答えた場面。
前世の言葉でいうと、これは「本人ではなく、その人を育てた人を褒める」礼法でした。八歳から十歳までの少女に対して、外の世界の人が「あなたは天才ですね」と直接褒めれば、それは少女を持ち上げる方向に作用します。けれど「あなたを育てた人が、良かったのでしょう」と父親に向けて褒めれば、少女ではなく家族全体への敬意になります。少女自身に過剰な重みを乗せず、その背後にある家族の輪郭を浮き立たせる、という礼法です。
テオドール様が王立学院の人間として、王都の礼儀を身につけている人物であることが、この一言に滲んでいました。そして、その礼法を受け止めた父アルベルトの「……そうか」という不器用な返事と、わずかに赤くなった頬。父は、自分のことを褒められるのが苦手な人でした。けれど自分の育て方を認められることは、たぶん父が密かに望み続けていた種類の褒められ方だった。
リナが父の横顔を見上げて「お父さんらしい嬉しさの受け止め方だ」と気付いた瞬間、家族の関係はまた一段だけ違う場所に着地していました。
夕方の屋根裏で、リナがペンを紙に置いたまま、何も書けずに小さな点だけを残した場面。「行かなければならない気がする」と「まだその理由が、言葉にならない」が同じ強さで胸の中にある時、人は紙の上に意味のある文字を書けません。書けないこと自体が、今の段階の正しい記録でもありました。次の話もお楽しみに。




