第37話 祭司の頼み
屋根裏の小さな窓から、朝の光が細く差し込んでいた。
わたしは寝床の中で目を開けた。隣でノラが小さな寝息を立てている。柔らかい頭がわたしの腕にちょこんと乗ったままだった。
(——昨夜、エルナさんに「はい」と答えた)
(——でも、わたしの『眼』は、家族の中だけで使う戦略だったはず)
(——今日、村の人の家に入る。観察する。それは「家族の中」を越える)
天井の梁を見上げたまま、緊張と覚悟が同じ場所に並んでいた。
(——でも、エルナさんが頭を下げた)
(——大人が子供に頭を下げるのは、簡単なことじゃない)
昨夜のエルナさんの「ありがとう」は、いつもの威厳のある声ではなかった。前世で詰まったプロジェクトの最終局面に上司が若手に頭を下げた時の、あの短い声に似ていた。
ノラがむにゃと寝言を言って寝返りを打った。
わたしはそっと腕を抜いて起き上がった。
◇◇◇
居間に下りると、エマが竈の前で粥をかき混ぜていた。
「お母さん。おはよう」
「おはよう、リナ」
エマが顔を上げて、わたしを見た。
「今日はエルナ様と村を回るって、聞いたわ」
「うん」
エマが粥を椀によそって、わたしの前に置いた。
「無理しないでね」
「うん。お母さん」
少し迷ってからわたしは続けた。
「……何かあったら、お母さんに話してもいい?」
エマの手が一瞬止まった。それから少し驚いた顔をして、すぐに優しく頷いた。
「もちろん」
椀を抱えるわたしの肩に、エマの手が軽く触れた。
「話したい時だけ、話していいの」
(——お母さんはずっとそうしてきた)
(——『話したい時だけ』が、お母さんの距離)
粥は少しだけ熱かった。喉の奥が温かくなる。
食べ終えて器を片付けると、エマが戸口まで一緒に出てきた。
朝の空気はまだひんやりしていた。教会の前でエマが足を止める。
「行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
わたしが背を向けて歩き出しても、エマはしばらくそこに立って見送っていた。
◇◇◇
エルナは普段の白と銀の祭司服に戻っていた。長い灰色の髪は今朝はきちんと編まれている。でも目元には、昨夜の疲れがまだ薄く残っていた。
「リナ。来てくれた」
「はい」
「今日は三軒、回るつもり。最初はマルダさんとこ。火が点かない件。それからヒルダさん。次にフラヴィオさん」
「うん」
エルナがわたしの目を見た。藍色の瞳の中で、何かが少しだけ静かに動いた。
「リナ。一つだけ、約束して」
「?」
エルナの口元がほんのわずかに緩んだ。微笑とも違う、もっと静かな表情だった。
「あなたが見たものを、わたしに『全部』言わなくていい」
——え。
「言いたいことだけ、言って。それ以外は、あなたの中に置いていい」
わたしは目を丸くした。
(——エルナさんは、わたしが隠したいことがあるって知っている)
(——その上で、隠していいって言ってる)
胸の奥で何かがとくんと音を立てた。緊張とは違う、もっと深いところの音だった。
「……はい。ありがとうございます」
声がほんの少しだけ掠れた。
エルナはもう一度頷いて、先に立って歩き出した。
◇◇◇
マルダさんの家は村の北の外れにあった。
道中、村の人がエルナに挨拶をした。みんなエルナには敬意を払って、それからわたしを見て少しだけ訝しげな顔をする。
(——「魔力なき者」が祭司のこういう仕事に同行するのは意外なんだろう)
エルナは何も説明せず「おはようございます」と返して歩き続けた。
マルダさんの家は質素な木造だった。戸を叩くと、四十代くらいの女性が顔を出した。痩せ気味で目の下に隈があった。
「エルナ様、お忙しいのに……あら、リナちゃんも?」
エルナが軽く頭を下げた。
「ええ。今日は見学を兼ねて連れてきました」
マルダさんは少しだけ眉を上げたが、それ以上は問わなかった。
「どうぞ。入ってください」
家の中は薄暗かった。台所は土間で、奥に小さな竈がある。竈の脇の台座に、黒い魔石が一つ乗っていた。
「これが、もう三日、まともに動かなくて」
マルダさんが魔石を手で示した。
魔石は普通の大きさで、古くも新しくもなかった。
エルナがわたしに目で合図をした。わたしは魔石の前にしゃがんだ。
(——観察する)
竈の中には乾いた薪がきれいに組まれていた。準備は完璧だった。
「やってみてくれる?」
エルナがマルダさんに頼んだ。マルダさんは魔石に手をかざして息を吸い込んだ。
「ベシリア」
——何も起きない。
魔石はぼうっとも光らなかった。マルダさんが顔を曇らせる。
「……もう一回」
「ベシリア」
今度は魔石の表面にぼんやりと模様が浮かんだ。薄く淡い光。でもそれはすぐに消えて、火は点かなかった。
マルダさんの肩が小さく落ちた。
「……三回目」
「ベシリア」
ようやく、薪の端に小さな炎が灯った。
マルダさんは深く息を吐いてわたしたちを振り返った。
「いつもこうなんです。三日前から。一回目で点くことが、ほとんどない」
少し疲れたように笑って、続けた。
「朝食が半刻遅れるんですよ。孫が起きてきて『おばあちゃん、火が点かないの?』って心配そうに覗き込むのが、いちばん辛くて」
竈の脇に置かれた水甕を一度撫でた。
「井戸の水を煮立てるのも、火がこんなだから余計に時間がかかって。今朝は粥が間に合わなくて、孫に冷たいパンだけ持たせちゃったんです」
わたしは魔石の前にしゃがんだまま、目を凝らした。
魔石の表面に浮かんでいる模様。馴染みのある構造。ベシリアの魔法陣だ。何度も見たことがある。
(——模様の構造は、いつもと同じ)
(——『コード』に変なところはない)
(——表面的には、何も問題がない)
でも、視線の奥でかすかに「何かが違う」という感覚があった。それが何かは、まだ言葉にならない。
光の濃さ? 模様の重なり? それともリズム?
——分からない。
掴みかけて、するりと逃げる。
火が点いた魔石はもうおとなしく光っているだけだった。さっきの不調は、すでにどこにもなかった。
(——終わってからじゃ、見えない)
(——起きている最中に、もっとちゃんと見ないと)
唇を噛んだ。
◇◇◇
マルダさんが竈の前で立ち上がって、湯を沸かす準備を始めた。
わたしは少しだけ躊躇ってから声をかけた。
「マルダさん。火が点かない日は、いつもとどう違いますか?」
マルダさんが手を止めて少し考え込んだ。
「うーん」
しばらく天井を見上げてから答えた。
「同じよ。同じ詠唱。同じ石。同じ薪。同じ時間」
「……同じ」
「でも、火が点く日と、点かない日がある」
わたしの心臓が一瞬跳ねた。
(——同じ入力、違う出力)
(——前世なら、これは『非決定的なバグ』だ)
決まった条件を与えても、結果が毎回違う。プログラマーが最も嫌うバグの種類。原因が見えにくく再現性が低い、あのやつだ。
でも、その言葉は口には出せない。
「……分かりました。ありがとうございます」
マルダさんは少しだけ首を傾げて、それから優しく笑った。
「リナちゃんは、変わった子ね」
悪意のない声だった。エルナが代わりに頷いた。
「ええ。変わった子です」
◇◇◇
マルダさんの家を出ると、外の光が眩しかった。
しばらく無言で歩いてからエルナが口を開いた。
「リナ。どうだった」
「……魔法陣の構造は、いつもと同じです」
「同じ、なのに、不調」
「はい」
エルナは前を向いたまま小さく頷いた。
「不思議ね」
(——エルナさんは「不思議」と言うけど、たぶん何かを察している)
(——わたしが「全部は言わない」ことも含めて、受け止めている)
「エルナさん。次の家に行く前に、少し考えていいですか」
エルナは少しだけ歩く速度を緩めてわたしを見た。
「ええ。次のヒルダさんとこの前に、教会で休みましょう」
「ありがとうございます」
教会への道を二人で歩いた。
村の通りはいつもと変わらない。井戸の周りで水を汲む人、走り回る子供。その日常の中で、いくつかの家の魔石だけが見えない場所で揺らいでいる。
(——表面は正常。でも結果が違う)
(——わたしの『眼』は、まだ表面しか読み取れていない)
(——もう一歩、深く読み解かないと)
足元の土を踏みしめながら、わたしは内側で繰り返した。
(——次の家で、何が違うのか見えるだろうか)
■あとがき・解説
第37話は、エルナさんに連れられて、リナが初めて他人の家の魔石を観察しに行く回でした。「全部言わなくていい」というエルナさんの一言が、リナの肩から見えない糸を一本だけほどく。今回はそんな現場の作法を、ゆるく解説します。
■この話で出てきた言葉
■「フィールド調査」
リナとエルナさんが村の中を歩き回って、不調が起きている家を一軒ずつ訪ね、住人の話を聞いていく。あの行為のことを、現場の言葉で「フィールド調査」と呼びます。
機械やシステムが不調になった時、開発者が自分の机の前で頭を抱えていてもなかなか答えは出ません。実際に使っている人のところに足を運んで、どう使っているか、何が違ったか、どんな手順を踏んだかを目の前で見せてもらう。資料には絶対に書かれていない、日常の細部にこそ手がかりがあるからです。
マルダさんが「孫が起きてきて『おばあちゃん、火が点かないの?』って覗き込むのが、いちばん辛くて」と語った、あの何気ない一言。あれを聞くために、リナとエルナさんは現場まで足を運んだのでした。
■「再現テスト」
マルダさんが「ベシリア」と三回唱えて、三回目でようやく火が点いた、あの場面。あれは現場で言うところの「再現テスト」です。
不具合の報告を受けたら、まず「本当にその通りに起きるのか」を実際にやってみせてもらう。話で聞くのと、目の前で見るのとでは、得られる情報の量が桁違いだからです。何回試して何回失敗するのか、失敗した時はどんな様子なのか、成功した時と何が違うのか——使う人の表情や手の動きまで含めて、すべてが手がかりになります。
リナが魔石の前にしゃがんだまま、二回目の薄い光が消えていく様子を「眼」で見ていたのは、まさにこの再現テストの最中だったわけです。
■「ヒアリング(聞き取り)」
リナがマルダさんに「火が点かない日は、いつもとどう違いますか?」と尋ねた、あの問いかけ。何でもない質問に見えますが、開発の現場ではこれを「ヒアリング」と呼んで、地味だけれど一番大事な作業の一つに数えています。
良いヒアリングのコツは、答えを誘導しないこと。「○○が原因じゃないですか?」と聞いた瞬間、相手は「ああ、そうかもしれません」と頷きがちで、本当のことが見えなくなる。だから「どう違いますか」と開いた形で聞いて、相手の言葉でそのまま答えてもらう。
マルダさんの「同じよ。同じ詠唱。同じ石。同じ薪。同じ時間」という答えは、八歳児の控えめな問いだからこそ引き出せた、純粋な観察データでした。
そしてエルナさんの「あなたが見たものを、わたしに『全部』言わなくていい」という一言。あれは技術用語にすると「相手のプライバシーや領分を尊重する」という、ヒアリングのもう一つの大事な作法でもあります。エルナさんはこの夜、リナを観察対象としてではなく、ちゃんと一人の協力者として扱ってくれていました。
次の話もお楽しみに。




