命運二-B
怯えながらも、少女はこちらへ一歩、また一歩と近づいてくる。
氷川の顔をのぞきこむように屈み込み、そっと表情をうかがう仕草には、確かに心配の色があった。
「……大丈夫、だよ。ありがとう」
氷川がそうつぶやくと、少女はわずかに息を吐くような仕草を見せた。
言葉は交わせない。だが、気持ちは通じている――そんな気がした。
ふたりは、しばし無言のまま並んで座った。
森の夜は冷たく、暗く、虫の声さえも止んでいる。唯一の音は、どこからか聞こえる風が草を揺らす微かなざわめきだけ。
やがて、少女が立ち上がった。
そして、あらかじめ集めてあったらしい小枝の束を取り出すと、地面にしゃがみ込み、それらを丁寧に並べ始めた。
炎のない闇の中、手探りのように枝の感触を確かめながら作業を進める様子は、まるで長年染みついた習慣のようだった。
その所作には無駄がなかった。枝の太さを見て、折る位置を決め、火の通りやすさを計算するように置いていく。彼女が手にした火打ち石が、夜の空気に乾いた音を響かせる。
カチン。カチン。
火種となる草がくすぶるが、炎にはならない。
けれど少女は焦る様子もなく、根気よく火打ち石を打ち続けていた。
ふと、その横顔が妹の莉子に重なって見えた。
(……会った瞬間から、少し似てると思ってた)
どこか影のある瞳、黙々と作業に集中する姿。
莉子も、体が弱いくせに、誰かの役に立ちたい一心で動いていた。
あの子が今も病室にいるなら──夜更けのこの時間、きっと毛布にくるまりながらこっそりサブスクでアニメでも観ている頃だろう。
(……自分だけが、こんな現実とも思えない世界に来てしまったのか?)
もし莉子が無事に日常を過ごせているのなら、それだけで救われる思いだ。
……いや、いま自分がこんな状況に置かれているなんて、夢にも思っていないはずだ。
ぱちっ。
音とともに、炎が一瞬だけ瞬く。次の瞬間には、小さな火が草を舐め、やがて木の枝へと広がっていった。
少女の顔がやわらかな光に照らされる。
緊張がほぐれたのか、頬の筋肉がゆるみ、ほっとしたような表情になった気がした。
「ありがとう」
思わず口をついて出た言葉に、少女はこちらを見て、少しだけ目を丸くした。
そしてまた、笑うでもなく、怒るでもなく、ただ視線を返してくる。
返事はない。それでもいい。
言葉が通じなくても、この空間に敵意はないと、お互いに理解しつつある。
氷川は火のそばに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
骨の芯まで凍えていた体が、炎のぬくもりで少しずつほどけていく。
……こうして少しでも落ち着ける夜が、また訪れるだろうか。
ふと、岸本のことも思い出す。
あのとき、たしかに一緒に店を出て、駅前で別れた。
明日から自分が姿を現さなくなっても、「シフト勘違いしたんでしょうねー」なんて、のんきに言いそうな気がする。
(会いたい人間が、何人もいる)
それだけでも、恵まれていたのかもしれない。
心細さに浸ってしまう前に、目を閉じて深呼吸をひとつする。
そのときだった。
ぶわり、と胸元から淡い光がにじみ出た。
クソダイスだ。
首からぶらさがった、あの謎の六面体が、またしても発光している。
(また……出やがったか)
光に気づいた少女が、ぴくりと肩を揺らした。だが、逃げるような素振りは見せない。
代わりに、少しだけ視線を逸らし、そっと距離をとるように身体の向きを変えた。
氷川は、ゆっくりとクソダイスを手に取る。
フレームに浮かび上がったルートの文字──ぼんやりと見えたが、彼はそれを見ようとしなかった。
(もう、振らなきゃいいだけだ)
意識的に目を逸らし、静かに手を離す。
クソダイスは再び首元へ戻り、かすかに光を帯びたまま、重力に身を任せて静かに揺れた。
ふと、フレームの奥に見えるコアの色が、黒くなっているのがわかった。
黒。さっきも見た色だ。
だが、自分の意思で振らなかったのは、これが初めてだった。
この色が意味するものを、氷川はまだ知らない。
ただ、今日はもうクソダイスのことなんて考えたくなかった。
火の光はやわらかく、森は静まり返っていた。
少女も、再び火を見つめている。氷川はそっと地面に身体を横たえ、まぶたを閉じた。
帰れる保証などどこにもない。
それでも、今日くらいは眠ってしまいたかった。
やがて、彼は眠りにつき、少女もまた、そっと目を閉じる。
──時間が、過ぎていく。