命運二-A はじめての誰か
焼けた草のにおいが、まだ鼻につく。
氷川は森の中に倒れこんでいた。息が荒い。全身に絡みつくような汗と、すすで汚れた手足。後ろを振り返ると、草原のほうにまだ赤い光がちらついている。
なんとか逃げ切れた。だが、足はもつれ、呼吸も荒い。視界の端がわずかに霞む。
胸元にぶら下げたあの“クソダイス”は今は沈黙している。首元でただ揺れているそれを一瞥し、氷川は肩にかけていた水樽を乱暴に地面へと下ろした。
がさり──
藪が揺れる音に反応して、氷川はびくりと身体を起こす。そこに立っていたのは、一人の少女だった。年の頃は十二〜十四歳ほどだろうか。首元で揺れる、まっすぐな黒髪に、薄手の布を巻いただけの素朴な装い。氷川を見つけると、一瞬だけ目を見開いて、すぐに身を縮めた。
「えっと……ごめん、怖がらせたなら……その、怪しい者じゃないよ。」
声をかけても通じる様子はない。少女はさらに数歩後退したが、足元がふらついていた。顔色も悪い。
「……み……ヅ……」
か細く、途切れがちな声。それが、唯一聞き取れた言葉だった。
(喉が渇いてるのか……)
氷川は樽から木の器を取り出し、水を注ぐ。ゆっくりと地面に置き、距離をとったまま、少女を見た。
「飲めるよ……それ」
警戒したままの少女が、おそるおそる近づく。そして、震える手で器を持ち、口をつけた。
ごく、ごく、と静かな音だけが森に響く。
飲み終えた少女は、はあ、と息をつきながら、再び氷川を見つめた。
少しだけ、緊張が和らいだように見える。氷川がそっと近づくと、少女は怯えながらも逃げようとはしなかった。すぐ横に腰を下ろし、ふたりは言葉もなく、ただ黙って時間を過ごす。
風が通り抜け、木々の葉をかすかに揺らす音が耳に残る。
空はすっかり色を失い、辺りはゆっくりと闇に沈んでいった。
月は高く昇っていた。光は弱く、森の奥までは届かないが、
闇に慣れた目には、木々の形や足元の草がかろうじて見分けられる程度の明るさがあった。
言葉は交わせない。それでも、こうして誰かと並んで座っていることが、不思議と心を落ち着けてくれる気がした。
ふと──
胸元のサイコロが、淡く光を帯び始めた。
少女がびくりと肩を震わせ、身じろぎひとつできなくなる。
その視線の先にあったのは、ほんのりと光を放つクソダイス。
火でもない、油でもない。燃えているわけでも、煙が出ているわけでもない。
──けれど、確かに光っている。
少女が怯えるのも無理はなかった。
この少女にとって、“灯り”とは火に限られたものなのだろう。
こんな光など、見たことがあるはずもない。
氷川自身でさえ──このサイコロ……いや、クソダイスが、何なのか、未だにわかっていない。
氷川が手に取ると、フレームに再び文字が浮かび上がる。
① 手足が微妙に長くなる
② どこかで誰かが盛大に転ぶ
③ 森の空気がわずかに甘くなる
④ 身体のどこかに“焼印”が刻まれる
⑤ 異なる言語間での意思疎通が可能になる
⑥ とても嫌な夢を見る
コアの色は黄。
氷川は無言で見つめる。
隣に座る少女もまた、息を呑んだように動かない。
──このままでは、また怯えさせてしまう。
氷川はそっと息を吐き、フレームの一の目に指を伸ばした。
隣を見る。少女は、固まったように動かないまま、じっとクソダイスの光を見つめていた。
氷川は、目を細め、静かに息を吐く。
「……⑤、出てくれ……」
ただ、それだけを願いながら──
氷川はおそるおそる、一の目を押した。
コアが、くるくると静かに回り出す。
何も知らない自分の指先が、その未来を選び取っていく。
──④
出目が確定した。──いや、“ルート”が定まったと言うべきか。
氷川が思わず息を呑んだ、その瞬間──
左腕に、焼けつくような衝撃が走った。
「──ッ!」
全身が強張り、反射的に地面へと膝をつく。腕を見下ろすと、皮膚の上に赤く膨れた線が浮かび上がっていた。まるで何かに押し当てられたかのように、不規則な痕が刻まれている。
「い、いたっ……!」
苦痛に顔をゆがめる氷川と、恐怖に震える少女。少女は一歩、二歩と後ずさり──そして、湿った土の上に膝をついた。
だが、少女はその場から動こうとはしなかった。
目を見開いたまま、氷川を見つめていた。怯えきってはいたが、ほんのわずかに、その足が氷川の方へ傾いていた。