命運一-C
喉が潤い、ようやく息が整ってきた。
氷川は地面に腰を下ろすと、水樽を膝に抱えたまま、しばらくのあいだぼんやりと景色を眺めていた。草の衣服が風にそよぎ、頬をかすめる風もどこか穏やかに感じられる。
ようやく、考える余裕ができてきたのだ。
(……このサイコロ、なんなんだ)
視線を下げると、水面に揺らぐ自分の顔――そして、胸元で揺れているサイコロの姿が映っていた。まるで飾りのようにぶら下がる、それは妙に主張の強い存在感を放っている。
外側の立方体。
その透明な六面に、以前は見えなかったはずの文字が突然浮かび上がり、そして消える。
中には、また別のサイコロが入っていて、外側の一の目を押すと回り出す。そして、中のサイコロは色が変わる。
(この外側のサイコロを……そうだな、“フレーム”って呼んでおこう)
思考の整理を兼ねて、心の中でひとつずつ名前をつけていく。言葉にすることで、ほんの少しだけ、この奇妙な現象が現実のものとして理解できる気がした。
(中のほうは……“コア”でいいか。内側の核。回ることで、何かが決まるんだ)
そして――文字だ。
最初に表示される、あの不可解な文面。
それが意味するものを、氷川はようやく認めることができた。
(あの文字が現れて、どれかが“起きる”……選択できるわけでもない。だったら、あれは“ルート”なんだ。俺が進まされる道……)
フレーム、コア、ルート。
名づけたことで、少しだけこの状況に踏ん切りがついたような気がした。
サイコロを握り、氷川は深く息を吐いた。
まだ不安は尽きない。けれど今は、この水と衣服がある。
そして、名前を与えた“何か”が、少なくとも自分を殺そうとはしていないことだけが、唯一の救いだった。
それにしても、これは――なんと呼べばいいのだろう。
サイコロ、というにはあまりにも異質で。けれど他にぴったりの言葉もない。
少なくとも、今はまだ。
――と、そのとき。
胸元のサイコロに、またルートが浮かび上がった。
(……今度は、どんなのが出てくるんだ?)
眉をわずかに上げながら、氷川はその光景を見つめた。
恐怖や嫌悪ではない。わずかに、期待すら混じったまなざしだった。
氷川は立ち上がり、胸元のサイコロを見下ろした。
新たなルートが、また六つ。淡い光のように、フレームの表面に文面が浮かんでいた。
① 喉が渇きにくくなる
② 木の枝の中から、矢じりのような石が見つかる
③ 体が軽くなり、走るのが少し速くなる
④ 昼寝をしたように、疲れが一気に抜ける
⑤ 草の中に、小動物の姿を見つける
⑥ 近くの草に、火が灯る
思わず小さく笑みがこぼれる。
どれもこれも、ありがたいものばかりだ。さっきまでと比べれば、まるで夢のような救済。
少し前までは恐ろしさばかりが際立っていたが、こうして便利な効果が続くと、自然と気持ちも和らいでくる。
この奇妙なサイコロにも、少しくらいは信じていい面があるのかもしれない。
そしてまた、ルートが決まる。
⑥
瞬間、草の中で“ボウ”という音がした。
「……え?」
視線を向けた先、ほんの数メートル先の草に、火が灯っていた。
赤々とした炎が、小さな炎が、確かにそこに――
音を立てて、火は燃え広がっていく。
ぽたり、と氷川の背に汗が流れる。
火はあっという間に草原へと広がり、乾いた空気を巻き込んで、周囲の草を次々に呑み込んでいく。
「マジかよ……なんで火…ここまで……!」
荷物なんてない。あるのは首に下げたサイコロと、小脇に抱えている水瓶だけだ。
火の手が迫る。遠くの方からは、ぱちぱちと草がはぜる音。風が吹けば、それだけで一気に広がる勢いだ。
氷川は、走った。
水瓶は――手放さない。絶対に、離さない。
肩にかけ、必死に抱きしめながら、燃え広がる草原から遠ざかるように駆け出した。
火は追いかけてくる。草を焼き、煙をあげながら、まるで氷川を狙っているかのように。
「クソ……クソ……」
息が切れる。けれど、走るしかない。
「このサイコロ……こいつは、クソダイスだ!!」
逃げながら、思わず叫んだ。
あんなに希望を与えておいて、最後の最後にこれだ。ありがたみを理不尽が上回った。
“クソダイス”――そう名づけた瞬間、どこかで何かが笑っているような気がした。