命運零-A そこにいたはずの未来
薄曇りの空に、病院の白い外壁がぼんやりと溶け込んでいた。
まだ午前九時。出勤には少し早いが、通勤ルートの途中にあるこの病院に、つい足が向いてしまう。
「兄ちゃん、また来たの? 暇だね」
ベッドの上で器用に寝返りを打ちながら、妹がからかうように笑った。
「そうでもないよ。出勤前にちょっと寄っただけ」
病室には、薄いカーテン越しの光がやわらかく差し込んでいる。どこか日常とは切り離された静けさが、ここにはあった。
彼女は昔から身体が強い方ではなかった。季節の変わり目には熱を出し、部活の遠征にはいつもギリギリで参加できない――そんな妹が今、長期入院を余儀なくされている。
「でも、安心してていいよ。秋から社員になる話、正式に決まったからさ。入院費のことは気にすんなよ、莉子」
「……ほんと? すごいじゃん」
莉子の目がわずかに潤んだ気がしたが、すぐに茶化すように視線を逸らした。
「じゃあ、私が退院するときはスーツ姿で迎えに来てよね」
「はいはい、検討しとくよ」
時計を見ると、もう出ないといけない時間だった。リュックを背負い直し、ベッド脇に置いたペットボトルを立て直してから、そっと病室を後にした。
これが、いつも通りの朝だった――この日までは。
病院を出ると、外はいつの間にか日が差していた。雲の切れ間から伸びる陽射しに目を細めながら、自転車にまたがる。
少し肌寒い風が、シャツの隙間から忍び込んできた。季節は、桜がちらほら咲き始める、穏やかな春だった。
坂を下りきった先の商店街に、小さなリサイクルショップがある。看板には『トレジャー再販堂』と手書きのロゴ。午前十時ちょうど、シャッターの前で立ち止まった。
「おはようございます!」
店の奥から、元気な声が飛んでくる。髪を後ろでラフに束ねた同僚の岸本が、ホウキを片手に顔を出した。
「陽磨さん、おはようございます」
氷川は片手を上げながら、苦笑する。
「岸本さんおはよう〜。でも、仕事のときは氷川呼びでお願いな?」
「えっ、あ、そっか。すみません、つい」
「陽磨さんって、プライベート感あるっていうか……まあ、そっちで慣れちゃってるから仕方ないけどな」
岸本は、大学時代からの後輩で、今も変わらず同じ店で働いている。
「ふふ、了解です。じゃあ氷川さん、開店準備は私がやりますから、昨日の買取品チェック、お願いできます?」
「おっけ。ちょうど気になってたんだ、あの山」
店の奥に目をやると、買取品を詰め込んだダンボールが山のように積まれている。雑貨、古本、家電、どこから流れてきたのかわからないものまで――まさに「トレジャー」。
氷川はひとつひとつを丁寧に確認しながら、検品チェックシートに目を通す。
そのときだった。
ダンボールの中身を確認していた氷川の手が、不意に止まった。
何か違和感があった。無意識に目を向けた先に、ひときわ異質な光沢が紛れていた。
棚のすき間。紙くずやCDケースの影に、ひっそりと転がる透明な六面体。
光が差し込んだ拍子に、わずかにきらめいたような気がした。
どういうわけか、それが目に入った瞬間、手が勝手に伸びていた。
「……これは」
氷川は手を伸ばし、それをそっと拾い上げた。
手のひらにすっぽり収まるほどの、やや大きめのサイコロだった。
透明なは、滑らかでひんやりとしていて、硬質な光沢を放っている。
透明なサイコロの内側には、白く小さなもう一つのサイコロが――まるで中空に浮かぶように、中央で微かに揺れていた。
外殻にも、中のサイコロと同じように一から六までの目が刻まれており、首から提げられるように、紐を通せる構造にもなっているらしい。
氷川は知らなかった。
この瞬間から、自分が“今”に属さなくなることなど…。