第九話 仮面の奥、わずかな温度
その夜、王宮には雨が降っていた。
窓を叩く小さな水音が、静まり返った廊下に反響する。
ティナは、研究室の奥――誰もいない書庫の片隅で、背を壁に預けて座っていた。
指先は冷たく、本のページも進まない。
理由は分かっていた。
今日、レオニスとすれ違ってからずっと、心の奥がざわついているのだ。
(大丈夫。私はもう、揺れたりしないって決めたのに)
それでも、香水の香りに気づいた彼の顔が、脳裏から離れなかった。
***
「こんなところにいるなんて、珍しいね」
低く柔らかな声が、背後からかかった。
ティナは驚きもせず、ゆっくりと顔を上げた。
「……シリウス殿下」
第一王子シリウスは、濡れた黒髪に軽く手を通しながら、扉の傍でこちらを見ていた。
「今日の君、少しだけ隙がある。だから、気になってね」
「……隙なんて、私には必要ないはずなんですが」
「そうだろうね。
でも、たまには“剥き出しの自分”を許してもいいんじゃない?」
ティナは黙った。
その言葉が、どこか深く胸に刺さったから。
シリウスは静かに彼女の隣に腰を下ろした。
床に直接座るなど、王族らしからぬ行為――だが彼は、それを気にした様子もない。
「僕がここに座ったこと、秘密にしてくれるかい?」
「はい。でも……なぜ?」
「君がそうやって、誰にも言わずにいるからだよ。
秘密を守る人間の隣なら、少しだけ安心できると思って」
ティナの喉が、かすかに震えた。
(この人……本当に、何を考えているのか分からない)
けれど、どこか居心地が悪くない。
いや――心が、少しだけ軽くなったのだ。
「……私ね、レオニス様と婚約していたの」
言葉がこぼれ落ちた瞬間、自分で驚いた。
今まで誰にも言わなかった。言うはずがなかった。
けれど、今。
この雨音の中、この沈黙の中――ティナの仮面が、ほんのわずかに外れた。
シリウスは驚きもせず、ただ小さく頷いた。
「やっぱり、そうなんだ」
「え……」
「なんとなくだけど、君の瞳は“見たことのある痛み”を映してた。
恋をして、信じて、そして裏切られた人間の目だ」
ティナの胸が締めつけられる。
「なぜ、そんなことが……」
「僕も似たような目をしていたからだよ。……昔ね」
***
静かな時間が流れる。
誰も知らない、誰にも触れられない場所で、二人だけが寄り添っている。
それは、恋でも慰めでもなく――戦う者同士の、わずかな共感だった。
「……少しだけ、楽になりました」
ティナがそう呟くと、シリウスはほんの少し、目を細めて微笑んだ。
「それは良かった。
君のその言葉、もしかしたら今夜の一番の収穫かもしれないね」
雨はまだ降り続いている。
けれどティナの胸の中にあった靄は、少しだけ晴れていた。
(誰にも許さないと決めていたのに……あなたには、なぜか)
仮面の奥に、微かに残った温度。
それが、心のどこかに灯り始めていた。
***
夜の書庫を出てからも、ティナの心は妙に静かだった。
何かを打ち明けてしまった罪悪感はなく、ただぽっかりと胸の奥に空いたスペースが、ほんのり温かさで満たされたままだった。
(……こんな気持ち、いつぶりだろう)
王宮の廊下をひとり歩きながら、ティナは自分の中に残った“揺れ”を噛みしめる。
告白のようなものではなかった。
秘密を暴いたわけでもない。
ただ、“私”という存在の一部を、他人に預けた。
それが、こんなにも静かに心を和らげるとは、思いもしなかった。
***
自室に戻ると、窓の外ではまだ雨が降っていた。
濡れた空気が部屋の中にじわじわと染み込んでくるような、そんな夜だった。
ティナはロウソクを灯し、机に頬杖をついたまま窓の外を眺めていた。
(シリウス殿下は……不思議な人)
最初はただの“冷たい男”だと思っていた。
仮面を被り、誰にも心を許さず、利用できるものだけをそばに置く。
けれど、今夜の彼は――ただ静かに、隣にいてくれた。
「剥き出しの自分を、許してもいい」
その言葉が、なぜか胸に残って離れない。
(私は……誰かに許されたかったのかな)
そんな自分に気づいて、ティナは小さく笑った。
***
――翌朝。
ティナはいつもより早く研究室に着いた。
けれどそこには、すでにシリウスの姿があった。
「早いね、ティナ。眠れなかったの?」
「いえ。ただ……今日は朝の空気が綺麗だったので」
嘘ではない。
けれどそれが全てでもない。
ふと目が合う。
彼の瞳には、何も問い詰めるような色がなく、ただ“知っている”という静かな優しさがあった。
「……昨日は、ありがとう」
その言葉は、ほんの囁きのように小さかった。
でも、確かにシリウスの耳に届いた。
「どういたしまして」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
でも、ティナはその沈黙が嬉しかった。
***
その日の午後、ティナは記録庫で資料整理をしていた。
膨大な書類の束の中に、見覚えのある印が目に留まった。
(これは……ベローチェ・ディ・アルヴァレスの使用人一覧……?)
なぜこんなものがここに?
思わず指先が震えた。
ページをめくると――
そこには、彼女が処刑された“翌日”の日付で、一人の使用人の行方不明記録が記されていた。
(アデル……わたしの侍女……)
誰よりも忠実で、誰よりも近くにいた存在。
けれど、ティナが姿を消してから、一度も名前を聞くことがなかった。
(彼女は……何を知っていたの?)
その時、不意に背後から物音がして、ティナは素早く書類を閉じた。
「……熱心だね。こんな記録まで読むとは」
シリウスが立っていた。
その表情は穏やかだったが、瞳の奥には確かな興味が浮かんでいた。
「使用人の行方が気になりまして。昔の記録から何か学べるかと思ったんです」
「……そうか。だとしたら、君は想像以上に賢い」
静かな声に、ティナの鼓動が少しだけ跳ねた。
「――でも、気をつけて。記録には、真実が書かれていないこともあるから」
その言葉が、何かを知っている者の“助言”のように響いて、ティナは黙って頷いた。
***
その夜。
シリウスはひとり、書庫の隅に残された書類を手にしていた。
そこには、すでに消されたはずの名――ベローチェ・ディ・アルヴァレスの印が、かすかに残っていた。
「……やっぱり、君か」
けれど、シリウスはそれを握りつぶすことも、誰かに告げることもしなかった。
ただ――その名を、そっと胸にしまい込むように、静かに目を閉じた。
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