第八話 かつての名を呼ぶ者
中庭に咲く白薔薇が、春の風に揺れていた。
ティナは、昼休みの短い時間を使って、王宮の一角にある図書室へと向かっていた。
魔導に関する古書の整理という任務だったが、本当の目的は――記録の中に“彼女を陥れた証拠”を探すことだった。
(セレナが倒れたとき、周囲にいた侍女の名、使用された器の納品日……どれかに、手がかりがあるはず)
静かな廊下を抜け、図書室へ入ったその瞬間――
聞き覚えのある、低く優しい声が背後から響いた。
「……ティナ?」
息が止まりそうになった。
この声を、忘れるはずがなかった。
レオニス・アルフェリード第二王子。かつての婚約者。
そして、断罪の日に“彼女を信じきれなかった男”。
***
「……はい」
ティナは振り返る。
けれど、瞳の奥には警戒と決意が宿っていた。
レオニスは、少し驚いたように彼女の顔を覗き込む。
だが表情には、どこか重苦しい陰があった。
「すまない、君を誰かと……少し似ていたから」
その一言に、ティナの胸の奥が微かにざわつく。
(――やっぱり、まだ“私”を忘れてないのね)
だが、それを顔には出さない。
「よく言われます。世の中には、似た顔の人がたくさんいるようですね」
微笑みとともに、少しだけ腰を下げて頭を下げる。
「失礼いたします。業務中ですので」
そう言って、すれ違う。
彼の横を通り過ぎた瞬間――ティナは、レオニスが小さく息を呑むのを聞いた。
「……香水の匂い……まさか……」
(やめて。気づかないで)
その香りは、ベローチェ時代からずっと使っていたもの。
それを、なぜ今も使ってしまっていたのか――ティナ自身、答えを持たなかった。
***
図書室の奥。
心臓の鼓動がなかなか落ち着かない。
ティナは静かに本を開きながら、冷たい指先を隠すようにページをめくった。
(香水なんて……迂闊だった。気づかれたかもしれない)
あの日の言葉、あの日の瞳――すべてが、まだ心に棘を刺していた。
信じてほしかった。たった一人、レオニスだけは。
でも彼は、信じなかった。
***
その日の夕方。
研究室の廊下に戻ったティナに、第一王子シリウスが声をかけた。
「ずいぶん顔色が悪いね。何か、あった?」
「……少し、昔を思い出しただけです」
ティナはそう言ったが、シリウスは目を細めた。
「“昔”? 君のような年齢の娘が、そんな言い方をするのは珍しい」
からかうような声色。けれどその瞳は――冴えた探偵のように、じっと彼女を見ていた。
ティナはわずかに微笑んだ。
「私の“過去”は、少し濃いので」
「ふぅん。……やっぱり君は、面白いね」
シリウスは、それ以上何も言わずに歩き出した。
けれどその背中には、僅かな嫉妬の影が、ほんの少しだけ滲んでいた。
***
その夜。
ベッドに横たわりながら、ティナは空を見上げた。
(もし、あのとき違う選択をしていたら……)
答えのない問い。
けれど、もう過去にすがっている余裕はない。
香りに気づいたレオニス。
彼がもし、自分の正体に気づいたら――?
(……まだ、だめ。今は、動けない)
ティナは目を閉じた。
再びあの冷たい広場に立たされる夢を見そうな予感と共に。
1日2回更新で、12時・19時に更新を予定しています。
皆さんに楽しんでもらえたら嬉しいです、気に入っていただけたら下の☆マークとブックマークもお願いします。