第六話 仮面の奥に、揺れる影
王宮に吹く風は、朝も昼も変わらず冷たい。
だがその日、ティナの背に感じた風は、わずかに――鋭かった。
(……来たわね)
いつものように研究室へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わったことにティナはすぐ気づいた。
誰かがわざとらしく咳払いをし、視線が一斉に自分へと集まる。
わずかにざわめき、すぐに静かになる。その沈黙の意味を、彼女はよく知っていた。
「おはようございます、侍女長」
ティナはいつもと変わらぬ調子で挨拶をする。
だが、マリーネの返事はなかった。
その代わりに、彼女は静かに歩み寄り、白い手袋の指で書類棚を軽く叩いた。
「こちら、あなたの整理した報告書。誤字がいくつかあるようね。
第一王子の目に触れる前に……訂正しておいてくださる?」
声は穏やかだが、確実に“仕掛けて”きている。
「承知しました。ご指摘、ありがとうございます」
ティナは一礼して受け取る。
だが、報告書に目を落とすと――誤字などひとつもない。
(なるほど、"反撃"ね)
昨日の件で、彼女はマリーネに借りを作ったつもりはない。
だが、相手はそう思ってはいないのだろう。
そしてこの“揺さぶり”は、まだ始まりに過ぎない。
***
「ティナ」
昼休み、廊下でその名を呼ばれた。
振り返ると、黒髪の青年――シリウス・ヴァルフォード第一王子が、壁にもたれかかっていた。
「少し、時間あるかな?」
「はい。何か、ご用でしょうか」
「昨日の件……マリーネのことで、君は一切言い訳をしなかったね。
普通なら“私じゃありません”と反論するところを、君は黙って受け止めた。理由を聞いてもいい?」
ティナは、ほんの一瞬だけ視線を泳がせた。
だがすぐに口元に笑みを浮かべる。
「言い訳は、疑われている証拠になりますから。
それに――侍女長は私を嫌っていらっしゃるようですし」
「嫌われるようなこと、した?」
「さあ……? 平民のくせに王子の傍にいるのが、気に入らないのかもしれません」
その言葉に、シリウスの瞳がかすかに揺れた。
「君、本当に平民かい?」
唐突なその問いに、ティナの背筋が一瞬だけ硬直する。
「……冗談がお上手ですね、殿下」
笑って返す声は、少しだけ掠れていた。
シリウスはそれを見逃さなかった。
「冗談、ね。……でも、君の振る舞いは“誰かに仕える側”には見えないんだ。
まるで、他人の言葉よりも自分の意思で動く“貴族”のように見える」
ティナはその場で一礼し、丁寧に言った。
「褒め言葉として受け取っておきます。
……私は“今”は平民ですから」
“今は”。
その言葉を、シリウスはしっかりと拾っていた。
***
午後の業務が終わり、ティナは自室に戻る。
扉を閉めた瞬間、ようやく息を吐いた。
(シリウス殿下……やっぱり鋭い。下手をすれば、正体を見抜かれる)
そして、マリーネ。
彼女は今後も小さな罠を仕掛けてくるだろう。
だがティナは、もはや焦ってはいなかった。
(私は“昔の私”じゃない。
正面から殴り合うのではなく、静かに、冷静に――“情報”で、崩す)
かつてのわがままな令嬢は、もうどこにもいない。
この静かな王宮の中で、彼女は仮面を被りながら生きることを選んだのだ。
***
夜、誰もいない廊下を歩くシリウスは、天井を見上げながら小さく呟いた。
「ティナ。君はいったい、何を隠してる?」
彼の声に、返事はない。
ただ、長い影が床に伸びて、闇へと溶けていく。
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