第四話 月の檻
夜の王宮は、息を呑むほどに美しかった。
天井に吊られた豪奢なシャンデリアは灯りを落とし、窓から差し込む月の光だけが、静かに大理石の床を照らしている。
ティナは、誰もいない廊下に一人立っていた。
手には誰かから渡された古い書類束。けれど、そんなものは今、どうでもよかった。
足を止めた理由は、身体の疲れでも仕事の重さでもない――心が耐えられなかったのだ。
(この宮殿は、まるで檻……光があっても、冷たい)
昼間の記憶が、重く心にのしかかってくる。
すれ違う侍女たちの冷たい視線。
「平民のくせに王子の傍?」と、小さな声で囁く陰口。
笑顔を作り、何も聞こえなかったふりをするたびに、自分の中の何かがすり減っていくのを感じていた。
そして今、そのすべてが、静寂の中で蘇る。
***
ティナは、ゆっくりと壁に寄りかかった。
月光が長い廊下をなぞり、彼女の影だけを床に落とす。
その影は、細く、脆く、今にも崩れそうだった。
(わたし、なにしてるんだろう)
心の中で、ぽつりとそう思った。
復讐のためにここにいる。冤罪を晴らすため。
でも、その道のりの中で、自分が誰だったのか、何を信じていたのか――だんだんと分からなくなってきていた。
ベローチェだった頃。
誇り高く、わがままで、それでも確かに“自分”を持っていた。
今の「ティナ」は、仮面だ。過去を隠すための、もう一つの顔。
(……もう、本当の自分なんて、どこにもないのかもしれない)
喉の奥が詰まりそうになる。
でも、泣いてはいけない。泣いたら、全部崩れてしまいそうだった。
誰にも頼れない。
誰にも甘えられない。
それが、ここで生きるということだ。
***
彼女の視線が、ふと廊下の先にある大きな鏡へと向いた。
誰もいないはずのその鏡には――ひとりの少女が、ぽつんと立っていた。
それが自分だと気づくまで、少し時間がかかった。
(誰……?)
細身の身体。目立たない制服。
その中で、唯一輝いていたのは――焦燥と孤独に濁った瞳だった。
「わたし、弱いのかな……」
小さく、誰にも届かない声で呟いた。
反響もない。返事もない。
月光だけが、ティナの頬を静かに照らし続けている。
***
だけど。
それでも、彼女は鏡の中の自分から目を逸らさなかった。
その瞳に、ほんのわずかに宿った火。
怒りとも、悔しさともつかない、名もなき感情。
それだけが、彼女を支えていた。
(……絶対に終わらせる。このままじゃ、終われない)
震える手で、書類を胸に抱えた。
その紙の重みが、まるで自分の命を抱えているかのように感じられた。
(孤独でも、焦っても、もう引き返せない)
静寂の廊下を、ティナはゆっくりと歩き出した。
足音だけが、長い影とともに夜の王宮を進んでいく。
それはまるで、月の檻に囚われたひとりの少女が、再び立ち上がった音のようだった。
1日2回更新で、12時・19時に更新を予定しています。
皆さんに楽しんでもらえたら嬉しいです、気に入っていただけたら下の☆マークとブックマークもお願いします。