第十七話 夜が明けるまでに、あなたに伝えたいこと
夜の王宮は、嘘のように静かだった。
誰もが臨時裁定の余波に呑まれ、ざわめきも沈黙も、ひたすらに重たい。
そんななか、ティナはひとり、図書室の奥のアーチ窓に身を預けていた。
外では細かな雨が降っている。その雨音が、胸の奥にゆっくり沁みてくる。
(終わったはずなのに……何も終わってない)
セレナは謹慎処分となり、正式な裁定は来週に持ち越された。
ローザの証言も、アデルの補足も、有効とされる形で記録された。
けれど――それでも、心は騒ぐ。
何かがまだ、“足りない”。
(……怖いのかもしれない。私自身が)
勝利ではなかった。
名誉の回復でも、復讐の達成でもない。
ただ、「生きて、今ここにいる」という事実だけが、彼女の胸に残っていた。
そして、それがあまりにも重たくて。
苦しくて、誇らしくて、少しだけ……寂しかった。
***
「まだ、起きてたんだね」
聞き慣れた低い声が、背後から響く。
振り返ると、そこにはシリウスがいた。
濡れた黒髪に手を通しながら、ティナの横に歩み寄る。
「この時間に来るなんて、珍しいですね」
「君が寝てない気がしたから」
「……そんな理由で?」
「そんな理由で」
彼はためらいなくそう言った。
ティナは口元にわずかに笑みを浮かべた。
二人は、窓辺に並んで座った。
言葉はなかった。ただ、雨音だけが流れる。
「ティナ」
彼が名前を呼ぶ。その声音は、いつものように柔らかく――でも、どこか苦しげだった。
「君が、もうどこかへ行ってしまうんじゃないかって……ふと思った」
「どこへも行きませんよ。少なくとも、やることをやるまでは」
「そういう“覚悟”のある目を、君はしてる。
でも……“心”はどこにあるんだろうって、いつも気になってた」
ティナは、はっと息をのむ。
まさかシリウスに、そんなことを言われるとは思っていなかった。
「君の心が、ずっと曖昧だったから。
君は誰のものでもなくて、どこにも寄りかからなくて、ただ前だけを見てたから……少しだけ、ずっと、怖かった」
「怖かった……?」
「自分が、君にとって“何者にもなれない”まま終わるんじゃないかって」
静かに告げられた言葉は、ティナの胸を震わせた。
曖昧な関係。淡い距離。それは、彼の意思でもあったのだと、ずっと思っていた。
けれど、違った。
彼もまた、迷っていた。
“踏み込むこと”を。
「……私は、あなたがずっと“他人”でいてくれるって、勝手に思ってました」
ティナの声は、かすかに震えていた。
シリウスの目を見られないまま、窓の外の雨を見つめる。
「誰にも頼らず、誰にも期待せず……それでいいって、思ってたんです。
それが“強い自分”だって、思い込んでました」
「でも、本当は?」
「あなたに……甘えたかった。
私のすべてを知られた上で、それでも隣にいてほしいって、そう思ってました」
ぽつり、と。
誰に見せることもなかった心の奥が、声になる。
「でも、怖かった。
もう誰かに受け止めてもらえるとは、思ってなかったから……」
その瞬間、シリウスがそっと手を伸ばし、ティナの頬に触れた。
指先が温かい。震えていたのは、ティナだけじゃなかった。
「君が何者であっても、君が過去に何をしたとしても、
今の君が“僕に寄りかかってもいい”と思ってくれるなら……僕は、それを拒まない」
ティナの瞳が揺れる。
「僕は君を“守る”なんて言わない。
でも、君がこれからも立ち続けるのを、“隣で見ていたい”とは思ってる」
その言葉は、ティナの心の奥で、何かを溶かした。
「ありがとう、シリウス……」
そっと、顔を伏せながら、その名を呼ぶ。
それは、ただの礼ではなく――心を開いた証だった。
***
雨が止んだ頃、二人は外の廊下に出ていた。
夜風が涼しく、月が少しだけ顔を覗かせていた。
「ねえ、シリウス」
「うん?」
「これから、どうなると思う?」
「裁定の行方?」
「それもあるけど……私たち」
シリウスは立ち止まった。
そして、ティナの手をそっと取る。
「僕たちは、“一緒に在る未来”を選ぶこともできる。
ただ、それには――君の本当の名前を、もう一度、僕の口から呼ばせてくれないか?」
ティナは息をのんだ。
「ベローチェ・ディ・アルヴァレス。その名を“否定”してきた君に、それでも“今の君”として、寄り添いたい」
ティナの目から、ぽろりとひと粒、涙がこぼれた。
「……いいですよ。あなたなら、その名前を預けても」
そして、二人はそっと、指を絡めた。
それは契約でも、誓いでもなかった。
ただの、確かな“心”のつながりだった。
***
翌朝、王宮に小さな騒ぎが起こっていた。
セレナ・ミルフォード令嬢が、謹慎中の部屋から忽然と姿を消したという報せが、上層部に駆け巡っていたのだ。
「看視役を買収した可能性があります」
「いや、外部からの手引きだという話も……」
混乱する中、ティナは、報告を受けてもなお、静かだった。
ただ、その目の奥には確かな“戦う意志”があった。
(やっぱり、逃げなかった。逃げるくらいなら、セレナは――仕掛けてくる)
そして彼女の予想通り、午後遅く。
王宮内の掲示板に、匿名で送られた“ある告発状”が貼られていた。
【ティナ・アルヴァレス(旧姓ベローチェ)は、自身の魔力と身分を隠し、王宮に潜入していた。
これは王宮法第13条、偽名使用による潜入行為として罰せられるべき事案である】
――名義:正義の目
ザワ……と、空気が揺れる。
人々がざわつき、噂が一気に広がる。
(来た……これが、セレナの最終手)
“ティナ”という仮面を剥がし、
“ベローチェ”としての罪を問うことで、逆転を狙う策。
だが、ティナの心は――不思議と、静かだった。
「さて……ならば、私も“本当の名前”で、終わらせにいきましょうか」
***
夕方、シリウスはティナの執務室に現れた。
その手には、匿名告発状の写しがある。
「読んだよ」
「ええ、私も。……ついに、仕掛けてきましたね」
「君がこのまま追放される可能性もある。……でも、それでも僕は、君を手放さない」
その言葉は、以前よりも強く、揺るぎなかった。
「私は、すべてを明かします。
名を偽っていたことも、魔力を隠していたことも。
そのすべてを、“セレナの罪”と共に提示するつもりです」
「そのとき、君がもう“王宮にいられない”としても?」
「私は、もう“嘘で生きていけるほど器用じゃない”。
ベローチェとしての誇りを、ようやく思い出したんです」
そう言ったティナの顔は、凛として美しかった。
シリウスは一歩近づき、そっと彼女の手を握った。
「だったら、君がすべてを告げるそのとき、
“君の隣に立つ者”として、僕もすべてをさらけ出そう」
その言葉に、ティナは目を見開いた。
「……それって」
「王宮での地位も、王子という立場も、捨てることになるかもしれない。
でも僕は、君と同じ道を歩くために――“君を選ぶ”。」
そして、静かに夜が更けていく。
明日、ティナはすべてを語る。
自分の名を、過去を、そして未来への選択を。
仮面は、もういらない。
王宮に響くその声が、“真実”と“赦し”と“希望”をもたらすものになるように。
1日2回更新で、12時・19時に更新を予定しています。
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