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鼠色の厚い雲が空を覆い、そこから舞い下りる雪は、強風に吹かれて、打ち付けるように地面にその身を募らせていく。
純白の雪を身にまとう地面を横目に、肌を刺す冷たい空気にクロエは身震いした。中庭が見える回廊を駆け足で歩きながら、漆黒の髪で赤く染まる耳を隠して、クロエは両手に吐息を吹きかけた。微かに手先が温まったような気がしたが、それも一瞬で、再び指先は冷気に包まれて冷たくなる。
ようやく目前に校舎の入り口が見え、身体を滑り込ませるようにして室内へ入ったが、そこも冷気に満ちていて、外気と変わらないくらいの寒さを感じた。クロエは再び駆け足で教室へと向かう。
(早く参考書取って帰ろう)
教室が見えた。誰もいないはずの教室から、微かに声が聞こえる。扉が閉まっているため、くぐもった声だが、確かに誰かの声が聞こえる。
(今日確かルートが先生に呼ばれたって言ってたな。まだ残ってるんだ)
クロエはそっと扉の横に立って、壁に身を預けた。話が終わるのを待とうと思ったのだ。しかし教室内から、突如悲痛な叫びのようなルートの声が聞こえた。
「どうしてですか!?」
クロエは肩を震わせた。驚いてそっと扉を見る。
「卒業試験で実技は首席で合格したじゃないですか!」
その言葉に、クロエは再び胸の奥がしめつけられるのを感じた。罪悪感が、そっと顔をのぞかせる。
「先生は小狐舎(六歳未満の地狐が通う学び舎)からあたしのこと知ってますよね。ずっとあたしが幹部を目指していたことも知ってますよね。こんなの納得出来ません。どうしてなのか、説明してください」
泣き出しそうなその声に、クロエは顔を俯かせた。
「規則だ」
教師の冷淡な声が響いた。その言葉はきっとルートを傷つけただろう。そしてそれと同時にクロエの心もまた、深く傷つけられた。
「主験に筆記を選択し、かつ実技においても共に上位三名に入っている者に、地狐団団長となれる資格が与えられる。そしておまえが目指す地狐団幹部の資格が与えられる者は、主験に筆記を選択し、その合格者の上位十名となった者だ。そして主験に実技を選択し、その合格者は上位五名が団長・幹部補佐、その後二十名から団長・幹部副補佐となれる資格が与えられる。
人間が定めた規則だ。それにそうした資格を得たとしても、実際になることができる者もわずかだ。みんな最初は平の団員から始まり、資格を得た席が空席になるまで待つことになる。だから……」
「そんなこと、関係ないです。あたしは、ずっと……」
震える彼女の声が、更にクロエの胸に深い傷を生む。
知っていた。ずっと前から知っていた。その規則があるから、自分は筆記を選択した。幹部を目指すと笑顔で伝えてくれた友人が、得意な実技を主験に選択すると言っている横で、自分は笑顔を作って、淡々とうそを吐いた。
(私は最低だ)
そう思うのと同時に、クロエは湧き上がるような安堵を覚えていた。
(でもこれで、団長就任資格が得られる)
左目の古傷が、じんわりと熱を持つ。微かににじみ出る温い水分が眼を濡らす。歓喜か興奮か、それとも友を裏切った悲しみか、懺悔か、後悔か。溢れ出るこれは、なにを表しているのか。
唐突に扉が勢いよく開いた。そしてそこから出てきた短髪の少女は、驚きに目を見開いていて、そしてその大きな瞳からは雫が零れ落ちる。
「クロ、エ?」
「あ……」
クロエは小さく声を漏らして、感覚のない冷たい指先を強く握りこんだ。眼を濡らしていた水分が、すうっと引いた。
「ルート」
声は震えることなく、まっすぐに伸びた。感情の揺らぎはない。
すると目の前で驚いていたルートの瞳が、冷たく温度のないものに変わった。それは鋭い刃となって、クロエに突き刺さる。
「どうして、笑ってるんだ?」
彼女の声に、感情はなかった。
「……どうしてって、知ってたからだよ」
「知ってた?」
低い声だった。いままで聞いたことがなかったような、冷たい声。
「ぜんぶだよ。もちろん、幹部を目指すなら、主験に筆記を選ばないといけないってこともね」
淡々と語ったクロエを、ルートは温度のない瞳でまっすぐに捉えていた。
(こんなときでも、こうしてまっすぐに私を見てくれるのは、ルートだけ)
そしてルートは手を大きく振りかぶり、クロエの頬を打った。打たれた頬に熱が集まる。しかしクロエは痛みを感じなかった。ただ、頬を叩かれたと同時に、どこか遠くで何かが壊れた音が聞こえたような気がした。
(私が、彼女の手を離した)
「おいルート!」
教室内にいる教師が制するように声を上げたが、ルートはそれに耳を貸さず、その瞳から次々に雫を零していった。眉間に寄せられたしわから、怒りや悲しみ、そして涙をこらえたいと思う彼女の想いが伝わってくる。
クロエはぼんやりとした眼で、それを見ていた。純粋で無垢で、そして傷ついたルートの瞳から輝き落ちる涙を、静かに見つめていた。
「実技試験で一番になって、卒業試験で主席になれて、幹部になれるかもなんて、馬鹿みたいに喜んでいたあたしのこと、どう思ってたんだ?」
幼い少女の心をちりちりと焼く。朔日に常闇の中で喪った姉と共に、無垢で純真な心は死んだ。だれかを思いやる心はすり減った。己を偽ることが得意になった。そんな変化の中でも、友と慕った彼女を騙した自分を、許せない想いは強くあった。自分の望みには逆らえなかったけれど。
クロエは息を吐くようにして、「はは」と声を出して笑った。
「いまさらそれを聞いて、何になるの」
「あたしは、お前のこと親友だと思ってた。そう思ってたのは、あたしだけだったのか」
純粋で無垢で、そして傷ついたルートの瞳。生にしがみつくことを嘲笑うような残酷で凄惨な世界があることを知らない、優しい瞳。その目に見つめられて、微笑まれて、無条件の愛に包まれて、何度救われたかわからない。
「私は、団長にならなければならないんだ」
クロエはささやくように呟いた。
「その目的のために、不安要素は間引かないといけないんだよ。わかるでしょ」
ルートはその瞳に怒りを宿らせた。激しく燃え盛る憤怒の色。
クロエはそれを見て、笑った。そして友であったルートを目に焼き付けるように、クロエはじっとルートを見つめる。
(こんな残酷な私を、許さないで)
クロエはルートに背を向けて歩き出した。冷気に触れているはずが、一向に頬の熱は溶けない。クロエはルートの視線を感じなくなったと同時に、走り出して、勢いよく回廊に飛び出した。
さきほどまで吹雪いていた雪が、踊り舞うように静かに降っている。風がやんだようだ。外気はやはり肌を刺すような寒さで、クロエは指先にほうっと息を吐き出した。感覚のない手先に、ほんのり温かい空気が触れる。
(あとで参考書、もう一度取りに行こう)
熱を持つ左目の古傷がささやく。おのが深奥にある憎悪を忘れるなと。あの日燃え上がらせた渇望を、再度この胸に焼き付けよと。
だがこの胸は、未練がましくも、しくしくと痛み嘆くのだ。
「ばかだな。最初から、わかってたのに」




