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「───『熱源追跡ブーゲンビリア』」


 ビリアの右掌からひじにかけて、螺旋を描き花が咲き誇る。同時に目を閉じ、開けば、瞳は神秘的で不思議な模様へ変化していた。

 魔眼、というやつだ。瞳のうち黒目や瞳孔など本来存在する部分を全て無視し、ブーゲンビリアの花弁を上から覗き込んだような模様が刻まれている。

 

 ビルの屋上は見晴らしもよく、探し物をするんは打ってつけだ。夜であるが故に光は乏しいが、そこはビリアの力であるならば造作もない。


 笑みを浮かべながら遠方に見える建物を見渡し、そこから数秒が経った。


「見つけた」


 瞬きをすれば、瞳は元に戻った。


「もう少しでヒガンの嬢ちゃんは研究所へ辿り着くな。しかしそう時間は立っていない。まだ間に合うかもしれない」

「おや、流石はブーゲンビリア様ですねぇ」

「これぐらい簡単だ。追跡こそ俺の異能の本領だからな」


 『熱源追跡ブーゲンビリア』。

 『追跡の猟犬ハウンド・トラッカー』の長たる彼の異能は、視界に映る地点に一時的に視界を飛ばし、物体の温度を探知できる魔眼である。


 要するに、千里眼と超高性能のサーモグラフィーを兼ねた力。物理的距離にも遮蔽にも遮られず物体を探知できるため、彼は『追跡』という分野において無類の実力を誇るのだ。


 今、ビリアはアネモネの研究所をその魔眼で見た。そしてそこにいるヒガンを確認したのだ。なぜ彼女だと分かったかといえば、それは高熱を出しているからである。

 それにビリアの魔眼はシルエットとして熱を認識する。明らかにヒガンと同じ姿で、三十九度の熱を持つ少女が中にいたのだ。


「シロ、聞こえてたか」

『あぁ、もう向かってる』


 予め電話を繋いでいたシロへ報告する。ヒガンが研究所へ向かい、今にも異能が発動するかもしれない今は一刻を争う。これは速攻で作戦を実行するための策だ。


『姉さんに抱えられてるからすぐ辿り着く』

「あぁ、だろうな。だが気を付けろ」

「……? 何にだ」

「いるぞ」


 ビルから見下ろす、研究所の周辺。

 一度認識してしまえば、そこにいるそれらを誤魔化す事は出来ない。


「──少なくとも数十体の『狂花人』だ」


 ■


 角を曲がり、視界へ飛び込んできた数十体の『狂花人』。研究所はあともう少しだというのに、彼らはまるで建物を守るように、円を描くように配置されていた。


 花の色はそれぞれ黒、青、赤。

 十中八九、アネモネの作り出した尖兵だ。


「っ、姉さん、グラッ、頼む!」

「うん」

「は~い! 今日も弟のためにお仕事だ~!」


 お姫様抱っこの形で抱えていたシロを降ろし、ユキとグラは戦闘態勢に入った。


「───!」


 こちらを認識し、襲い掛かる狂花人に対し凄まじい反応を見せたのは、やはりユキだ。彼女はコンクリートが陥没するほどの勢いで踏み込むと、腰の入った拳を近くにいた一匹へ叩き込む。

 衝撃が響き渡り、周辺にいた数匹ごと吹き飛んでいった。


「『秘奥魔剣グラジオラス』」


 一歩遅れて前へ出たグラの肩に花が咲き誇る。

 瞬間、まるで大量の宝石を砕いたような音が響き、彼女の肉体の形に沿うように薄紫色の金属が飛び出し、包み込んでいく。


 まるでそれは、もう一つの肉体のようだった。彼女専用にオーダーメイドされた、肉体のような金属の鎧。

 上腕から飛び出た剣を携え、彼女は肉薄した。


「よいっしょぉ~!!」


 襲い掛かってきた狂花人に対し振るわれた横薙ぎの一閃は、強固な肉体を両断するまではいかずとも、半ばまで切り裂いた。

 追撃とばかりにグラは跳び、頭上から蹴りを叩き込む。すると足先から薄紫の剣が飛び出し、狂花人の頭を貫いた。

 地面へ倒れた狂花人を足場にしながら、彼女は次々と戦場で躍り出す。


 『秘奥魔剣グラジオラス』。

 それは外付けの骨として外骨格を出現させ、自在に操る異能である。速度を重視する際は今のように手足だけに刃を集中させ、威力や生存を重視する時は文字通り鎧のようにも出来る、変幻自在な力だ。


『戦闘開始だな。シロ、俺は引き続きここから監視を続ける』

「あぁ、頼む。何かあったらまた教えてくれ」

『それと、恐らくそろそろ───』

「ええ、私の登場です!」


 シロの背後から襲い掛かった狂花人に対し、頭上から躍った人影が踏みつけた。強靭な肉体をもつ狂花人だとしても、上空からの落下の衝撃には耐えられなかったらしい。

 結果として頭は潰れ、上で躍る人影──コケバラは両手を広げると、恭しく頭を下げた。


「この度は親愛なるシロクンをお手伝いする機会を頂き、恐悦至極に存じます」

「マスター!」

「ええ! そうですともマスターです!」

「今日は真面目に頼む」

「アッハハハ! これは気厳しッ!!」


 顔を押さえて笑いながらシロの前に出ると、右手で道端の電柱に触れ、左手を前に突き出した。


「『崇拝模倣コケバラ』」


 瞬間、彼の頭上に数本の電柱。姿形、大きさ、刻まれた模様までも一緒の電柱は、彼の掌の動きに従って狂花人たちへ飛んでいく。

 だが、直撃した電柱は即座に砕け、狂花人の肉体を微かに傷つけた程度だった。コケバラは更に倍の数電柱を作り出すと、それを無数にぶつけ、圧倒していく。


 『崇拝模倣コケバラ』である彼の異能は、中身のない模造品を作り出し、操る事だ。中身のないハリボテあるため、何かしらの衝撃を与えれば破壊されてしまうが、それでも一瞬程度なら効力を発揮できる。要は使いようなのだ。


「シロクン。道を開きます、付いてきてください」

「ああ、ありがとう!」


 最も戦闘力が高いユキが先行して蹴散らし、打ち漏らしをグラが担当。そして機転の利くコケバラが防衛ラインを務めるという作戦だ。

 なお、コケバラが最初ビリアのところにいた理由としては襲撃を警戒しての事である。ビリアが監視しているビル周辺は既にH.Tの面々が固めているが、念には念を入れたという訳だ。


 三人の戦闘力は開花者の中でも上澄み。当然量産型の狂花人ごときに遅れは取らないのだが、大群の恐ろしさとは物量で潰されるところにある。


「うぇ!? なにあれっ!」


 前線を担当していたグラが声を上げた。シロを含めて全員がそちらに視線を向けると、そこにいたのは一風変わった狂花人だ。

 

 巨大。

 住宅ほどの巨躯を持つ、一目で異常だと分かる狂花人。


「……? 人間?」


 ユキの呟きも仕方がない事だ。狂花人とは根本的には人を素体に花が暴走した結果、変化してしまう存在であったはず。だが目の前に現れた巨躯は明らかに人間の範囲を逸脱している。

 咲いている花の色は三色──黒、青、赤。

 

 恐らくだが、三種類の狂花人が組み合わさった特注品なのだろう。アネモネによる人工狂花の副産物である事は疑いようがないが、とはいえあまりにも常識外れの巨体にシロの思考が一瞬止まった。

 

「これじゃもう怪物退治だな……」

「シロ!」

「分かってる。出し惜しみはなしだ」


 花が咲き誇るのと同時に、右手を前に突き出す。


「『運命収束シロバナマンジュシャゲ』」


 光が波となって巨躯の狂花人へ到達。この瞬間、シロと巨躯の狂花人との間に『死の運命』が定まり、運命共同体となった。

 巨躯の狂花人の瞳がシロへ降り注ぐ。本来ならば近くにいたユキやグラへ襲い掛かるはずだったのだろうが、『運命』が決まった以上逃れられない。


「───■■ォ■!!!!」


 意志無き生命体へもそれは伝わったのだろう。

 電柱よりも一回り大きな腕が振り上げられ、シロへ向かって振り抜かれた。車が落下してきたような恐ろしい光景。それに対し、シロは対処の行動を取るまでもなく前へ走った。


「グラ様」

「は~い!」


 プロとは、誰相手でも一定以上の動きを出来る者こそ重宝される。


 コケバラの言葉を受け、グラは自分の肉体から薄紫の分厚い刃を作り出すと、それをコケバラへ投げ渡した。

 彼はすぐさま異能を発動させ、全く同じ刃を量産すると、それを組み合わせ簡易的な盾をシロの前に作り出す。


 簡易的とはいえ、無数の刃によって編まれた防壁は強靭だ。障壁へ直撃した拳へ刃が突き刺さり、その横を走り抜ける事でシロは攻撃を回避した。

 痛みによって怯み、巨躯が後退したところに───


「───」


 悪魔は踊る。


 ありえない速度で空を跳び、顎を右足が蹴り上げる。あまりの威力に巨体が微かに浮いた。追撃としてユキの拳が脳天に叩き込まれ、浮いた巨体が地面へめり込んだ。余波を受けて狂花人たちが倒れていく中、強靭な耐久力を以て、それでもなお巨躯が立ち上がろうとし───


「『零徹閃光スノードロップ』」


 天空から雪が落ち、踵落としが巨体を砕いた。一撃の衝突点を中心としてクレーターが生まれ、余波が暴風となって荒れ狂う。

 巻き込まれた電柱が折れ、電線が千切れ狂花人達へ降り注いだ。


 まるで嵐が訪れた後のような光景。

 これでまだ、手加減しているというのだから恐ろしいとしか言えない。


 全てを破壊したユキは浅く息をつき、振り返った。


「シロ、無事?」

「あぁ、大丈夫だ」

「おやおや、私たちの心配はなしですか……これはこれでありですねぇ」

「うーーわ変っ態……」


 心配してくれるユキへ言葉を返せ、苦言のような歓喜をコケバラが上げ、それに対しグラが顔を顰める。三者三様の言葉を聞きつつも、シロは前へ進む。

 ユキの一撃によって周囲は荒れていたが、狂花人もまた軒並み倒れ、ゆく手を阻む者はいない。


 そしてシロたちは、研究所の敷地へ辿り着いた。先ほどから分かっていたが、人払いは完璧らしい。周辺に建物がない訳ではないが、それでも人っ子一人見当たらない。


「──着いた」


 アネモネの研究所。

 それは、看板のない人の背ほどの壁によって囲まれた長方形の建物である。おおよそ窓のような物は見られず、またデザインに富んでいるような外観ではない。近年見られるような次世代的な建築と似ても似つかない、シンプルな建物。


「ビリアさん。敷地内の敵は」

『敷地内にも大量の狂花人がいる。だが心配する必要はない』

「……? 必要はないってどういう事だよ」


 電話で再度尋ねれば、ビリアから返ってきたのは曖昧な言葉だ。しかし彼は電話越しでもわかるように微かに微笑んだ。


『いいから進めよ』

「そうは言ったって……」

『超えればわかる』


 ビリアの言葉に渋々従い、シロたちは人の背ほどあるカベを乗り越え敷地内へ入った。一応正規の入り口もあるようだが、そこは当然の如く開いていないからだ。

 

「───っ」


 壁を越えた先に現れたのは、アスファルトの無機質で巨大な広場と、その先にある研究施設。シンプル過ぎる建物と同様に、敷地内すらもシンプルだった。

 

 だが、異常があったのはその中心だ。

 なぜ大量に配備されているはずの狂花人たちが一切見えないのか、シロたちは即座に理解した。


『最初から分かってはいたんだがな。俺も俺でよく理解できなかったから黙ってたんだ』

「……!」


 中心に座するは一人の青年。

 まるで女性のような服装、立ち振る舞いをしているが、強い目つきと雰囲気は彼の凶暴性をよく表している。


「あァ? 誰か来たと思ったらお前らかよ」


 狂花人たちはまだまだ健在。倒れ伏す者たちよりも数は少ないが、それでも数十体の狂花人たちが青年へ襲い掛かる。

 シロが声を上げたのは、それよりも微かに早くの事だった。


「お前───」

「『灰燼裏王サイネリア』」


 『灰被りの王』が、手を振り上げた。


 ■


 螺旋を描くように極小の粒が生まれ、主を守るべくその力を発揮する。

 自身へ襲い掛かる狂花人たちへサイネリアが手を振るえば、生み出された灰の海は鞭のようにしなり、怪物を両断した。


 同類の死など恐れず進む狂気の兵隊たちは、仲間の残骸を体に浴びながらも気にせず突進。全方位からサイネリアを殺そうと迫るが、彼は静かに右手を上げた。

 瞬間、終結した灰は彼を守るように高速回転を始める。それに伴い暴風が発生し───灰の嵐は、激突した狂花人たちをミキサーのように巻き込み、細切れにしていく。


 灰を下へ叩きつければ、既に原形をとどめられなくなった狂花人の残骸は地面へ転がった。

 その瞬間、シロたちは気づく。彼の周辺に転がっている狂花人たちは、そうして蹴散らされた哀れな死体なのだと。


 合計数十体───否、地面に転がっている数を含めれば三桁に届くだろうか。

 

 サイネリアという人物は、そもそも凄まじい戦闘能力を持つ。それはシロも知っている事であり、開花者の間ではそれなりに有名な事だ。

 では、ユキとどちらが強いのかと言われればそれは適材適所である。


 集団戦最強。

 彼を評価するのならば、そう呼ぶ事になるだろう。


 この短い間に、立っている狂花人の数は零となった。


「んで」


 腕を振るって灰を消し、サイネリアはシロたちの方へ振り返った。


「見世物じゃねえんだがなァ」

「いや、何でお前がこんなところにいるんだよ。もしかして助けに来てくれたのか?」

「あァ? 何が助けに来ただよ。そんな訳ねェだろ」


 彼は綺麗に整えられた髪を不機嫌そうにかき上げ、研究施設へ向けて歩き出す。


「俺は借りを返しに来ただけだ」

「借り……?」

「アネモネとかいうふざけた野郎にだ。あの野郎、前回は俺が道を歩いてる時に突然襲い掛かりやがったからな。──殺しにきたまでだよ」


 前回、即ちアネモネとシロが再開した時。サイネリアは最初から血だらけのまま戦っていたが、理由は襲われたからだったようだ。

 万全ならば狂花人など彼の相手ではないが、突然襲い掛かられればその限りではなかったのだろう。だからこそ無傷の今、彼はこうしてアネモネへ復讐するために研究施設へ単独で乗り込んできたのだ。


 施設外の狂花人たちをスルーしたのは恐らくだが、シロのように戦えない足手まといがいないからだろう。単純に飛び越えてきたようだ。


「おい、サイネリア」

「黙ってろ『除想屋』風情が」


 シロの静止を振り切り、サイネリアは進んでいく。

 後ろでコケバラが面白そうに笑い、グラが呆れたように息を漏らすのが聞こえた。


『サっさん』

「……ブーゲンビリアか」


 電話越しに話しかけたビリアに対してだけ、サイネリアの足が一瞬止まった。首だけをこちらに向け、不機嫌そうにしながらも話を待つように耳を傾けている。


『どうせ壁でもぶち破ろうとしたんだろ』

「あァ? だったらなんだってんだ」

『壁には爆弾が仕掛けられている。恐らくだが、研究施設を守るための手段だろう』

「……チッ」

 

 ビリアの口数は少なかったが、そこには様々な意味が込められていた。要するにサイネリアが壁を吹き飛ばす事は可能なのだろうが、それよって発生する爆発は彼を殺すだけの威力を秘めているのだろう。

 同時に、それはシロたちへも影響を及ぼすような代物のはずだ。


 流石にサイネリアも馬鹿ではない。振り返り、不機嫌そうにしながらもビリアへ問いかける。


「んじゃあどうすりゃいいんだ。お前の魔眼なら大丈夫な入り口ぐらいわかんだろ」

『あぁ、そりゃ分かる。もう既に正面玄関は見つけた。ご丁寧に狂花人の配備までしてやがる』

「……」

『十中八九罠だが……』

「問題ない」


 シロは二人の会話に口を挟んだ。


「アネモネが俺たちを阻もうとしているのなら、もっと色々な手練手管を仕掛けるはずだ。でもこうして難なく突破できる程度の障害しか仕掛けてこないのは」

「遊んでやがる訳か」

「それと時間稼ぎだろう。間違いなくアネモネは俺たちに『来い』と言ってる。アイツはそういうやつだ。いつも意図が遠回しなんだよ」

『つまり?』

「正面から乗り込む」


 そう宣言し、シロはサイネリアへ視線を向けた。


「先に進んで構わない、サイネリア」

「アァ……?」

「倒してもいい。機会を譲ってやる。───その代わり傍にいるはずの女の子には何もするな」

「……」


 サイネリアは黙り、シロへ鋭い視線を送った。

 そしてゆっくりとコケバラ、グラの順で視線を移し、最後に後ろで佇むユキと視線をぶつけ合う。


「……」

「…………」


 強者同士でしか通じぬ何かがあったのだろうか。

 永遠にも思える数秒が経ち、サイネリアは視線をシロへ戻した。


「……いいだろう。ビリア、場所は」

『右の角を曲がった先、大きな扉だ』

「そうか」


 彼はおもむろに歩き出し、扉の前へと向かっていく。


「配慮はしてやる。俺の開く道を進むのも許してやる」


 巨大な扉。

 恐らく、研究材料を入れるために普通のから逸脱した大きさにしているのだろう。


 研究所の壁と同じような材質だが、より色が黒に近く、まるで凝縮されたような外見をしている。

 

「ただし」


 彼の全身から灰燼が立ち上った。それを抑えず、頭上に掲げた掌へ終結させると、拳を握る。すると灰は彼の拳を巨大化させたような形に変化し、化身のように寄り添っていった。

 第二の腕。

 まるで彼の感情が具現したような、巨大で恐ろしい剛腕。


 構えた拳を振りぬき、灰の腕が扉を穿つ。

 砕けるのではなく枠から外された扉が奥へ飛んでいき、空中で限界を迎えて粉々になった。

 遅れて衝撃が走る。砂塵と風が周囲を凱旋し、離れたところで見ていたシロたちまでに余波が及んだ。


 だがそれだけ。爆発はしない。

 それは即ち、爆弾が仕掛けられていない正面玄関である証拠だ。 


 ぶち破った扉の残骸を踏み越え、サイネリアは言った。


「───協力はなしだ。黙ってついてこい」


~~~~~~~~~~~~~


 そうして。

 独断専行で進もうとするサイネリアを先頭とし、全員がアネモネの研究所へと足を踏み入れた瞬間。


 ───唐突に、地面が動き出した。


「……!?」


 一か所だけではなく、全体。

 地震にも似た体の制御を奪われるような、不思議な感覚だ。セーターを解くように崩れ始め、途中で急激にその速度を早めると、地面は完全に消え去ってしまった。


「ちょっ、うそ!?」

「これはッ……!」

「……!」


 ───地面が崩れた……!? それにしては奇妙すぎる……!


 全員が驚きを隠せぬ中、シロは咄嗟に崩れた地面を観察する。

 そして理解した。崩れたと思った地面は、偽物の地面であったことを。


 ───あれはアネモネの花! 花を大量に敷き詰めて、カモフラージュか! 暗い室内だったこともこれが理由……!


「相変わらず性格わりぃ!」


 シロの嘆きを皮切りにして、五人の体は落下を開始する。

 シロ以外の四人はいい。それぞれ自分で体を守る手段を有するのだから。ユキは言わずもがな、グラは高いところから落下しようとも異能で守れば問題がなく、コケバラは持ち前の自在性でどうとでもなり、サイネリアもまた異能で衝撃を相殺できる。


 だが、シロは直接何かを起こすような異能を持たない。故に頼るのはユキであり、即座に視線を送れば、彼女もまたシロを見ていた。

 

 ユキは崩れた地面の一部を空中で掴み、その奇妙な感触に眉をひそめながらも、それをシロとは反対の方向へ投擲する。凄まじい身体能力で放たれた瓦礫は途中で消滅するが、衝撃は残っている。


 ユキの肉体は衝撃でシロの方へと吹き飛ばされ、体を反転させると抱きしめ、壁まで移動。方向を下を向けながら蹴れば、一瞬のうちに地面までたどり着き、シロとユキは結果的に無傷で着地した。

 遅れるようにして四人も無事に到着。さらに遅れて瓦礫の残骸がパラパラと宙を舞った。


 落下の末、辿り着いたのは薄暗い部屋だ。十秒ほど落下していたからそれなりの地下である事は理解できるが、どういった場所であるかはまだ分からない。

 すぐに視線を巡らせようとすると、それよりも先にユキはシロを降ろした。


「シロ、無事?」

「助かったねえさん。お前ら無事か!」

「なんとか~! でも急すぎ!」

「面白いですねぇアネモネ様とやらは」


 三人の反応を受け、シロは頷く。そして残ったサイネリアの安否を確認しようとし、視線を巡らせれば、彼は既に前へ進んでいた。


「───よく来たな」


 薄暗い部屋に光が満ちる。

 蛍光灯でも蝋燭の光でもない。だが、たった今確実に周辺に光が灯った。思わず声の方へ視線を向ければ、階段を上がった先にまた別の空間が存在していた。


 そこはまるで、祭壇のような場所だった。和風というより西洋式の絢爛な色彩。研究所という固い場所には少し似つかわしくないそこに、一人の青年が立っている。

 更に彼が守るように立っている祭壇の中心に、一人の少女が横たわっていた。


 彼らを視界に収めた瞬間、思わずシロは目を見開いた。


「歓迎してやる、見届けし者たちよ」

「アネモネ──それにヒガン」

「アネモネェエエエエエエ!!!」


 瞬間、サイネリアは吠えた。

 全身に異能で生み出した灰燼を纏い、それを推進力に変えて強襲する。


「昨日の借りを返しに来たゼェエエエエ!!!?」

「っ、サイネリア、待て!!」

「待たねェ!! 協力はなしッつっただろ!!」


 制止をするがもう遅い。

 アネモネはそれを見て、意味深な笑みを浮かべた。


「サイネリアか。単純な奴は嫌いじゃない」

「───『灰燼裏王サイネリア』」


 青年の右手に集まった塵が増大し、巨大な腕の形をとると、寄り添うようにして被さった。拳を振りぬけば、巨人が振りかざしたような一撃がアネモネへ到来する。


「だが、通用するとは思うなよ。ここは俺の城だぞ」


 アネモネが虫を払うように右手を空中でスライドさせれば、側面の壁から無数の花弁が壁を突き破って飛び出した。当然、全てがアネモネの花弁だ。

 一見無害に見える花弁だが彼の異能を以てすれば、全てが生物を死に至らしめる矛となる。


 サイネリアもそれはわかっているのだろう。視界の端で花弁を認識すると体をずらし、右手を開いて再び振るえば、塵の剛腕もまた掌を開いた。激突した花弁は握り潰され、意味を失う。


 再び壁から無数の花弁が飛び出した。今度は一方向ではなく、無差別にあらゆる方向からだ。今度は同じ手で防衛する事は出来ない。

 サイネリアは右腕に集結させていた灰燼を全身に回すと、まるで竜巻のように高速回転をさせ、疑似的な嵐を生成。自分に殺到する花弁に対しぶつける事で切り刻み、加えて塵の嵐を前方に押し出す事で攻撃に再利用した。


 床を削りながら迫る嵐に対し、アネモネは無言で足で地面を叩くと、垂直に花弁の壁がせり上がった。まるで嵐を外側から包むように螺旋を描き抱きしめると、その勢いを殺し無力化してしまう。


「死ね」


 灰燼の刃が天から降り注いだ。アネモネは冷静に足元の花を操り全てを撃墜するが、それを考慮していたサイネリアが空中から強襲。至近距離で小規模の嵐を繰り出すも、中心部分を鋭く形状の変化した花弁で貫かれ、原形を保てなくなり潰された。


 今度は密度を高めた拳を纏い頭上から振り下ろすが、再び形状が変化した花弁が地上から襲い掛かり、二つが激突する。塵と花弁が舞い散る空間の中、攻防に集中するサイネリアの隙をつこうと側面から花弁が襲い掛かる。

 しかし、それを読んでいたサイネリアはノールックで左手を背後へ向けると、灰燼の嵐でそれを相殺───


「……!」


 瞬間、今までを凌駕するレベルの密度でサイネリアへ花弁が集中した。彼の姿を埋め尽くすほどの花弁の嵐の猛攻。

 花弁の群れに風穴が空き、そこから無傷のサイネリアが飛び出すと、顔を苦痛で歪めながら空中へ逃げた。


「ハハハハっ!!!」


 アネモネが躍動する。

 空中へ跳ぶと頭上からサイネリアへ襲い掛かり、握った拳を腹へ叩き込んだ。サイネリアはそのまま地面へ激突しシロたちの方へ吹き飛ぶが、一歩前に出たコケバラが彼の肉体を受け止め、そのままその場で踏ん張り回転する事で勢いを殺し、停止する。


「サイネリア様、大丈夫ですか?」

「……チッ、離せッ!」


 コケバラの手を払い、サイネリアはその場に立つが、全身に切り傷が刻まれていた。先ほどの攻防では無事だったが、最後に集中した花弁の一撃は灰燼を突破していたらしい。


「んだこれ……俺の灰燼が一切通用しねェ……!」


 彼は開花者の中でも上位の実力を持ち、ユキに並ぶとまで言われている強者である。その彼がこの僅かな攻防の間に反撃を喰らい、手も足も出ないとはとてもではないが信じられる話ではない。


 アネモネはその結果を見ながら笑う。そしてズタズタになった右手を静かに払えば、鮮血は地面を汚し、肉体の損傷は一瞬のうちに元通りになった。

 どうやらサイネリアを殴りつけた際、体に残っていた灰燼へ腕を突っ込んでしまったらしい。本来致命傷に近いはずの傷も、この通りである。


「言っただろう? ここは俺の城だ。わざわざこうしてお前たちをここに招いているのだから───本気で出迎えるのが礼儀だろう」


 嘲笑うように、アネモネはユキを見た。つまり彼はこう言っているのだ。『昨日の戦いは前座にすぎないぞ』、と。

 ユキの瞳が鋭く尖る。それは即ち、受け流すほどの余裕がない事の証拠でもある。


「ッ、上等だ。今すぐ細切れにして……!」

「サイネリア」

「っ、アァ!?」


 予想外の人物が制止に入った。止めたのは、ユキだ。


「下手に暴れてまた昨日みたいになりたいの?」

「……」

「借りなら返させてあげる。でも、これ以上シロの足枷になるなら先にお前を潰す」

「………………チッ」


 サイネリアは灰燼を払った。


「強者には礼儀を払う。お前ともいずれは決着を付けさせてもらうぜ」

「興味ない」

「ハハ、案外理性的だな。勝手に潰れてくれれば面倒も減ったというのに」


 アネモネが笑っていない瞳で煽るが、サイネリアは舌を出しながら首を掻っ切るポーズで返すのみだった。

 それを見てアネモネは興味を失ったように視線を逸らし、シロへ向ける。


「さて、何の用だ?」

「『何の用』だと? 今更にもほどがあるだろう」

「悪い悪い。いや、襲われたせいで言おうとしていた事が全て飛んでしまってな。緊張が表に出てしまった」

「思ってもない事を言うのは大概にしろ。お前がそんな奴じゃない事は一番僕が分かってる」

「おっとそうだったな、弟弟子」


 シロの言葉に、アネモネは手を叩きながら嘲笑っている。文字通り、シロは彼の性格など分かりきっている。故にその言葉がシロの神経を逆撫でしたいだけであると理解しているし、だからこそ苛立ちが募るのだ。


「ヒガンを返せ、アネモネ」

「返せだって? 断る。そもそも───この子は自らの意志でここへ来たんだ。言っていたぞ? 『私救う』とな。私。喧嘩でもしたか?」

「……っ」


 読まれている。僅かな情報だというのに、ここまで事情を把握されている。

 ここもシロがアネモネが苦手な理由の一つだ。かつては味方だったが、敵に回ればこうも心を乱されてしまう。


 シロはまだ、兄弟子と完全に敵対する覚悟すらできていないというのに。


「そもそもお前、ヒガンになにをした。なんでヒガンはそこで横たわっているんだ!」

「ん? ───いい質問だ」


 アネモネの瞳から更に光が消え、笑みが純粋なものへと変化した。


「少し話をしよう」


 そして、祭壇の周りをゆっくりと歩き始める。

 本当ならすぐさま姉に指示を出して仕掛けてしまいたい。だが、この空間にいるだけで銃口を突き付けられているという事は、先ほどの攻防で既に知ってしまった。

 

 今は従うしかない。そしてヒガンの状態を確認するしかないのだ。


「かつて、俺たちの師匠『彼岸花』は『救世主』と呼ばれていた。『殺した相手の異能を奪う』異能を持ち、その凄まじい実力と人柄は全世界の開花者を救う勢いだったな。それは俺とお前が一番よく分かっている事だろう」


 彼岸花。

 他者の花を死という救いへ導く救世の花。

 彼女は希望そのものだった。


「だが、死んだ。道半ば、病が悪化し誰にも看取られることなく死んでいった。とある海外の小さな村だったよ。俺が辿り着いた時、彼女は道のど真ん中で野垂れ死んでいたそうだ」

「……っ」

「それではいけない。俺は過去を乗り越え、凌駕するために『悲願花』を作った」


 そこで、アネモネの視線がシロへ注がれる。


「なぜ横たわっていると聞いたな。彼女は寝ているだけだ。より上位の存在・・・・・・・として目覚めるために」

「……なんだと?」

「確かに『悲願花』の異能は全ての開花者を救うポテンシャルを持つ。だが、器がただの人間のままでは、叶う事も叶わん」


 両手を広げた。


「この研究所、そしてこの祭壇は、降臨のための儀式場だ」


 そして右手を頭上に掲げれば、そこへ蕾が降りてくる。巨大な蕾。人の頭よりも大きな蕾は、横たわるヒガンの真上へ移動すると静止した。


「そもそも人工開花者『悲願花』というのは救済の手段に過ぎない。世界の救済は、救世主よりも上位の存在によって果たされる」

「上位の存在だと……? お前、一体何をするつもりだ……ッ!」

「救世主は死んだ。だが、人々の悲願は潰えず天井へと届く」


 アネモネは顔を手で覆い、嗤った。


「アァ、だからこそ感動したよッ!! 仲間の制止を振り切り研究所まで怠い体を引きずってやってきた時には!! この子の精神は既にそれ・・へと至っている!!」

「───そうか」


 シロは浅く息を吐いた。


「やってくれ、姉さん」


 ユキはシロの隣にいる。だが、彼が視線を向けたのは前方だった。

 アネモネの懐。確かに彼女はそこにいた。


 アネモネの表情が微かに歪む。ユキは確かにシロの隣へ立っているからだ。だが、隣へ立っているのは本人ではなく、コケバラによって作り出した中身を持たぬハリボテである。小突けば崩れ、崩壊してしまうほどの贋作。


 だが、青年の視線を逸らすのには十分だった。

 ユキが肉薄するだけの時間を稼げたのだから。


「ガアアアァアアアアアア!!!」


 威力はいらない。ジャブ程度の一撃であろうとも、ユキの破壊力ならばそれでも必殺の一撃となる。必要なのは殺す威力ではなく、無力化するだけの速度。

 話を聞くにしても、それから聞けばよいのだ。何よりもヒガンの奪還が最優先なのだから。


「ハハッ、お前が一番野蛮だッ!」


 両手を駆使した、殴るというよりは掴むような連打。頂点に位置するユキの猛攻に対し、アネモネは体を翻し、全身から生成したアネモネの花弁を代わりに掴ませ、時に単純な回避を選択する事でそれらの全てを回避する。


「よいっ、しょぉっ!!」


 そこから一手遅れるように、攻撃を仕掛けるユキの反対側から仕掛けたのはグラだ。彼女は攻撃を裁くのに一生懸命なアネモネに対し、全身に纏った外骨格を以て切りつけようとする。 

 だが、アネモネはノールックで跳躍すると、グラの一撃に対し彼女の頭上を見事な身体能力で飛び越える事で回避した。


 一瞬、アネモネの視線が謎の蕾へと向けられる。


「『芽吹け』」

「先に花だ!! 蕾を切除しろ!!」

「了解でございます!」


 グラと同時に躍ったコケバラは、手前のヒガンを無視し、逆手に持ったナイフを巧みに操ると蕾の蔓を一撃で刈り取った。

 それは蕾が開き、『悲願花』の花弁が現れたのとほとんどコンマ数秒差である。


 根元を切られた蕾は落ち、花を咲かせながらも、ゆっくりと落下していく。

 

「───つっよ……ッ!」


 その間にもユキとグラの猛攻は続いていて、アネモネはそれに対し防戦一方だった。これは強襲だ。故に彼もタイミングをずらされ、反撃へと移す余裕がないのだろう。

 グラの外骨格がアネモネの二の腕を穿ち、その衝撃で彼はよろける。隙を逃さず、そこへユキは脇腹を殴りつけた。


「ッカは!」


 痛みに悶え、本能的に体が収縮を見せる中、ユキが放ったフックは彼の顎を的確に殴りつけた。人体の構造上、顎を強く横へ殴られた場合、脳が頭蓋骨へと移動し脳震盪を起こす。

 当然、ユキの一撃はその現象を起こすのに十分すぎるほどの威力を有していた。


 首が外れるほどの衝撃が走り、アネモネはその場で横へ回転しながら地面へ崩れていく。


 瞬間。

 開いた花弁から、琥珀色の雫が一滴、ヒガンへと垂れた。


「悲願の雫。目覚めろ───『狂命紅靭アネモネ』」


 花が溢れる。

 それはアネモネ本人ではなく、たったいま雫が垂れたヒガンからだ。


 爆弾のようにも、絶命のようにも思える瞬間的な力の奔流。その現象をシロはこの数日で何度も見てきた。

 『狂花人』化。

 尊厳を奪い、命すら使い潰すクズの所業。


 ──しかし、彼女は違った。


 驚き、硬直するユキ、グラ、コケバラの三人を溢れる花が呑み込んでいく直前、時が止まったような感覚がした。

 否、それは錯覚だ。視界を埋め尽くそうとする悲願花の花弁の胎動が、突然停止したからである。


 止まった花弁たちは時計の針を戻したように急速に引っ込み始めると、そのままヒガンの肉体へと吸い込まれていく。

 『収納』。

 シロは咄嗟に、そんな言葉が思いついてしまった。狂気を外側へ出し暴走させるのではなく、内側に内包するような、そんな光景であるのだと。


 全てが収まった時、ヒガンの肉体は光に包まれていた。白く美しい筈なのに、どこか心の奥底が痒くてたまらないような不快感が襲ってくる。

 内側を痛くない程度に撫でられているみたいだった。


「強いが、それだけだな。ハッハ」


 脳震盪を起こし崩れ落ちたはずのアネモネがゆっくりと立ち上がり、曲がった首を戻すように顎に手を当て、強く押せば、ゴキりという音ともに元へ戻った。人間の技ではないが、これもアネモネの花の力なのだろうか。


「さぁ、お目覚めだ」


 淡い光を放ったまま、ゆっくりとヒガンは動き出す。そして祭壇から足を出せば、アネモネが彼女に寄り添うように手を差し出した。

 重ねるように手を取り、彼女は真っすぐと立った。


 その時点で、彼女はようやく瞳を開いた。

 灰色の髪は虚無のように真っ白な色彩へと変化を遂げ、瞳は光を失い濁っていた。身に纏う服は家を出ていった時の普段着とは違い、まるで古の時代、人々が身に纏うような純白の一枚衣だ。


 浮世離れし、神々しいとしか掲揚できないような容姿となった彼女は、ゆっくりと周囲を見渡すと、端麗な唇を動かし、言った。


「『退きなさい』」


 その時、シロは背後で三つの激突音を聞いた。


「は?」


 咄嗟に振り返り何が起きたのかを確認すると、そこにあったのは三つの人影だ。全員とも壁に激突し、壁の瓦礫を身に纏いながらその場に倒れている。


「ッ……!」

「い、ッ……」

「……」


 幸いにして三人ともすぐに立ち上がった。意識ははっきりとし、目だった傷はないが、それでも一人を除き小さな怪我はしている事だろう。

 そこまで来て、シロはようやく何が起きたのかを理解した。


 ───ヒガンの一言によって、文字通り三人は『退け』させられたのだ。


 シロが何よりも驚いたのは、あの最強であるユキすらもそれに逆らえなかった事である。少なくとも波の異能では彼女に傷をつける事は愚か、思い通りに動かす事すらできない。

 だが、今のヒガンは一言発しただけだ。指すら動かさず、ただ発言しただけ。


 それだけで、彼女はユキを退けた。


「…………」


 あのユキが顔を焦燥に歪め、冷や汗をかいている。シロには分かる。それは即ち、彼女が明確に脅威であると、少なくとも自分に匹敵する力であると感じた証拠だ。


「ヒガン……」

「───教えてやろう、シロ」


 口を開こうとしたシロを邪魔するように、アネモネは嗤いながら言う。


「救済に必要なのは、道半ばで倒れてしまう『救世主』ではない。それはどこまでいっても人だ。人に、全ては救えない。あらゆる願いを聞き届け、全てをやり遂げた末に完成の中で死んでいく超越者───」


 救済を齎す絶対的な存在。

 それは。


「───『神』だ」


 全てを救う、その為に。

 今ここに、悲願は成就する。


 ■


 神。

 人ならざる、超越者。


 あまりにも現実離れした言葉と存在に、シロは戦慄を禁じ得ない。日常生活で神という単語を聞く事はあれど、実際にそう称される存在を見る事などないからだ。

 

 だがユキを最強だと思っているシロには、彼女の存在が証明のように見えて仕方がない。

 『悪魔』を超えるのは、『神』であるのだと。


 ヒガンは動かず、視線だけを巡らせ周囲を見渡す。


「───」


 そして、シロは一目見た瞬間に気づいてしまった。


「……師匠」


 確信にも近い呟きだった。

 髪色は違う、背の高さが違う。だが、纏う雰囲気と、どこか遠くを見ているかのような瞳、そして何よりも表情がそっくりだった。


 笑っていないのに、どこかこちらの感情を良い方に乱してくるような、不思議なそれ。『彼岸花』であった彼女が持っていた独特な個性を、シロは母親の愛情よりも強く覚えている。


 シロの呟きを聞いたか、それとも偶然か。ヒガンは巡らせていた視線を、ゆっくりとシロへ移した。


「……シロ」

「ヒガン」


 数時間前まで平穏に会話をしていたはずの二人。その間に、今は剣呑な空気が充満している。祭壇の上から見下すヒガンと、見上げるシロ。手を伸ばしても届かない。それはまるで、今の二人の距離感を表しているようだった。


「素晴らしい」


 ゆっくりと手を叩き、笑みが抑えられないように口元を歪めながらアネモネは言う。


「『神』の力とはこういうものだ。一挙手一投足が他者へ影響を及ぼし、暴力だけが取り柄の女を言葉のみでねじ伏せる! こうでなければ世界の救済などは出来ない!」


 異能とは現実にありえない現象を引き起こす。それはシロをはじめ、ユキやアネモネとて同じ。だが、それでもヒガンの力は別格だ。


「チッ……『言霊』か」

「私実際に遭遇するの初めて。でもさ、なんか強すぎない? 普通のとは違うってこと?」

「代償ねえ上に制限もねえんだろ恐らく。本当にコミックみてエな代物だな」


 グラとサイネリアの会話が耳へ届く。

 『コミック』───空想。認めたくはないが、ヒガンはいまその領域へ到達している。


「シロ、何をしに来たの」

「何をしにって。お前を連れ戻しに来たんだ」

「連れ戻しに?」


 表情は変わらないが、声色に呆れが入っているように感じた。


「意味ないわよ。私は自分の意志でここへやってきたの」

「……っ」

「『悲願花』として力を使えば、全てを救う事が出来る。でも貴方は違うというのでしょう? だったら話し合いなんて意味はないわ」

「それでもだ! 生きてさえいれば出来る事があるはずだろう」

「シロ」


 それは咎めるような声だ。


「ないわ」

「───」


 あまりにも強い拒絶に、シロは咄嗟に言い返せなかった。


「ずっと思ってたの。あの時、私は代わりに死ねばアイビーは助かってたんじゃないかって」

「でもそんなの、代わりにアイビーが後悔するだけだ!」

「そうかもしれない。でも、あの子は生きていたわ」


 彼女の語ることは結果論にすぎない。それにあまりにも自分勝手だ。だがいま重要なのは、こうして後悔を抱え、それを払拭する方法を取ろうとしていること。そして、その方法があまりにも極端である事だ。


「くハハッ! 悪いがそういう事だ、シロ」


 自慢げに。

 まるで世界の全てが自分の後ろにいるように、アネモネは嗤う。


「ふむ、話し合いに来たのだったか。だが当の本人はこう言っている。どうこうする権利はお前にはないなぁ!」


 そこでシロは理解した。

 アネモネの狙いは、シロたちを自分の手中に誘い込み殺す事ではない。ヒガンの真意を聞かせ、心を折る事での戦意喪失だ。そちらの方がより効果的で、より心を砕く事が出来る。


 全てはシロから始まったこと。シロの心が折れれば、他の人間はこれ以上戦う必要はない。ユキは救いたいと思うだろうが、それでもシロの事を優先するだろう。

 グラとコケバラはあくまでも仕事だ。自分の命を優先する。残るのはサイネリアであり、アネモネであればどうにかなる範囲だ。


「シロクン」


 ふと気が付けば、ほど近いところにコケバラが近寄っていた。小声であり、恐らくは唇を動かさない腹話術で話しかけている。アネモネたちに話を聞かれないようにするためだろう。


「今のままでは不味いです。ヒガンちゃんが目覚めた以上、パワーバランスが不安定になったどころか逆転された可能性までありますから。ここは相手の根城です。応戦するならば徹底的にしなければいけません」

「……」

「サイネリア様も味方とは言い難い。あらかじめ決めておきましょう。───徹底抗戦か、撤退か」

「……ああ」


 浮いた思考が一気に現実へ戻される。シロが考えを巡らせる中、アネモネは嗤いながら問いかけた。


「ヒガン、願いの蓄積はどれほどだ?」

「……九割。あと少しで完了するわ。さっきの戦闘で大体集まったようね」

「そうか」


 かつん、とアネモネの靴が、階段の最上段を叩く。


「だったら」

「っ───」

「今、たった今から稼ぐとしよう」


 アネモネがそう告げ、頭上に上げた両手を振り下ろす。するとシロたちの周辺の地面が唐突に爆ぜた。地中から巨大な植物の花弁と茎が飛び出し、衝撃が空間を走る。

 それを見て、シロは即座に判断を下した。


「逃げるぞ! どこかに出口───」

「『動かないで』」


 瞬間。

 ヒガンの言霊が冷水のように浸透し、アネモネ以外の全員の動きが止まった。たった五文字の言葉によって肉体の自由を奪われたのだ。

 

 感覚がなくなるのではない。ただ、動かせない。まるで全身を瞬間接着剤で固められているかのようで、未知の感覚に全身が戸惑っている。


 植物がうねり、薙ぎ払おうと迫る中、視界に映ったのは黒い粒子の群れだった。


「ざけ……ん……なァっ!」

 

 肉体が動かずとも、意志まで死んだ訳ではない。

 そんな言葉を代弁するかのように、サイネリアの粒子は高速で動き、小さな嵐となって植物を蹴散らした。


「っ、動ける」

「効力が切れた!」

「ガアアアアアア!!!」


 一回の言霊で全てを掌握できる訳ではないのだろう。体を動かせるようになり、ユキは地面に顔がぶつかってしまいそうなほどに低姿勢で肉薄した。

 ユキの足払いが弧を描く。狙いはアネモネではなくヒガンだ。彼女を無力化できればある程度戦況は回復する。


「『防ぎなさい』」


 それは、ユキではなくアネモネへ向けられたものだった。彼女の言葉を受け、アネモネは人体の制約を無視した速度で動くと、足払いを仕掛けたユキの足に、自分の足をぶつけた。


「こういう使い方もあるのか! 素晴らしい!」


 当然、嗤うアネモネの足は無事では済まない。足首が曲がってはいけない方向へ曲がっている。だが、それも植物の異能の力を使い、瞬時に治癒した。

 敵ではなく味方への言霊の行使。予想外の使い方に、虚を突かれた形となった。


 接近したグラの斬撃がアネモネを襲うが、それを目線で追っていたヒガンが口を開く。


「『来なさい』」

「えっ……!?」


 グラの肉体が、唐突にヒガンの方を向いた。それどころか斬撃すらも彼女を両断しようと迫る。驚きで顔を歪めたグラは、それでも強引に攻撃を中断するため、能力を解除してしまった。

 一瞬の隙はアネモネにとっては十分すぎるほどの猶予だ。無防備になったグラの腹へアネモネの回し蹴りが叩き込まれ、華奢な肉体がくの字に歪む。


「ぐ、っぅ」


 鈍い声を上げ、彼女は吹き飛び地面へ落ちる。同時に植物が地面から飛び出し、抵抗できない彼女を攻撃しようと待ち構えていた。


「サイネリア様!」

「指図すんな!」


 再び灰燼が動き、植物を蹂躙。落下地点にコケバラが駆け付け、地面へ落ちるはずだった彼女の肉体を間一髪で受け止めた。


「無事か!」

「グラ様の意識はありません! どうやら衝撃で気絶したようです!」

「っ……まじか」

 

 今の攻防。

 もし単純にグラが先ほどのように『退け』られていただけなら、こうはならなかった。彼女の外骨格は並みの金属よりも硬いのだから、ダメージは喰らわない。


 ヒガンによる自分を犠牲にした誘導。武装の解除を強制した手腕があってこそ、その言霊は効果を発揮し、こうして無力化されたのだ。


「上手すぎる。今までろくに異能を使ったことなんてないはずだ。戦闘経験だってない。使い方が上手すぎる」


 だが、シロは一つだけその違和感を説明できる理由を知っていた。

 

「これは」


 この圧倒的とも呼べる力の正体は。


「「──師匠の戦闘センス」」


 シロとアネモネ。

 二人の考えは一致した。


 悲願花の素体となった、彼岸花のセンスを彼女は受け継いでいるのだ。


「そうだッ!! 最高だと思わないか!?」


 千切れた巨大な植物が再び躍動し、地面に断面をくっつければ、そこから新たな根を生やした。合計で十数本にも及ぶ植物が再生し、全員を叩き潰そうと襲い掛かる。

 それはシロも例外ではない。そのうちに数本がシロへ殺到するが、即座にユキは駆け付ける。


「『動かないで』」


 それは全員ではなく、ユキへ向けられたものだった。だが、彼女は獣のような察知力でそれを感じ取ると、自分の耳を思い切り平手で叩いた。

 銃を撃ったような破裂音が響き渡り、彼女の耳から血が滴り落ちる。

 

 肉体の動きが微かに鈍りつつも、ユキはシロを回収。植物は彼らが去った後の地面を叩いた。


「姉さん!?」

「痛い」

「大丈夫か?」

「ごめん分からない。すぐ治る」

「また無茶を……でも助かった」


 鼓膜を破る事で強引に言霊の影響を逸らしたのだろう。聞こえる事が影響の原因か、それとも頭に直接作用しているのかは分からないが、鼓膜を壊す事は一つの手段ではあるようだ。そんな事を言ったってユキ以外が使えそうにはないが。


「チッ……うぜえ!」


 だが、殺到する植物は途絶えない。サイネリアが両断しようとも、再び再生して襲い掛かってくる。彼はその対処で手いっぱいだ。


「ハハッ、いいぞ。風向きが良くなってきた! ヒガン!」

「『駆けなさい』」


 言霊を受け、人間離れした肉体能力を発揮し、アネモネが階段を一足飛びで下りシロへ襲い掛かる。


「サイネリア様、貰います!」


 動いていない灰燼へ触り、コケバラは劣化版とも呼べる灰燼を作り出すと、アネモネの直線状へ配置した。だが彼は地面から生成した植物によって運ばれるように動き、灰燼を回避。そのまま横へ回転し頭上から回し蹴りを繰り出すが、ユキは腕をクロスすることによってそれを防いだ。


 やり返すようにその場で身を捻ると、凄まじい威力の回し蹴りを放ち、アネモネが着地するよりも先に直撃させた。

 だが、同時にアネモネはユキの足を掴んでおり蹴り飛ばす事には失敗する。


「邪魔!!!!!!」


 ひるまずユキは目を見開くと、足の方向を地面へ向け、アネモネごと踵を地面へ落とすような姿勢へ移行する。

 踵落とし。それはユキの最も強力な攻撃だ。


 アネモネは抵抗とばかりに地面から植物を伸ばした。


「『貫いて』」

 

 言霊が乗り、急加速する植物。まるで槍のように尖ったそれは踵落としを繰り出そうとするユキの両肩を貫いた。


「ようやく効いたな! これで──」

「───は?」


 驚くべきは、ユキの肉体を明確に傷つけた事実ではない。


「だから何?」


 それでも怯まぬ、ユキという少女の強靭さだ。


「『|零徹閃光(スノードロップ』」


 呟きは静寂に、しかして事実は劇的に。


 肩を貫かれながらも気にせず、ユキは踵落としを放った。地面へ直撃した衝撃が大地を割り、風圧と余波が空間を暴風のように破壊する。

 それでもアネモネは肉体の再生を働かせつつ、彼女の踵落としを腕で受け止めていた。声を発せないほどに追い詰められているのに抵抗を続けるアネモネも見事としか言いようがない。


 ユキはそれを見て、更に体重をかけていく。否、今までのはほんの前兆だ。ここから更に力を籠め本領を発揮し破壊を──


「『離れなさい』」


 それでも敵わぬ力によって、いつの間にかユキは上空へと打ち上げられていた。

 言葉の通り、本来ならその場から退く程度の力だったはずだ。だが、ユキがあまりにも強すぎたため、ここまで離れさせられたのだろう。


「姉さん」

「……失敗した」


 シロの隣に着地したユキの表情は苦しい。あの一撃は当たっていれば、間違いなくアネモネを仕留めうるものだった。絶好のチャンスだったのに、逃したのは痛い。

 その上、怪我まで負ってしまった。ユキは超人であるため既に肩の流血は止まっているが、それでも動きにくい事は確かだろう。


 ユキとシロは動きが止まり、サイネリアは対処していた植物がユキへ殺到したためこちらも止まった。コケバラは気絶したグラの介抱をし、アネモネはゆっくりと立ち上がりヒガンの元へ戻る。

 そしてヒガンはゆっくりとその体から光を発し始めていた。


「異能のエネルギー、そして何より『こうしたい』と願う事が鍵となり、願いは蓄積される。今のは相当だったろう」

「ええ」


 瞠目し、彼女は目を見開いた。


十割よ・・・


 そして。


 ■


 救済。

 それは、開花者の歴史にとっては須臾のように一瞬の出来事だが、今この瞬間を生きる者たちにとってはそうではない。


 ヒガンの力──『言霊』は、実のところシロの異能と同系統の力だ。言葉によって対象の『運命』に干渉し、強制的に決定する。故に攻撃を仕掛けようとした者へ『止まれ』と命令すれば、運命がねじ曲がり行動を停止させることが可能。


 故に、ヒガンによって行われる救済は言霊となってシロたちへ感染し、彼らが街へ戻った後、ウィルスのように瞬く間に他の開花者たちへ感染する。

 いわばそれは『除草剤』なのだ。人に根付いた花を、感染した根本から腐らせる。一度始まれば全てを腐らせるまで終わらない、絶対不可避の救済システム。


 シロと違うのは、運命を突き付け『人を救う』のではなく、人間的な部分を無視して『花』を殺す事。即ちヒガンの救済とは、花を切除するだけであり、その後に残るのは『ただ闇を抱えた人間』なのである。


 『救って殺す』か、『救わず殺す』か。

 違いは、この一点だけだ。


「「「───!!」」」


 宣言を聞いた瞬間、動けたのはユキ、サイネリア、そしてアネモネの三人だけだった。


「ッ……!」


 最速で動き出したユキは反応速度こそ飛びぬけていたが、傷を負っているが故に肉体の動きが微かに遅れた。再生しているとはいえ、影響は少なからずある。

 

 その次に早かったのはサイネリアだ。彼は肉体の動きこそ遅いが、先天的なセンス故に異能を発動させれば、彼の肉体を埋め尽くすほどの漆黒の粒子が噴き出した。その大群を以てアネモネとヒガンの二人を物量で押しつぶそうとする。


 一番最後に動いたのはアネモネだった。だが、彼は自分が一番鈍間である事を理解しており、あらかじめ脳内で自分の取るべき行動を弾きだしていた。故に彼は遅いが、それでもそれを埋めるほどに無駄のない動きを取る事で、コンマの差でユキたちへ間に合った。


 巨大な一本の、花開いた植物が壁から突き出し、巨大な鞭のようにしなると、相打ちになりながらも粒子の群をぶち破った。ねじ伏せられた粒子の軌跡が一文字を描き、二つの力が激突した後に虚空が生まれる。それはまるで、ヒガンが歩むべき道かのようだった。


 瞬間、出遅れた───否、あえて行動を遅らせたユキが、その虚空へグラの落とした外骨格の破片を投擲する。暴力的なまでの速度で放たれるアンダースロー。

 

 そして。


「───使うのなら、今だ……ッ!」


 シロは手を前に出し、異能を発動させようとする。

 ユキの一撃は、硬い外骨格と身体能力の合わせ技により、命中すればアネモネの体を間違いなく破壊するだろう。


 そして今、この攻防が終わればヒガンの力が解放される。異能を使えるデッドラインとしても、タイミングとしても、この瞬間しかシロにはもう残されていない。

 狙うはアネモネだ。ヒガンの力はアネモネの助けがあってこそ成立するもの。ならば、アネモネを潰せば目論見は潰える。


 一瞬、ヒガンに使用する事も考えたが、不確定要素が大きすぎる。相殺する事が出来ればよいが、間違いなく相手の方が出力は上だ。無駄足に終わる可能性もあるし、反対に同種類のエネルギーとして吸収される可能性すらあるかもしれない。ならば確実性を取らなければこの場では終わる。


 狂った兄弟子の命を狙う事に躊躇いはあった。心のどこかで不殺のまま済むのではないかと、思っていた。だが、ここまで切羽詰まった状態になればそんな良心は捨てなければいけない。

 体は動いた。意思もある。ならば後は、衝動のままに己の正義を果たすのみだ。


「ははッ、そうくると思っていた!!」


 当然のようにアネモネは反応する。だが、発動さえしてしまえばシロの異能からは逃げられない。まな板の上でどれだけ足掻こうとも、そこはまな板なのだから。


 ───だが、その一言。あるいは、やはりシロの内側に存在する良心か。


 シロの動きは、数瞬遅れた。


 ユキの投擲物がアネモネへと着弾する。流石のアネモネといえど、攻撃後の硬直を狙われ、シロへ異能を使用しながら自身への攻撃を防ぐことはできない。

 だが、彼は異能の強みを存分に生かした。


 異能とは肉体の動きではなく、『意志』によって発動する代物だ。つまりユキのように肉体を振るう必要はなく、『こうする』と願えば使用が出来る。

 アネモネは瞬間的に脱力し、体の位置をずらせば、心臓を貫くはずだった外骨格は首の付け根と肩の一部を貫通した。


 だが、それだけだ。ここまでの致命傷は再生にも時間を要するだろうが、それでもこの一瞬をしのげれば全てが解決する。

 ユキの攻撃を、致命傷を負いながらも、生き延びた。

 この事実がが最も大事なのだ。


 生きたアネモネの脳は神経伝達速度──音速の約1/3の速度で動き、シロの足元に植物を生成した。威力は必要ない。大きさもいらない。ただ、弱者の少年に異能を中断させるほどのダメージを与えればいいのだから。


「ヒガン───やれ」

 

 シロが異能を発動する直前に、植物は彼を穿ち。

 ユキは彼の救出へ走るだろうが、それでも未然に防ぐことは出来ず。

 サイネリアやコケバラたちは自分のために力を使うので精一杯。


「ええ」


 誰も邪魔する者はいない。

 そうして神は、冷酷な瞳のままに。


「『止まりなさい』」


 何の躊躇いもなく、アネモネとシロへ襲い掛かろうとしていた植物の動きを停止させた。


「────────────は?」


 強制的に停止させられたアネモネが、声を漏らす。


 その場にいる全員の思考が一瞬停止した。ありえない行動、ありえない現実。

 まるで地面が真反対にひっくり返ったような、不快とも愉快ともいえぬ微妙な嫌悪にも近しい感覚。


 ただ一人、その現実を起こした少女は、静かに走り跳んだ。


 そのまま階段を飛び越え、少女の体が空中で落下を開始する。斜めの軌道は、そのままなら間違いなくシロたちの方へ進むだろう。


「シロ!」


 少女は叫びを、絞り出した。


「花は──私は、一人じゃ咲けない!!」


 一瞬の逡巡があった。

 少女は本棚から選ぶように言葉を紡いで──それは確かに、少年の記憶を刺激する。


「──」


 その言葉は、彼岸花から少年へ、そして少年から悲願花へと伝えられたものだ。


 『私たちは『花』だ。花は一輪じゃ咲く事が出来ない。見栄えも悪い。でも他者と寄り添えばより美しく咲く事が出来る。なら他者を救う理由など決まってる。自分を輝かせるためだ。他者を救い他者を彩り、その結果に自分を彩る。それ以外に理由はいるかい?』


 花は一輪では咲けない。

 少女もまた、一人では咲けない。


 彼女は彼岸花のセンスや情報を受け継ぎし、悲願の花。だがその言葉だけは──『ヒガン』という一人の少女が、自らの経験によって選んだ言葉だ。


 シロにとって福音にも近しいそれは、状況や感情を通し越し、言葉で表せない『何か』を刺激した。


「『運命収束シロバナマンジュシャゲ』」


 シロに出来る事は、どこまでいっても一つだけだ。

 誰かを救う時も、アイビーを倒した時も──そして今、己の直観に従う時でさえ。


 運命の付与。

 シロのみ許された絶対的異能。

 一度発動すれば最後、時間や空間を越えて対象と自分を運命の渦へ放り込む。


 それを、シロはヒガンへ向けて使用──『死の運命』が始まった。


 だが。


「願いを紡いで。『絶尽希来ヒガンバナ』」


 彼女の異能は、言葉によって対象の『運命』に干渉し、強制的に決定する。

 運命を作り出すのには多大なるエネルギーが必要だ。それこそ、世界を救うほどの。シロが運命を作り出せるのは、『継花』──即ち、開花者二人分のエネルギーを持ち、自分をも巻き込む代償が存在するからだ。


 しかし、元々ある運命を変更するのならば、多大だが、救済よりも少ないエネルギーで済むだろう。

 即ち、命を犠牲にしない程度・・・・・・・・・・のエネルギーで。


 故に。

 彼女は。


「私は」


 『死の運命』に。


「──『生きる』」


 干渉する。

 咲き誇った白い花が、同じく白い悲願花のそれと交わり、光の螺旋が渦巻いた。本来なら、この神秘の現象はシロバナマンジュシャゲが他の花を喰らい、運命を与える事で終了する。

 だが、今回は違った。花を喰らうのでも、拒絶するのではなく、同居するという形を取り──無数の悲願花の中に、一輪のシロバナマンジュシャゲを根付かせた。


 『死の運命』は反転し、『生の運命』へと変化する。

 人工開花者は異能と命が直結しており、故に、世界の救済を行っても、行わずとも、やがて肉体が限界を迎え死に至る。


 だが、今その運命は変わり、ヒガンは生きる道を得た。

 限界を迎えるはずだった肉体は、人工的に植え付けられた花に対する耐性を獲得する。即ち、人工開花者ではなく、天然の開花者と同じ肉体構造を得る──そういう形で。


 それはイコールで、青心の克服には繋がらない。だとしても、理不尽なまま死んでしまう現実は消えた。自らに潰されて死ぬことはもうないのだから。

 この瞬間、真の意味で『ヒガンバナ』は、一つの命として生まれ落ちたのだ。


 そしてその事実を、運命の開花者であるシロは、第六感で察知した。故にすぐさま声を張り上げ、一番信頼のおける人物へ指示を飛ばす。


「姉さんッ!」


 呼びかけのみだが、ユキはそれだけでシロの意志をくみ取る事が出来る。故に、ユキはすぐさま駆け出すと空中で落下を続けているヒガンを回収。

 階段へ着地し、即座にもう一度離脱すると、シロの隣へ着地し、ヒガンを降ろした。


「……ありがとう、ユキさん」

「うん……」

「ヒガン、お前、なんでっ!」

「あら、変な顔」


 ヒガンは冷静のまま笑うと、それを小馬鹿にした。シロにとっては、むしろなぜ冷静なままなのか問い詰めたいところだ。


「いやいや、だってお前、『救済』はどうしたんだ! 救うんじゃなかったのか!?」

「あら。まるで私が死ねばよかったような言い方ね」

「いや、そうじゃなくてっ」

「冗談よ」


 しっかりと自分の足で立って、彼女はゆっくりと目を閉じる。


「──全ての開花者を救う。確かに、それは素晴らしい事だわ。そんな事が出来るのならどんな犠牲だって許容できる」


 彼女は頷き、息を吐いた。


「でもね。命を犠牲にするだなんて、そんなの……」


 目を見開いた。


「──そんなの冗談じゃない!!」


 ヒガンは言う。

 周囲に宣言するように、そして、強く言葉を突き付けるように。


「誰が好き好んで命を差し出すものですか! 私は美夜と、アイビーと『生きる』って約束したの! 誰かに与えられる救いなんていらない。例え目の前に安易な道があるとしても、私は、私自身の手で誰かを救う! 生き延びて、人を救うんだから!!」


 誰かに寄り掛かるのではなく、自らの手で。

 それは、彼女がヒガンバナとして生まれて以降、歩んできた人生の結晶だった。

 

「はは……まじかよ」


 シロはただただ驚くしかない。隣のユキもまた、声さえ出ないが、驚きは表情から伝わってくる。


「お前……いや、まぁいい。とにかく死ぬつもりはないんだな!」

「あたり前じゃない!」

「だったら事務所でのあれはなんだったんだよ。全部嘘だったのか?」

「いいえ、全部が嘘な訳じゃないわ」


 死ぬべきではないというシロと、命を犠牲にして助けると言ったヒガンの言い合いの事だ。


「犠牲にしても助けたい、そう思うのは嘘じゃない。でもそれ以上にあれは──嘘をついた方がいいと思ったの」

「……どういう事だ」

「『敵を欺くにはまず味方から』。傭兵に襲われた時、そう教えてくれたのはシロだったわよ」


 あの夜、ヒガンと逃げた時、シロはブラフによって逃げ出したのだった。


「シロは私に『悲願花計画』の事について教えてくれたわよね。でもその時には既に、私は計画について知っていたの」

「……なんだって?」

「あの時既に、私の素体となった人……彼岸花の因子は目覚めていたわ。でもそれは、彼岸花とアネモネの因子を両方埋め込まれていたの。そして私は、その因子を通じて計画の事を知っていた」


 恐らく、アネモネの因子も合わせて組み込まれているのは、救済にはアネモネの助力も必要だからだろう。同時に使用する事で救済は可能となる。故に、因子を埋め込んでおくことで拒否反応などを制御する目的があったのではないだろうか。


「知っていたから、私は嘘をつくことを選んだの。でも嘘をついたのは、このままではどうあがいても私は死んでしまうから」

「……つまり、最初から『運命』を利用するつもりでいたのか?」

「私に選べる選択肢はこれしかなかったもの。シロたちすらも欺いて、アネモネを騙さなきゃ──寸前のところで助力を止められて、駄目だったでしょうから」


 つまりヒガンは計画を知ってからずっと、シロの異能、『運命の付与』を利用しようと考えていたのだ。だがストレートに使っただけでは何も変わらない。より強く死に近づくだけだ。

 計画を知り、己の異能の詳細を知っていたヒガンは、その力が運命を捻じ曲げられると知っていた。


 しかし、アネモネがその事を知れば、助力を止めてしまい、ヒガンは異能を使用できない。使用できなければ当然、運命の利用も行えない。

 だから、ヒガンはアネモネと目的が同じであると、嘘をついたのだ。


 『敵を欺くにはまず味方から』──その教訓を守り、全員を騙し切ったのである。

 

「……お前、すっげえな」

 

 恐らく、やり遂げられたのはヒガンだけの力ではない。『彼岸花』、即ち師匠の才覚を利用しての事だろうが、それでも彼女はこんな使い方をした事はなかった。


 適応力。この一点は、ヒガンという少女が持つ才能としかいいようがない。

 全てを完遂した少女はいま,堂々とした表情のまま,シロの隣に立っている。


 ───そして。


「そうか」


 『悲願花』降臨の為の祭壇,少女が先ほどまで横たわっていた場所の真上,そのステンドグラスが,音を立てて崩れた。ばらけたガラス片は地面へ落下し,甲高い破砕音を響かせると,さらに細かな破片となって砕け散る。 

 そのうちの一つが,アネモネの足元へと跳び。彼はそれを,静かに踏み潰した。


「なるほど」


 嚙み締めるように,同じような文言をもう一度。

 ガラスの軋む音,誰かの呼吸音,植物の躍動する音。空間は騒々しいというのに,音ではない何かによって,その場には静寂が訪れていた。

 まるでそれは,静かではないといけない。というような強迫観念に近しい。


 そこで初めて,シロは顔を前に向け,アネモネを見た。


「そうなるのか」


 念願を目前にして予想外の展開が訪れ,味方であったはずのヒガンにも裏切られ,恐らくは戦力差的にも追い詰められた青年。

 その青年の顔。人の感情を表すそこに映る色は───


「……ッ!」


 ──何もなかった。


二度・・も俺を裏切ったな,『ヒガンバナ』」

 

 彼はおもむろに懐へ手を伸ばすと,そこから一輪の赤い花を取り出した。


 美しい花だ。まるで夜空に広がる火花のように,放射状の花弁を咲かせる曼珠沙華。忘れもしない,始まりの花。

 彼岸花。願いを叶えるのではなく,向こう岸(彼岸)へ人を運ぶための,花。


「アネモネっ、僕たちとお前は考えが違う! でも待ってくれ! ヒガンの考えは今聞いた通りだ。だったら少なくともこの場で、俺たちが敵対する理由はもうない筈だろ!」


 咄嗟にシロは叫んでいた。

 そう、そもそもこの戦いはヒガンを巡る戦いだった。彼女に蓄積された『願い』は失われ、救済を行えるだけの力は失われた。

 今、互いの間にあるのは思想の違いだけ。ならば無理して争う理由はないはずだ。


「まだ……まだ間に合うだろ。せっかく再開できたんだ! 昔みたいに──なぁッ!!」

「『昔みたいに』? 無理に決まっているだろう。今更という段階を通り越している。俺はもう、あの頃のアネモネじゃない」

「……アネモネ」


 口を挟んだのは、ヒガンだ。


「『貴方の考えは間違っていない』」


 と告げ、しかし首を振る。


「『でも、心に寄り添っていない』」

「……!」


 その言葉を聞いて、シロとアネモネの両方が反応を示した。即ち、かつて師匠がよく言っていた言葉の一つだ。

 救いは大事で、そのために力を振るうのは大事だが、それ以上に心を救わなければいけない。


 これはシロの信念に含まれる文言の一つであり──


「は」


 ──アネモネにとっては、呪いの一つだった。


「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!」


 嗤い声が響き、アネモネは顔を覆いながらそこら中をまるで酔ったように動き回る。


「そうか!! お前にとっては何気ない救いの言葉だったのだろうが、師匠を素体にした事がここまで心を抉るとはなッ!! これは誤算だった! いやぁ、愉快愉快!!」


 そして、改めて花弁を逆手に持って。

 彼の顔が、色を失う。


「もういい──もう、知らん」

 

 ■


「『狂命紅靭アネモネ』───『代理開花』」

「──!」


 ユキが即座に肉薄。

 蹴りはアネモネの手首を捉えた。


「ッ……!」


 当然、彼の手首は折れ曲がり、その右手から花弁は零れていく。蹴りの余波は彼の肉体を転ばせ、ユキは更に腹へ一撃を加えた。

 彼女は零れた花弁を足で踏みつぶし、そして次の瞬間驚愕する。


「……造花?」


 その場の全員がアネモネを見た。

 彼は吹き飛ばされ、壁に激突し、腰から崩れた状態のまま、ゆっくりと左手で本物・・の花弁を持っている。


「一度あえて攻撃させ、安心させてから本命を使う。お前と師匠が好んだ戦法だったな」


 茎を自らの胸に向け、強く突き刺した。


「『彼岸花』───『狂花』」


 散った鮮血が放射状の花,彼岸花と同じ模様を宙に咲かせ,そのまま彼を包み込んでいく。

 顔の中心に花が溢れた。


 狂花。

 彼自身が自らに施したそれは,もう治らないほどの致命傷を負った場合,開花者の精神を花と青が喰らい尽くし,その果てに花の目的を果たすだけの怪物となり果てる現象。


「アネモネ,お前───ッ!! 人間辞めるつもりか!!!」


 散った血液は,決して演出ではない。

 彼の肉体に宿る花はアネモネ。その能力の一端を利用し、今取り込んだのは,彼岸花。当然異なる花であり,科も属も異なる。人間で例えるのなら,人間であるが違う人種であるのだ。


 異なる血液型の血液を輸血した時,人体に拒否反応が出るのと同じように,違う花に違う花を混ぜ込めば拒絶される。

 だが,彼はそれを利用したのだ。


 『狂花』と,疑似的な『継花』の同時発動といっても過言ではない。シロが継花を行っても適応できたのは,ショウキズイセンというヒガンバナ科の植物,つまりは親戚のようなものだったからだ。


 自ら拒絶反応を起こす違う花を体内に取り込み,致命傷を負う事で狂花現象を起こし───その肉体の変化に,師匠の花を取り込み,新たな自分を作り出す。


 致命傷を負ったアネモネの肉体は変化を開始する。取り込んだ花を巻き込み、膨れ上がる。

 円形にアネモネの花が広がり始め──否、よく見ればそれは、アネモネの花と彼岸花の花、両方だ。それらが儀式場を埋め尽くし、シロたちの足元も一瞬にして赤へ染まった。


 だが、それと同時に建物全体が震え始める。花に阻まれ見えないが、どうやら戦闘の余波でひびが入っていた空間が、狂花の影響で限界を迎え始めているらしい。

 これではアネモネの狂花を止める事など出来ない。それをするよりも前に、建物の崩壊に巻き込まれてしまう。


 瞬時にシロは視線を巡らせ、今いる人数を確認した。

 ヒガン、ユキ、サイネリア、コケバラと気絶したグラ、そしてシロ自身。


 ──外へ出ようにも、まずここは地下だ。上の床は抜けているしそもそも逃げてどうなる。狂花が完了すれば外へ脱出するなんて容易い筈だ! でもここで迎え打ったところで崩壊の下敷きになるだけ!


「シロっ!」

「っ、ヒガン、どうした!」

 

 彼女は勢いよく指を壁の方へ向けた。


「向こうには『実験場』と呼ばれている空間があるわ。そこならどこよりも硬い壁で作られているから、避難するには最適なはずよ!」

「っ、わかった。一先ずそこへ!」

「──賛成だ」

「サイネリア」


 シロの返事を待つよりも先に、サイネリアは億劫なように顔を歪めると、粒子を操作し自身へ纏わせた。


「話は後だ。協力してやる」

「……どういう風の……いや、分かった。ヒガンを頼む!」

「いいぜ」

「きゃっ」

「マスター、グラを引き続き守ってくれ!」

「かしこまりました」


 ユキがシロを、サイネリアがヒガンを、コケバラがグラを抱え、扉をぶち破り廊下を疾走する。

 狂花の余波は音と衝撃となりこちらへ向かっている。だが、完全に完了はしていないのだろう。まだ間に合う程度のようだ。


「ちょっと、もっとユキさんみたいに優しく運んでよ!」

「るっせぇなァ。黙ってろチビ女!」

「あーーーもうこういう時まで喧嘩すんなよ!?」


 崩落する地下施設の中、やがて全員は重厚な扉の前に到着する。他の部屋とは違う、漆黒の色彩──明確に金属であると判別できる材質のそれは、一筋縄では破壊できないように見えた。

 早速ユキが咄嗟に蹴りを見舞うが、微かに凹んだだけで破壊には至らなかった。


「チッ……」

「ユキさん、どいて」


 ユキは舌打ちしながら次なる一手を繰り出そうとした時、サイネリアに担がれているヒガンが強引に抜け出し、扉の横に付けられた生体認証に手を着ける。

 すると一瞬にしてロックが解除され、扉は横へスライド。中への道が開けた。


「指紋による生体認証……?」

「諸々の説明は後! とにかく中へ逃げ込んで!」


 彼女の言葉に従って全員が中へと走れば、最後に入ったヒガンが再び内側の生体認証へ触れた。

スライドした扉が戻り、金属の音が静かに鳴る。恐らくロックがかけられたのだろう。


そこでシロは気づいた。


「......そうか、予めお前の指紋は登録されていた。理由はここで悲願花としての力を試すため.....そうだな?」

「ええ。ここは施設の中で最も強固で戦闘を行うのに長けた場所。単純に私はこの場所を知っていたし......助力を受けた時に流れ込んできたアネモネの記憶が、私にこの場所を選ばせたわ」


 ヒガンが施設の事を知っていて,すぐさま実験場を選択できた理由がそれらだ。まさかアネモネはこのような形でこの場所を利用されるとは,夢にも思っていなかっただろう。


 ユキに降ろされ,シロはようやく足を地面に着けた。

 その段階でようやく,彼は逃げ込んだ訓練場の全貌を目にした。


 真っ白な空間。

 金属にも,装飾用の大理石にも感じられるような不思議な材質で出来た,白い壁によって構成された長方形の部屋。


 大人数が使うというよりは大きな戦闘を想定されているのだろう。学校の体育館よりも広いその場所は,実験に耐えられる実験場。あるいはシェルターのようにも思えた。

 だが,流石に地下施設の崩壊は規模が大きいのだろう。今こうして立っているだけでも,天井や側面を叩く瓦礫の音が微かに聞こえてくる。


「……ッ」


 そうして一瞬、冷静になる時間を与えられると、シロは途端に感情が湧き出てきた。思わず壁を殴りつけてしまう。


「クソッ,アネモネあいつ……!! やりやがった!」


 自分自身の花を暴走させ、狂花人へと至る。誰もが思いつかず、また思いつこうとも実行するはずのない奇策。なぜならそれは自分自身の命を費やし、周囲を破壊するだけの兵器となることを指すからだ。

 

 否、あえて言うのならば──シロたちがその状態に追い込んだ。

 『仕方ない』、『アイツは狂っていた』、『これが正しい行いだ』。そう美辞麗句を並べるのは簡単だが。


「争う必要はもうなかった。なかっただろうが……!」


 それが綺麗事である事はわかっている。だが、既にヒガンを奪還し、存在した救済の力が失われた以上、殺し合う理由はもうなかった。

 アネモネとしては当然納得できないだろう。感情論として、それを許せない事は、共感できないが理解できる。


 それでも。

 と思ってしまうのは、シロにとってアネモネが兄弟子であるから。家族である、からだ。


 ──狂花人になった以上、取れる対処法は一つ。僕の異能を以て『運命』を決定し、これ以上尊厳が失われる前に斃す事。


 それは今まで行ってきた行為であり、シロ自身も最善であると考えている事だ。だが、いざ肉親にも等しい存在を手にかけるとなると、少し躊躇が生まれてしまう。


「何か……!」


 希望論でなくてもいい。何か、少なくとも現状をよくできるような。


「何か、方法は……!」


 分かっている。

 そんな方法は──


「──方法ならあるわ」

「っ……!」


 俯くシロへ声をかけたのは、彼の隣にやってきたヒガンだった。


「方法が、あるって……」

「……ハッピーエンドは叶わない。そんな選択を出来る地点は既に通り過ぎているし、あるいは最初からなかったのかもしれない」


 寂しそうに、それでも怒りをにじませるように、ヒガンは続ける。


「私は生きて、シロのように人を救う。そう決めてはいるけど、それでもアイビーのように零れてしまう命はどうしてもあるわ。悲しいけどそれが現実」

「……」

「でも、現実はそう単純じゃない。0か100を選ぶ必要なんてない。アネモネを救えないとしても、出来る事は確かにある」


 こんな状況なのに。

 否、だからこそ、だろうか。彼女は力強く笑う。


「お兄さんを救いましょう、シロ」

「……手伝ってくれるのか」

「ええ、もちろん!」


 全ては繋がっている。

 彼女は、シロに手を差し出し。

 

「あの時、貴方が助けてくれた私が──今度は貴方の力になるわ」

「……わかった」


 彼もまた、その手を取った。


「ヒガン、方法を教えてくれ」

「ええ。アネモネはすぐに私たちを追ってこの実験場へやってくる。だから、手短に言うわよ」


 彼女は一拍を置いた。


「全てを救う事は出来ない。だから、今からアネモネの命を救う事は不可能。それは私に刻まれた『彼岸花』の記憶が教えてくれた」

「……ああ。それは俺もわかる。狂花人になった以上、もう人間としての肉体は限界を迎えている。時間を丸ごと戻すぐらいの行為でなければ、救う事は無理だろうな」

「ええ」


 でも、と続ける。


「完璧に救えないとしても、少なくとも出来る事はあるわ」

「『運命』を使うのか」

「普通の使い方はしない」


 瞠目し、ヒガンは言う。


「──残り火になった私の『言霊』の力を、シロの『運命』によってブーストする。それによって、アネモネを狂花人から人間に戻す。これが私の思う、今できる『救い』よ」

「…………」

「それをして、果たして本当に人間に戻るかは分からない。前例はないし、複数の花による狂花化なんて肉体にどんな負荷があるか想像もできない。でも、やらなければ何も変わらない」


 一瞬の逡巡。諦めの悪い自分を落ち着かせるようにして、シロは零す。


「分かった、それでいこう」

「──シロクン!」


 焦燥を帯びたコケバラの声。

 彼が手に持つのは騒音計──音を測定する装置であり、どうやら外部の音で索敵をしていてくれたようだ。


「来ます! おおよそ五秒後!」

「っ──!」


 それを聞いた時、シロを始めとした全員が、戦闘態勢を取った。

 

 来る。

 来る。

 間違いなく、最強の狂花人と化したアネモネが。


「──みつケたァ」


 実験場の扉が、大きな衝撃音と共に破られた。

 瓦礫と暴風が飛び散る。ユキが防いでくれなければ、余波だけでシロは死んでいただろう。確かめるまでもなく圧倒的な殺意を携えている。


 彼はもう、人間じゃなかった。

 まるで複数の人間を無理矢理つなぎ合わせたような歪に大きくなった上半身に、おおよそ人型には思えぬ複数の足。


 肉体は乾いた木々のように変わり、失われた瞳からは不規則に伸びた木々が生えている。口は固定されているように笑い、恐らくその表情から変える事は出来ないだろう。

 恐ろしい肉体はアネモネと彼岸花によって覆われていた。


「……」


 どうにも、調子が狂う。かけられた声色は間違いなくアネモネなのに、そこに誰もいない歪感。気持ちが悪い。


「シロォォォォォ、シ、シシショウがアァアアアアアアサカナたべタいってエエエエエエエエ」

「──」


 不快感が一気に吹き飛んだ。

 アネモネの言葉の意味はシロにしか理解できないだろう。


 忘れもしない。その言葉は、彼岸花が失踪する日の前日の会話だ。彼は覚えている。あの日々を、関係を、願いを。


 アネモネは今、思い出の中で狂っている。


「アネモネ」

「けンかハダメダアアアアアアアア」

「待ってろ」

「アアアアアアアアアアアアア」

「いま救ってやる……ッ!」

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!」


 存在するのかもわからないが、言葉はアネモネの何かに触れたのだろう。

 人間の声帯では出ない絶叫が響き、彼の肉体から無数の植物が膨張する。


「……『花は一輪じゃ咲けない』」


 独り言のように。でも、誰もに聞かせるように、ヒガンの言葉は響く。


「だから、みんなで荷物を分け合うの。誰かが最悪を迎えようとしているのなら、代償を背負ってでもそれを負担する。そうして全員が少しずつ不幸になれば、アイビーのような最悪は避ける事が出来る。……本当は全てを救えれば一番いいのだけれど、それは少し難しいから──今だけは」


 そして。


「ハッピーエンドには手遅れでも、決してバッドエンドにはさせない」


 今。


「さぁ──ハッピーバッドエンドを始めましょう」


 最後の戦いが始まる。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「シロォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォオオオオ!!!」


 開戦は、植物の乱打からだった。

 無数に伸びた植物が、その質量を以て押しつぶそうと津波のように押し寄せる。


 だが、それを迎え撃つのは、開花者の中でも限りなく上澄みの二人だ。


「遠慮はァ──もういらねえよなアアアアアア!?」


 サイネリアが虚空へ右手を振るえば、連動するように顎の形を取った無数の粒子が宙を薙ぐ。植物が千切れてる音が連発し、根こそぎ吹き飛んでいった。

 粒子はそこで留まる事を知らず、アネモネの全身を強襲。まるで暴風が肉体を包むように、全身を隈なく切り刻んでいく。高速回転させることで肉体に傷を負わせているのだろう。事実、所々赤い傷が刻まれている。


「いたいたイタいたイたいた痛痛痛痛ァァァアアアア!!!!!」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!!」

 

 この一撃で仕留める、という気概が伝わってくる咆哮。サイネリアは更に両手に粒子を生み出すと、暴風へ追加投入した。さらに密度と勢いを増す黒い嵐。

 明確に赤い鮮血が乗り始めたところで、アネモネは両手を広げた。


「ジャっまァ!!!」


 突如、巨大な一本の木が彼の足元から出現。そのまま鞭のように横薙ぎの一撃を放つと、その風圧と規模によって粒子は散ってしまう。

 いくら巨大な嵐といえど、それは疑似であり、正体は小さな粒子の塊。だからこそ、この蹂躙は当然で──


「一度散らされたらもう使えないなんて誰が言ったんだよ。あめェ」


 散った粒子が、もう一度集まった。

 

「狂花人は自然の知識を元に行動する。って事は、これはわからねェよなぁ!」

 

 サイネリアが右手を前に突き出すと、粒子が隙間もないほどに集結していく。細長く、長方形に、より鋭く。それはまるで、巨人が持つ槍のようだった。


「『灰燼裏王サイネリア』」


 宣言と同時に、粒子の槍が回転しながら突進を開始。サイネリアの手元からではなく、アネモネの足元からなのだから、自然と攻撃速度は上昇する。

 故に、高速でアネモネの腹部分を穿った槍は、その回転によって周囲の肉を抉りながらも貫通。


「ヤァァアッァアァアアアアア!!!!」


 血飛沫と肉を巻き込みながら、今度こそ粒子は役目を終えて宙へ舞った。


「アアアアアアアアアア!!!!」


 しかし、腹の肉が抉れる程度では致命傷にはならない。単純に図体が大きいのもあるが、そもそもアネモネという人間の異能には再生能力があるからだ。

 だとしても、腹の肉の傷は大きく、また再生には時間がかかる。図体の大きさは、同時に再生個所の多さにも比例する。


 その間は異能を使えず、単調な動きしかできない。

 

「……単調な動きなら、私は負けない」


 故に、ユキは肉薄する。

 シロの隣から、突然ユキの肉体が消えた。それはあり得ないほどの速度で踏み込んだことによる錯覚だ。一足飛びで敵の足元に接近した彼女の拳は既に握られている。


 抉れた腹とは別の部分に、拳が突き刺さった。体格差では考えられないほどの衝撃が発生し、巨体が微かに後退する。 


 反撃として巨大な腕が振るわれる。だが、彼女は自分の倍もある腕に対し手を伸ばすと、無造作に受け止めた。衝撃が走る事も忘れたように力を籠めると、無造作に腕を引きちぎってしまった。


「シロォ、シロォオオオオオオオ!!!! いたいいいいいいたいいいいいああああ!!!!」

「……」


 劈くような悲鳴を無視すると、彼女はその場で跳躍。


「……悲鳴を上げるのなら、もっと早く上げればよかったのに」


 見事な身体制御で身を翻すと、空中で回し蹴りが側頭部に炸裂。巨木を折ったような鈍い音が響くと、アネモネの巨体が上から横転した。


「シネネエエエエエエエエエエエエ!!!!」


 複数の腕で受け身を取りつつ、反対に腕で植物を生成。空中で身動きが取れないユキだったが、彼女は冷静に植物の一つに足をつけると、そのまま足場にして更に上へ向かった。


 上下を反転させ、天井に足をつけたユキはそのまま膝を曲げ、開放。勢いよく飛び出した彼女は植物の大群の合間をすり抜け、体を半回転させた。

 足が上に、頭が下に。体を丸めたその姿勢は、彼女にとっての必殺を放つのに最適な姿勢だ。


「『零徹閃光スノードロップ』」


 底冷えする冷徹さと共に踵落としが炸裂。頭蓋が割れるほどの衝撃がアネモネの全身を直線状に貫き、最も頑丈であるはずの床が傷ついた。

 地面に頭から叩きつけられ、首が変な方向に曲がっている。明らかな致命傷。それでもとアネモネは複数の腕で体勢を立て直した。


「『飛んで』」


 防衛本能か、あるいは微かな人の心か。

 上を向いたアネモネの視界に、シロとヒガンが映る。


「アネモネ」

「シロ、シロ、シロォオオオオオオオオ!!!!」


 シロの視界にも、同じようにアネモネの姿が映る。

 ずっと考えていた。アネモネに対して、どんな風に声をかければいいのか。どう言葉をかければ、正解なのか。いや、正解じゃなくてもいい。何か彼の心に届く言葉はないのか。

 

「──また会えて嬉しいよ、アネモネ」

「────」


 肉体は変わり果て、精神も狂い、願いさえも歪んでしまった。だがそれでも、シロにとってアネモネというのは同じ師匠の元で努力した、兄弟子である事に変わりはない。

 怪物である以上に、蝕まれる開花者である以上に──家族なのだ。


 伝えたい言葉は、それだけだった。


「ヒガンッ!!!!」

「想いを届けて──『絶尽希来ヒガンバナ』」


 形状は彼岸花、しかし色は純白の花が彼女の足に咲き誇り、そのまま空中にいるにもかかわらず、地面すらも白く染めた。その範囲は留まるところを知らず、アネモネの足元すらも覆いつくす。

 少女はゆっくりと手を、アネモネへと向けた。


「『戻って』!」


 その手に重ねるように、シロもまた手を重ねる。


「『運命収束シロバナマンジュシャゲ』」


 ヒガンによって決定づけられた運命に対し、シロがそれを補強する。

 さっき、ヒガンがシロの異能に干渉したように、シロがヒガンの異能に干渉する。故に死の運命は与えられず、ただ補強という役割のために異能を使う事が出来るのだ。


 白い、白い花が満開となる。

 光すら帯びているような不思議な空間。シロバナマンジュシャゲと悲願花は混じり合い、互いに祝福するようにアネモネを甘やかに包んだ。


「──」


 元々、先ほどのユキの一撃で致命傷を負っていたのだろう。更にシロの言葉によって思考が停止して、結果としてアネモネは自身の再生すら忘れるほどに疲弊した。

 故に、腹の傷は塞がらず、折れた首はそのまま。首から伝わるはずの神経伝達は行われず、そのまま肉体の制御は失われていく。


「ッ……」


 ここまでは予定通り。一般的な狂花人の終わり方。しかしそれでいけない。いまシロたちが頑張ったのは、単なる終わり方では許せなかったからだ。

 せめて納得のいく終わり方。人として、終わらせたかったから、頑張った。


 手を取り合い、異能を掛け合わせて、なんとか、なんとかと願った。

 

「……」


 希望は、ある。

 単純に異能を使ったという事もあるが、本来狂花人に血液は存在しない。だというのに傷つく、血が噴き出たという事は、まだ完全に肉体が狂花人の物に置き換わっていない事の証拠でもある。


 ──肉体の収縮が始まる。


「……!」

 

 本来、狂花人は枯れ木のように崩れて死ぬ。こんな風に死の直前で肉体の変化などは起こらない。狂花人の死に際は、そんな風に明るくない。

 だが目の前のアネモネは違う。明らかに違う変化を遂げようとしている。


 やがて樹木のような肉体が、段々と肌色を取り戻していく。溢れた腕は肉体に吸い込まれ二本に戻り、膨張した肉体は小さく縮む。

 数秒もしないうちに肉体は小さく変貌した。即ち、狂花化する前のアネモネという、一人の青年の肉体へと。


「……アネモネ」

「────」


 目が虚ろで、口を閉じるほどの力もなく、アネモネは横たわっている。

 シロは咄嗟に走り、アネモネの肉体を抱えていた。


「アネモネ、アネモネ……!!」


 心拍などを確認するよりも前に、シロは声をかけていた。それはきっと呼びかけに答えてほしいという、淡い期待も含まれていたのだろう。


「ぁ……」


 果たしてその願いは、届いた。


「…………シロ」

「っ、アネモネ!」

「ガふ……ッ!」


 横たわるアネモネが唐突に血を吐いた。大量の吐血。明らかに命が潰える前の、僅かな灯。よくみれば腹に穴は空いたままだ。狂花人から戻る際、傷は塞がらなかったという事だろう。

 分かっていた。この傷では、とてもではないが、命は助からない。だが、せめて、せめて死に際だけでも。


「アネモネ……」






「───ごめんなぁ」



「…………っ!!」


 シロの声掛けを遮るように、アネモネは言った。


「沢山迷惑かけたな……今になって、やっと駄目だったって気づいたよ……」


 アネモネの花が、消えていく。開花者として力を扱う際に咲き誇る花が、全て枯れていく。それは青春病が完治する際に現れる、治療の証だ。

 

「俺はな、シロ」

「……うん」

「悔しかったんだ」

「───」

「師匠にもっと、構ってほしかったんだ」


 力なくこぶしを握り、ぎこちない笑顔をシロに向けながら、彼は続ける。


「お前が選ばれて……俺が見捨てられて───違うな。今思えば、俺は見捨てられた・・・・・・・んじゃない。別の役割を与えられていたんだ。シロにはできない何かを、俺はきっと任されていた……」

「───」

「誤解していたんだ。一時の感情と、お前への嫉妬で間違えちまったよ……だから、ごめんな。迷惑かけてなぁ……」

「───っ」


 その笑みが、言葉が、かつてのアネモネと同じで、シロは思わず下唇を噛んでいた。

 親同然で、世界の全てであった『師匠』。その師匠から見捨てられた、と感じた事が、アネモネをここまで追い込んだ原因だったのだ。


 その弱さに青春病が漬け込んだ。病が心を蝕み、結果としてアネモネは狂った。


「どうして……なんで……もっと選択肢があったはずだろ!」

「あぁ、その通りだ。でももう俺には謝る事しかできない。ごめんな……」


 こんなに回りくどい道をしなくとも、もっと、シロとアネモネが再開する道はあったはずなのだ。しかしそれはもう後の祭りでしかない。


「多くの人に迷惑かけた。償いたい。償って、救いたい……」

「……あぁ」

「でも見ての通り、俺は無理そうだ。生きて償えたらもっと良かったんだが、そんな都合のいい事は起きないよなぁ……」

「……うん」


 青年の目から、涙が一筋零れた。

 それを見て、シロもまた、歯を噛みしめた。


「ごッ……っ」


 更にアネモネが血を吐いた。きっと口元でそれを止めようとしたのだろうが、腕はぴくりと動くだけで止まってしまう。


 終わりは近い。

 都合の良い時間は、そう長く続いてくれない。


「……ヒガン」

「わ、わたし?」


 名前を呼ばれるとは思っていなかったのか、少女は肩をあげて驚き、だが顎を引き、いつもの強気な表情のまま前へ出た。


「お前には流石に直接謝りたくてな……ごめん。全部、全部、俺のせいだ」

「……」

「俺が狂ったから、俺が間違えたから、アイビーや他の人たちも犠牲になった。お前もこんな目にあった」

「でも」


 ヒガンは拳を握る。


「貴方がいなければ、そもそも私は生まれてなかった。嬉しさも、悲しさも知らなかった」

「っ……」

「された事は赦せない。アイビーが戻ってくる訳でもない。でも───私が歩んだ人生を否定はしたくない。貴方が私にしてくれた・・・・・・・・・・事も否定するつもりはないわ」


 『人は一人じゃ咲けない』。

 それは誰でも例外ではない。やってしまった事を消せはしないが、逆によい事も消えはしない。


「辛い思いも経験もひっくるめて、私は私の道を歩く。私を作り出すために犠牲にした人たちは帰ってこないけど──代わりに・・・・その倍は人を救うわ・・・・・・・・

「……はは、倍か」

「……?」


 変なところで引っかかったアネモネに対し、ヒガンは首を傾げる。

 それもおかしくはない。意図が理解できるのはアネモネ本人と、シロだけだ。


「『倍救う』──師匠は同じ数だけ救うって言ってたな」

「叶わないな……お前は凄い奴だよ」


 瞠目して、アネモネは、言う。


「シロ、そしてヒガン」

「うん」「ええ」

「───頼んだぞ」

「師匠の意志を、願いを、言葉を」


 そして。


「『全ての開花者を救ってくれ』」


 静かに。

 水面のように、安らかに。

 

 青年の腕から力は失われ、いままた一つの命が失われた。


 ───救う事は出来なかった。


 全員が幸せになれたかどうかは、正直怪しいところだ。死んだ人もたくさんいる。

 死んだ人々の遺族を探す事、後処理や償い。やる事は無数にあるし、それを終えても日常は続いていく。


 だが、少なくとも納得のいく終わり方は出来た。

 役目を終えたヒガンの異能もいずれ消え、元通りになるだろう。


 『悲願花計画プロジェクト・デザイア』は、こうして終わりを迎えたのだ。


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