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37.幸せだと思う


「今日はありがとうございました」



 夕方五時。ほぼ一日かけた勉強会もようやく終わり、信濃さんは玄関で靴を履いて俺たちを見上げていた。手には、お袋が持たせた紙袋……中身は確かチーズケーキだったはず……が握られていた。

 お見送りにはうちの家族全員がやってきていた。



「こちらこそ! お勉強教えてくれて、ありがとうございましたっ!」

「その、参考に、なりました」



 ぺこりと、九十度のお辞儀をするしー。恥ずかし気に、会釈程度に頭をさげるつー。なんだかんだ、二人とも信濃さんに懐いているようで安心したし、信濃さんも二人とコミュニケーションが取れていて安心した。



「また気軽に来てくれて構わないわよ? 今度はチーズインハンバーグにするから!」

「はい。ぜひお願いします……って、あ、その、お構いなく……」



 昼食で自分が作ったハンバーグを本当においしそうに食べてくれたことが本当にうれしかったのか、お袋は次に信濃さんがうちに来るときもハンバーグを御馳走するつもりらしい。

 大好物、しかもチーズ入りという甘美な響きに食い気味に答えた信濃さんがったが、恥ずかしかったのか当たり障りのない言葉で訂正する。



「……頑張ってな」

「……はい」



 言葉少なめに、一言だけ口にした親父。なにを、とはあえて言わなかった。


 みんなが挨拶をし終えてことを確認した俺は、最後に何をしゃべろうか、頭を働かせていた。



「──奏くん。来て」



 だから、そんな信濃さんの言い分に……俺はただ、頷くしかできなかった。









────────────








 住んでいるマンションから、最寄りの公園。いつもここで遊んでいる子供たちの姿も、世間話に花を咲かせているおばさまの皆様もいない、静かな公園。


 二人で並んで、ブランコに腰掛ける。小学生以来に座るそれは、高校生の俺が座ってもびくともしないくらい頑丈だったが、横幅は割とギリギリだった。



「……今日は、ありがとう。誘ってくれて」

「あ、うん……こちらこそ、勉強教えてくれてありがとう。おかげで、何とかなりそうだよ」

「それなら、よかった。栞ちゃんと紬くんも、力になれて良かった」

「あー……それも込みで、ありがとう」

「構わない」



 他愛無い会話。この程度の会話なら、別にわざわざ俺を呼び出さなくてもできる。

 なぜ、俺がここに呼び出されたのか。それについてだけ思考を巡らせながら、彼女との会話に花を咲かせていた。



「……名前」



 やがて、信濃さんが切り出す、小さな一言。

 


「私の名前、呼んで、欲しい」

「……? 信濃さん?」

「……違う」



 彼女の名前を、呼んでみた。しかし、信濃さんは首を横に振る。

 彼女の目が、こちらを射抜く。期待に満ちたその目。分かってくれと言わんばかりの目。

 その目で全てを察した俺は、軽く微笑みながら彼女の目を見つめる。



「どうしたの、咲さん」

「……今度から、そう呼んで」

「ははっ、ちょっと恥ずかしいな……でも、うん、咲さんがいいなら」

「私も、奏くんって呼ぶから」

「りょーかい。まさか、そのために俺を呼び出したのかい?」

「それもある。でも、もう一個話がある」



 信濃さん──いや、咲さんは立ち上がると、俺の目の前に歩み寄る。普段は見上げてくる彼女が見下ろしてくるというのが、なんだかとても新鮮だった。

 夕焼けに染まった彼女の顔。眼帯をつけているから、いまだに一度も素顔を見たことのない彼女の顔。



「──私、世界に私の味方が、伯父さんしかいないってずっと思ってた」



 さらり。


 なんてことないように言ってのけたその言葉が、いったいどれほど悲しいものなのか。彼女は理解しているのだろうか。

 世界で、味方が、たった一人。それ以外は、全員無関係か、敵。そんなに心苦しく、寂しいことがあっていいはずがない。



「……なんで、奏くんがそんなに悲しそうな顔するの」

「だ、って……そんなの、あんまりじゃないか。咲さんが、どんな辛い目に遭ってきたか、分かんないけど……あっていいはずがない」

「……でも、今はそう思ってない」



 かがみこんだ咲さんが、俺の手を取る。いつも通り、俺が見下ろし、咲さんが見上げる形。

 柔らかい、穏やかな笑みを浮かべている咲さんが、そこにいた。



「栞ちゃんが、紬くんが、お母様が、お父様が……奏くんが、いる。これだけで、単純計算で元の、六倍」



 初めて出会った時の咲さんと比べて、今の彼女には未だに影がある。他人に対する不信感、自分への嫌悪感、そして過去への執着。

 それらは何も解決していないけど……それでも、あの時の咲さんと比べて、今の彼女の表情は、穏やかで、柔らかくて──それこそ、幸せそう、だった。



「奏くんが話しかけてくれたから、私を助けてくれたから……私と、約束してくれたから。そう思えてる。だから、その、えっと……」



 ──今、私は、間違いなく、幸せ、だと思う。


 風に乗って俺の耳に届いた、確証のない言葉。



「……じゃあ、まだだよ。まだ君はこれから、もっともっと幸せになれる。今の比なんかじゃないくらいに」

「うん」

「だから、覚悟しといてよね? きっと……泣いちゃうくらい、幸せにしてみせるんだから」

「うん……よろしくね、奏くん」

「あぁ、こちらこそ……気を付けて、帰ってね」

「うん。それじゃあ、また、週明け」

「うん、じゃあね」



 立ち上がった彼女の背を見送る。普段ならエントランスまで見送るのだが……今、彼女の背を追うことは、今の俺にはできそうになかった。

 声、震えてなかったかな。我慢、できてたかな。かっこいい俺で、いられたかな。


 咲さんの背中が見えなくなってきたころ、俺は俯く。これなら、誰にも、見えやしない。



「……まだ、早いって。まだ……実感できてなさそうだったじゃん、咲さん。まだまだ、こんなもんじゃない。もっと、もっ、と……辛いこと、苦しいこと、いっぱいあった分、楽しいことで、埋め尽くして……っ」



 だから、今のこれは、誰も、知らない。


 知っているのは、俺と……今にも沈みそうな、夕焼けだけだ。



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