空有善無悪
激しい音を立てて木刀が背中に打ち下ろされる中、六助はただただ背を丸めて道場の床にうずくまるばかりである。
「立て。立たぬかぼんくら」
罵声と木刀は、まだ幼さの残る華奢な背に容赦なく降り注ぐ。父の叱責を浴びながら、六助はどうすることもできず、身を固くして嵐が過ぎ去るのを待つしかない。木刀に打たれる痛みもさながら、周囲に控える父の弟子たちが冷笑を浮かべる気配が、なにより辛い。宗祖直伝の奥義を極めた剣士の子がこれか、と、弟子たちは腹の底であきれているだろう。そう思うと、六助はこの世から掻き消えてしまいたくなる。
六助の父寺尾求馬助は、兄の藤兵衛、古橋惣左衛門とともに、二刀流の剣神、新免―宮本―武蔵から伝書を受けた。求馬助は師の教えを継いで流派を「二天一流」と名付け、熊本藩で道場を開いた。藤兵衛は、寺尾家の長兄として家督を継いで御鉄砲頭となり、古橋惣左衛門は江戸に出たから、宮本武蔵の伝えた二刀流を熊本藩内で教えるのは求馬助の道場のみであり、それは大いに栄えた。
求馬助は六人の男子を儲け、皆に幼い頃から剣術を教え込んだが、中でも四男の弁助はずば抜けた才を示し、三つ上の兄巳之助とともに早くから道場の柱となっていた。
六助は、ほかの兄弟姉妹からぽつんと離れて生まれた末っ子で、六助だけ母が違う。求馬助の最初の妻が四十半ばに病で没したのち、身の回りが不自由だろうと後妻を世話する人があった。六助はその、二度目の妻との間に生まれたひとり子。父が五十を過ぎてからの子であった。
「いやあ、ツラナシゴですばい」
父が六助を人に紹介するときはいつもそう言って頭をかいた。
屋根を打つ霰のような、木刀が打ち合う音を聞いて育った六助も、物心つくかつかない頃から道場で稽古を始めた。最初は筋が良いと見えたが、なのに十を過ぎたころから次第に体が動かなくなった。一人稽古の構えや技の習得には光るものがあるが、いざ稽古となると体がこわばり、相手に一太刀も打ち込むことができず、防戦一方。父が怒鳴ろうと殴ろうと、打ち返すことができず、最後は相手の木刀に吹き飛ばされて道場の壁に体を打ち付けるのが常となった。
「なして動かぬ。はがいかないのか」
父や兄に叱責されるたび、六助はぎゅっと口を引き結んで俯く。悔しくないはずがない。正座して稽古の順番を待ちながら、六助はじっと父や兄が弟子たちに稽古をつける様子を見ている。その時には、どう動けばいいかわかる。兄の太刀筋をかわし、右手の木太刀を兄の胴に打ち込むことができるように思うのだ。なのに、いざ自分の番となると体が動かず、思ったことは何一つできない。わかるのに、動けない。悔しくないはずはなかった。
その日も背中が折れるかと思うほど木刀の雨を浴びた六助は、食事もろくに取れないまま寝床に入った。体の痛みに寝付けずにいると、
「あれは無理だ」
板戸の隙間から、揺れるかすかな灯火とともに、父が母にこぼしている声が漏れてくる。自分のことだ、とわかった。
「おどんば子とは思えぬ」
母の無言に、六助は絶望した。
その払暁、六助は身一つで家を出た。霜月の寒気が、稽古着だけの身体に沁みる。空から白いものが落ちてきた。
家にはいられぬ、と思ったものの、どうすればいいのかわからない。六助は噴煙を上げる阿蘇の山に向かって、目的もなく歩いた。これほど絶望しているのに、歩けば腹が空く。そのことにまた絶望した。畑のものを引き抜いて貪り食い、食いながら泣いた。
このまま死のう、と六助は思った。十三歳の冬であった。
荒地の中を黙々と歩き、阿蘇の麓のちいさな集落に出たところで夜になった。繁みの中にまるまって夜を過ごしたが、寒さで一睡もできなかった。
夜が明けても、六助の体は動かなかった。稽古とは異なる疲労感に全身を包まれて、もはや六助は自分が生きたいのか死にたいのかもわからなくなった。
遠くから悲鳴が聞こえたように思い、六助は反射的に起き上がった。繁みから顔を出すと、あぜ道の向こう、ちいさな塚の林に向かって、二人の男が女を引きずっていくのが見えた。
とっさに、六助は気配を消して立ち上がり、枯草が音を立てないよう小走りに林へ向かった。男たちは祠の後ろへ女を引きずり込み、ふいごのような息を吐きながら、まだようやく髪を束ねたばかりと見える少女にのしかかっていた。
泣きながら許しを請う少女の野良着の裾をまくり上げた男が、白く細い足を掴んで腰を乱暴に揺する。泣き叫ぶ少女の口を塞いだもう一人の男は、次の瞬間脳天にすさまじい衝撃を受けて吹き飛んだ。
「ぎゃっ」
夢中で少女を犯していた男が上げた顔を、太い木の枝が張り倒す。
「なんだこのガキ」
鼻血を出しながら、男は六助を見て怒鳴った。二人の目にまだ子供、と見えた六助は、両手に木の枝を掴んで少女をかばいながら男たちと向き合っている。
「去ね、ガキ」
怒鳴りながらつかみかかった男の腕を左の枝が打ち据えると同時に、右の枝が男の頭をしたたかに殴りつける。こめかみから血が噴き出し、男はたちまち頭を押さえてうずくまった。
「去ね」
今度は静かに、六助が告げた。男たちは血だらけになって逃げていく。六助が振り返ると、少女は体を隠すことも忘れて呆然と座り込んでいたが、たちまち大粒の涙をこぼして両手で自分の体を抱いた。六助は少女の白い躰から目をそらし、枯れ葉に落ちた血の跡を見つめた。
自然に、体が動いた。
そのことが、不思議だった。
猛々しい大男相手に、ひるむ気持ちは全くなかった。むしろ相手の動きは緩慢で、隙だらけに見えた。
修行をするとは、こういうことか。
知らぬ間に、自分の体に沁みついた稽古の痕跡を、改めて六助は体感した。
背後で、少女が身動きする気配がした。
「早くお帰り」
振り向かずに告げて、六助はその場を立ち去った。
林を抜けると、小川があった。よどみに薄く氷が張っている。その下を、水が静かに流れていた。雀の声がする。冬の日差しが薄氷に当たり、流れる水をちいさな光が彩る。氷の下で、水は流れ続ける。
俺は。
流水を見ながら、六助は思った。
俺は、負けたくなかった。
人前で負けるのが恥ずかしくて、悔しくて。負けたくないと思うあまり、体が動かなかった。
だが。剣は、試合に勝つためのものではない。生死を賭して闘うためのものであり、生死を賭すのは善を尽くすためだ。そのためだけに、体を使えばよいのだ。
戻りたい、と六助は思った。
もう一度、剣を極める道に戻りたい。
きびすを返し、さきほどの林を抜けると、少女と母親らしい女が歩いて来るのが見えた。二人は六助を見ると立ち止まり、土下座して礼を述べ、どこの人か、と訛りのきつい言葉で恐る恐る尋ねた。
「熊本城下の、寺尾道場の者だ」
六助が、答えた。
その夜、家に戻った六助を見た父は、ふむ、と呟いたきり何も言わなかった。翌朝、道場に出た六助は、いつも通り稽古の列につき、兄弁助と向き合った。
「お頼み申す」
一礼して剣を構えた六助を見た弁助は、おや、という表情になり、剣の構えを変えた。六助はするすると弁助に近づく。道場の空気が変わった。また六助がこぶだらけになるだろうとにやにや笑っていた弟子たちも、表情を改めた。
凛、とした冬の空気の中、二人は長い時間身動きせず向き合っている。やがて裂帛の気合とともに弁助が六助に打ち込んだ、その木太刀を六助は瞬時に受け、右の木刀で兄の小手を下から打ち上げた。弁助の木刀が飛び、道場がどよめきに包まれる。
「やったな」
兄は、六助を見てにやりと笑う。六助はその兄に、溌溂とした笑顔を返した。弁助が生涯に負けたのは、実にこの一本のみとなる。
二年後、兄弟の父求馬助が六十七歳にして死去し、寺尾信盛こと弁助が道場を継いだ。六助は兄弟とともに兄を助けて道場を支え、流派はますます隆盛を極めたが、貞享四年、信盛がはやり病にかかり、後継ぎを指名しないまま逝去すると、後継をめぐって、道場は揺れに揺れた。
勝行と名を改めた六助を推す者も多かったが、彼は
「俺は主の器ではない」
と承知せず、争いを避けて道場を離れ、阿蘇の麓に移り住んで一人稽古に励んだ。
やがて勝行を慕う門人たちが次々と阿蘇を訪れ、勝行は仕方なくそこで道場を開き、宮本武蔵の教えを伝えることとなった。
道場の裏方を手伝うのは、きよという名の土地の農婦で、生涯勝行に仕えた。勝行は妻帯しなかったが、二人の間に子を儲けることはなかった。