06 「気配」 安穏とした生活の終わり
生後間もない赤ん坊である『ラルフレイン』。その首も座っていない未熟な身体は、当たり前だが思考力に乏しく身体も思うように動かない。
更に自己主張のそのほとんどを“泣く”と言う行為でしかアピール出来ない状況にある事から、他者とコミュニケーションを図るのはほぼ無理であり、腹が減ったり下半身がびしょ濡れになった自分を泣いてアピールするのが現状精一杯である。
だが彼は杉坂涼太三十五年間の記憶を脳内の奥深くで大事に温存している。「幼い感覚機関と青年の洞察力」をもって、現状の分析に努める毎日が続いていたのである。
昼夜を問わず寝て起きてを繰り返し、泣いて母乳を飲んでは排泄して再び泣く生活の毎日、それなりに彼の中でも認識出来て来た事が何点かある。
一つは「ラルフレイン」である自分自身の事
両親が呼びかけて来る名前からして男だと思うのだが、尿意を感じて放出するまでにある程度の“距離”を感じる事から、自分は生物的に男なのだと結論を出した。
次にラルフレインの両親の事
二人とも金髪の白人である事から、その息子である自分自身も白人だと推察されるのだが、鏡を見るまで結論は出せないでいる。
そして父も母もみずみずしいほど若いのに、赤子を抱き抱えて撫でるその手が荒れに荒れている事から、経済水準は低く苦しい生活を強いられているのが推察される。これは、自分が横になっている場所が豪華なベビーベッドではなく藁葺きのベッドである事や、身を包む毛布が手織りのように荒くゴワゴワしている事からも察している。
また、広くなって来た視野の中でうっすらと見える世界が非常に古臭く、苔むしたかのような古い木造建築物の天井が見えたり、蛍光灯や白熱灯の明かりではなくオイルランプの弱々しい灯りが認識出来る事からも、この家の生活・文化水準がひどく前時代的であるのが理解出来た。
(弱ったな、新しい両親は貧乏なのだろうか?若くして二人で駆け落ちして、極貧生活の今を耐え忍んでの出産なのか)
世界を敵に回しても貫く愛の高尚さに想いを馳せながら、自分自身は愛の結晶として誇るべきなのかそれとも……やがて貧しさに耐えかねた両親が、決断するかも知れない「間引き」の恐怖に怯えるべきなのかと、具にもつかない想像に翼をはためかせる日々は今も続いている。
だが、自分に接して来る二人がメロメロである事。そして二人の食事の時間は常に明るい会話が行き交う事。更には夜毎励みに励む夫婦の営みを考慮すれば、結局のところ貧してはいても見事なほどに家庭円満であるのは理解出来た。
単なる普通の赤ん坊と違い、前世の記憶を抱いたままこの世に産まれたのだから、もうちょっと夫婦の会話が理解出来れば情報も得易いと思っているのだが、彼にとって立ち塞がる巨大な壁はやはり、言葉の壁だった。
もちろん、金髪で白人の両親は英語を喋ってはいない。
英語ならば前世において義務教育時代から接して来た身近な言語であり、名詞だの動詞だの形容詞だのと文法まで覚えさせられた過去がある。
だから「ラルフレイン」は両親の会話を耳にした段階で使われている言語は英語ではない事が即時に理解出来た。夜毎行われる夫婦の営みでも、決してアイラブユーとは言わなし、オウイエス!オウイエス!と彼が前世で見ていた成人向け動画のような反応も無い。もっと、もっと別の文法で別の発音で別の単語を言葉にしているのだ。
フランス語のような「デュ」や「ジュ」など濁音の印象的な言語ではなく、ドイツ語にような「イッヒ」など言葉に詰まるような発音も駆使せず、鼻に抜けるような発音の言語でもない。もちろん聴き慣れてはいないものの「ビャーチ」「ザーリ」の東欧やロシアなどの言語とも違う。
凡人中の凡人であった杉坂涼太程度では、世界中の言語を網羅している訳でも無い事から、少ない引き出しの中から乏しい知識を引っ張り出して判断するしかないのだが、やがてそのすり合わせはやめる事にした。何故ならば、両親の発する言葉が前世の世界にある言語体系ではない可能性も考慮したのだ ──つまり分からない事をウダウダ考え続けたところで、答えは出ないと覚ったのである
大前提として彼が腹を据えたのは、ラノベの転生モノにありがちな、何でも分析してくれて自分に知識を与えてくれるような、便利なシステムが備わっておらず、全て自分の収集した情報を自分自身で判断して結論に導かなくてはならない事。「つまりは自分で考えて自分で行動し、その責任についても自分で負わなくてはならない」
……第二の人生を送るにあたって、強化ダウンロードコンテンツが提供される事など無く、前世と同じく平凡な力のみを頼りに生きて行くしかないと、覚悟を決めたのだ。
そう心に決めると幾分気持ちも気楽になる。彼は始まったばかりの新たな人生、そして身の回りにある新たな環境にいちいち警戒感を示すのをやめ、自然体でそれを受け入れ始めたのだ。
そのおかげもあって、未だ彼の心にこびりついていた負の遺産も和らいで来た。
前世のおいて、両親と連絡が取れないままに最後を迎えた事が脳裏にこびりつき、親不孝者として未だに申し訳ないと自責の念に駆られていたのだが、今ではそれに自分を押し潰さないようにしようと、気持ちの決めた。もう想ったところでどうしようもないのだから──
(だから、だからこそ、今は自分の置かれた環境を受け入れ、今目の前にいる新たな両親を大事にしよう。それが今自分に出来るベストだ)
まだ目も開ききっていないシワクチャの小さな顔で、寝返りすらまともに出来ないまま、彼は悟りを開いたかのように悠々と物思いに耽る。
成長するとともに、やがて言葉は自然に覚え、自然と知識量も増えるだろう……
そのうち父や母を前に「パパ」「ママ」と言えるようになるし、お腹すいた、抱っこしてとも言えるようになり、やがては普通に会話が成立するはずなのだ。
そうなったら、二人にたくさん質問しようじゃないか。ここはどこ?僕は誰?世界は今どこに向かってるの?と
その時が来るまで、それこそ母乳を飲みながら気長に待てば良いだけ。自分には締め切りやタイムアップなど無く、時間を掛けるだけの環境は整っているのだ。
そう考えたラルフレインは、赤ん坊の生活にどっぷりとその心身を埋めて行くのである。
だが、そのおおらかな気持ちは、突如壮絶な悲鳴と怒号と喧騒に打ち砕かれる事となった。
夢うつつのある日……寝て目が覚めて空腹で泣いて母乳タイムを堪能し、再び寝て排泄の不快感で目が覚めて泣いての繰り返しをする日々の中、まだ幼くて弱々しい彼の鼓膜と三半規管を、金属音の連打と絶叫と悲鳴など、いわゆる“騒乱の気配”が彼を叩き起こしたのである。
■ラルフレイン・なにがし(姓名不明) 人間種男性 生後二ヶ月