1章 7月の消えた日 その1
講義室に入り、友人の桐ヶ谷真琴の姿を見つけるなり、俺は彼の元へ突進するが勢いで向かっていき。
「おいっ、真琴!」
「な、なんだよ暁夜」
暁夜――沖田暁夜。それが俺の名前だった。
「どうしたんだよ、汗だくじゃねーか」
「……走ってきたからな」
「ははっ、まあ谷口のヤツは遅れるとうるせーもんな」
「いや、そうじゃなくて……。なあ、聞きたいことがあるんだが」
「おう?」
「ふざけないで、真面目に教えてほしい」
「なんだなんだ、改まって」
「約束してくれるか?」
「……わ、わぁったよ、約束する」
面食らっているようだが、真琴に気を遣ってやる余裕は今の俺にはなかった。
耳の奥から聞こえる、鼓動の音。エアコンディショナーの風がイヤに冷たい。
指先が微かに震える。
そんな些末ごとをどうにか意識の範疇から追い出し、俺は訊いた。
「今日って、何日だ?」
「……は?」
呆気にとられた顔で、真琴はぽかんと口を開く。
それがもう、雄弁な答えになっていた。
真琴も俺と同じで、レポートなどの課題はギリギリに出すタイプだ。
そんなヤツが、昨日が6月30日であることを忘れるはずがない。
しかし一縷の望みを託し、俺は真琴の返事を待った。
ヤツは赤く染めたボサボサの髪を指に巻きつけながら考える。
「えーっと、ちょっと待てよ。確か次のイベは自慢のが明日だから……。ああ、わかった」
パチンと指を鳴らし、真琴は表情を明るくして言った。
「明日が6月2日だから、今日は6月1日だ! うんっ、間違いねえ!!」
……やっぱり、そうか。
下半身から力が抜け、どさっと膝から崩れた。
気付けば室内のヤツ等が、騒ぎ立てる俺を何事かと見てきていた。
その中には、本月文香もいた。
艶やかな黒い髪、整った容姿に、手に持ったハードカバーの本。
後部に座り、周囲は空席。
もはや見慣れた姿。だけど見飽きない。むしろいつまでも眺めていたい。
常に本かホワイトボードに向けられている透き通った丸い瞳が、今はこっちを見ている。
かっと火がついたかのように顔が熱くなる。
真琴のヤツは俺と本月の顔を交互に見やり、顔をだらしなくニヤッとさせて。
「ほほう。もしや、日付を確認したのって……」
「ちっ、ちがっ……!」
「おいおい、オレっちぁ、まだ何も言ってねーぜ?」
「うっ……」
我ながら間抜けな自爆っぷり。数秒前の自分を殴りたい。
「お熱いことで。一足先にサマーな気分を味わいやがって」
「だから、違うって言ってんだろ……。それに本当だったら、もう夏なんだよ」
「まあなあ。旧暦だったら確か、6月って夏だったか?」
「そうじゃなくて……、いや、なんでもない」
いくら真琴に文句を言ったところで、現実は変わらない。
俺は諦めて席に着いた。
ちょうどそのタイミングで講義室の前のドアが開き、谷口教授が入ってきた。
●
1ヶ月前とまったく同じ講義を受け、帰路につく。
たった1コマ講義を受けてきただけなのに、なんだかどっと疲れた。
真琴に遊びに誘われたが、それに応じる気力も残っていなかった。
はあと今日何度目かのため息を吐いて立ち止まった時。
「ちょっと」
と、急に声をかけられた。
「ひゃっ、ひゃい!?」
裏返った声と共に振り返ると、そこには予想だにしなかった人物がいた。
白くレースの付いた傘の下、黒く長い髪を垂らした女の子。
「……も、本月さん!?」
感情のない顔で、本月さんは俺の真後ろに立っていた。
本月さんは一昔前のギャルゲーみたいに唇だけを動かして言った。
「敬称はいらないわ」
「け、けいしょー……?」
「さんはつけなくていい、って言ってるの」
「あ、ああ。じゃあ、本月?」
「ええ。それでいいわ、沖田君」
「……あの、俺も沖田でいいよ」
「悪いけど、わたしは沖田君と呼ばせてもらうわ。いいわよね?」
有無を言わせぬ口調に、俺は考える間もなくうなずいていた。
本月もうなずき返し、温度を感じさせない声音で訊いてくる。
「今日、講義室であなた、切羽詰まったというか、余裕ない感じだったけど」
「……え? 声かけてきた用件って、それ?」
「そうよ。迷惑だった?」
「いや、迷惑ってことはないけど……」
言い淀む俺に、本月は目を背けて。
「……心配したわけじゃないの。ただ、ちょっと気になっただけよ」
ぴくっ、と俺の耳が動いたかもしれない。
おいおいおいおいおいおい?
こりゃまさか、まさかあの王道中のロイヤルロードが来ちゃいましたか!?
「……なあ、本月。今日、暇?」
「え? ……ま、まあ、暇じゃないと言ったら、嘘になるかもしれないわね」
ヤバい、ヤバい。頬がニヤつく。
あの孤高の本月が、まさかこんな……。
「本月ってさ、映画とか観る?」
「映画? ……いえ、あまり観ないけど」
「もしかして、嫌い?」
「別に、嫌いじゃないけど……」
本月の傘を握る手にきゅっと力が入る。
白い肌の頬に、牡丹の花のような色が浮かぶ。
……ここはもう、こいこいの一択だろ!?
「よかったら、今日……一緒に映画観に行かないか?」
本月の目が大きく見開き、唇が真一文字に結ばれる。
頬から顔全体にぶわっと紅の色が広がっていく。
それから何度かサイレント映画みたいに口の開閉が行われた後、本月は言った。
「ふ、二人……きりで?」
「そう、二人きりで」
白いワンピースの上から、細い手が左胸を押さえる。
本月の目が地べたと俺の間を何度も行き来し。
やがて彼女は言った。
「……ふ、不束者ですが……」
「いや、それは気が早いだろ」
「えっ、あ……」
目線があっちこっちに行き、迷子にでもなったかのようにおろおろしだす。
「な、なんで笑ってるのよ!?」
「い、いや、だって、……ははっ、お腹痛い」
かくして俺と本月は、初めてのデートをした。
●
映画を見終わり、近くのカフェ。
個人経営のここは小さいながらも店内は清潔で調度品の趣味が洒落ており、いつも情緒的なジャズ音楽を流し都会の喧騒を忘れさせてくれる。なかなかムーディーな店だ。俺はずっと前から……正確には本月のことを知ってから、ここに目をつけていた。
「まさか、ベタベタな恋愛映画であんな愉快な思いができるとは思わなかったわ」
組んだ手に気持ちよさそうに顎を載せた本月は、意地悪そうに目を細めて言った。
俺はその目から逃れるように、壁にかけられたなぜか夕日と灯台が鏡合わせのように左右に二つある絵を見やって言った。
「仕方ないだろ。昼食べてなかったんだから」
「だからって、キスシーンで……ぷぷっ」
練習したってできそうにない定型的な笑いに、俺は虫の居所が悪いという言葉を身にしみて理解した。
「生理現象ってのは、すべからく空気が読めないもんだ」
「あら。感情は身体機能を制御するものよ」
「へえ? 根拠は」
「たとえば、そうね」
本月は長し目を送るように周囲を見回した。店内には俺たちの他に客はおらず、ちょうどマスターも店の奥に引っ込んでいた。今この空間には、俺と本月だけしかいない。
彼女はワンピースの胸元に手をかけ、身を乗り出してきた。めくれた胸元から、双丘が覗いて見える。……かなりデカいな、雪奈の比じゃない。それに絹のように白くて、見ただけで不思議とその柔らかな触感が想像できてしまう。
「ほら、鼻の下が伸びた」
「……はっ!? いや、これは……」
「言い訳するなら、もっと確実な方法で確かめてあげましょうか?」
「もっと、確実な……」
「そう、沖田君の本音が詰まった場所」
「本音が……つまった場所」
ごくりと唾を飲みこむと、本月はくすりと笑い。
「冗談よ」
そう言って本月はあっさりと腰を下ろし、ダージリンに満たされたカップに口をつけた。
「ね? 感情によって身体は支配されているでしょ」
「いや、これはあくまでも狭義的な一例であって……」
「じゃあ、例えばこのお店。あなたはどうして今日のランチに、ここを選んだの?」
「それは……」
言いかけて口をつぐんだ。
店内の雰囲気がよく、落ち着いた雰囲気のジャズ音楽が流れている。
爆音続きの映画館とは対照的な場所だ。
前から目をつけていたというのももちろんあるが、それと同時に映画館を出た俺はこの場所に来たいと自分自身で思っていた。
静かな場所だから。
ここに来て、ゆっくり休みたいと思っていた。
事実、この空間にいることでリラックスして、体からつきものが落ちたみたいに疲れが取れていった。
それは暗に、本月の主張を認めているのと同じだった。
俺は肩を竦めて言った。
「確かにそうだな。感情が身体機能に働きかけることもあるかもしれない」
「でしょ?」
「だけど、あのキスシーンで腹が鳴る直前までは、俺は映画に見入ってたんだ。ロマンチックな気分に浸ってた」
「そう? わたしは退屈で欠伸を噛み殺してたけど」
「……なあ、奢った千五百円、返してくれないか?」
「冗談よ。面白かったわ」
「どこら辺が?」
しばし目線を彷徨わせた後、本月は紐を手繰るような調子で言った。
「……ジョニーがサメ相手に虎尾脚を放ったところかしら」
「残念だが、主人公の名前はジョニーじゃなくてジョンだ。それとジョンが使っていたのは中国武術じゃなくてテコンドーだから、虎尾脚じゃなくてティチャギって呼び方が正しい。字幕にもそう表示されてただろ?」
「そういえば、そうだった気もするわ」
「ちなみにその解説がされていた時、本月はポップコーン片手にぐっすり寝てたぞ」
「えっ、あっ、その……」
気まずそうに目線を逸らす。講義室じゃ絶対に見れない顔だ。
「今度映画館に行った時は、恋愛もの以外を選ぼうな」
「えっ、また一緒に行ってくれるの!?」
ぱっとこちらを見て、声を高く上げる本月。
俺はうなずいて。
「ああ。本月さえよければ」
「わたしはその、もちろん。沖田君に誘われたら、いつでも行くわ」
胸の内がこそばゆくなる。俺の姿だけが映っている本月の熱っぽい目に、気持ちが昂ってくる。
「本月は映画館以外に行きたい場所ってあるか?」
「そうね……」
顎に指をやり、軽く唸った後。
「ごめんなさい。わたし、図書館と本屋さん以外に立ち寄る場所って全然なくて……」
「いいじゃないか。本屋巡りに、図書館での勉強会……か?」
「あまり、デートっぽくない気がするんだけど……」
「デート、か」
「あっ……!」
口元を押さえての赤面。どうやら本月は、実はかなり感情が顔に出るようだ。
「そ、その、ごめんなさい」
「なんで謝るんだ?」
「だってその、まだ恋人じゃないのに……」
「不束者ですが、って言ってたのに?」
「それはそのっ、……こ、言葉のあやというか……あっ、でも別に、そういうのもやぶさかではなくてそのっ」
あたふたと慌てる本月の姿を見るのはなかなか面白い。何より俺のためにここまで動揺してくれるんだって思うと、ふつふつと喜びみたいなものさえ湧き上がってくる。
「なあ、本月」
「……であって、だから……。え、あの、何かしら?」
さすがにこの一言を言うのは、少し緊張する。でも散々本月が取り乱してくれたおかげで想像していたよりは気持ちが落ち着いている。
息を吸い、一語一語に思いを込めて、スパッと言った。
「好きだ」
「――へ?」
本月の動きがぴたっと硬直し、瞬きを何度か繰り返す。
耳が熱を持ち始める。やっぱり、平静とはいかない。
でも、ここまで来て引き下がるわけにはいかないから。
俺は勇気を振り絞り、もう一度想いを口にした。
「好きだ。俺と付き合ってほしい」
「……あ、んぅ……、う~~~っ!」
ぷるぷると何かに耐えるように体を震わせ、本月は胸の前できゅっと手を組み。
いきなり立ち上がって頭を勢い良く下げ、叫んだ。
「ふっ、不束者ですがっ、よ、よろしくお願いしますッ!!」
ボォオオオンッ! 鈍い音がジャズ音楽に混じって響く。
本月は額を押さえ、床にうずくまる。
「いっ……たぁ……」
「ったく、何やってんだよ」
俺は笑いを零して席を立ち、本月の元へ行き。
すっと手を差し出した。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
俺の手を取り、立ち上がってから。
「え、あっ……」
繋いだ手を見下ろし、慌てて振りほどこうとする。
だけど俺はその手をつかみ放させず。
戸惑ってこちらの様子を窺ってくる本月の目を真っ直ぐに見やり。
「……好きだ」
「う、うん」
「愛してる」
「っ、……うん!」
「抱きしめても、いいか?」
「それはまだ……」
「イヤか?」
「イヤじゃないけど……恥ずかしくて」
「わかった。本月の心の準備ができるまで待つよ」
「ありがとう……」
本月は何か言いたげに、上目遣いに視線を送ってくる。
待ってると、やがて。
「目」
「うん?」
「目……閉じてくれる?」
言われるままに目を閉じる。
本月の潤んた瞳を最後に、視界が真っ暗になる。
外部からの情報は涼しい空気と軽やかなジャズの音色、そして握り返された滑らかな肌触りの温もりだけになる。
くいっと手を軽く下に引かれる。
それに応えるように、俺は体を僅かに前に傾ける。
紅茶の香りに、フルーティーな匂いが混じる。
鼻の頭に、湿った熱を感じる。
それが横へと位置を変え。
ふわりと柔らかで、吸い付くような感触を頬に感じる。
軽く押し付けるようなそれが触れていたのは、どれぐらいの時間だっただろう。わからないけど俺にとってはあまりにも短く、もの足りなかった。
夢心地な気分は、本月が離れてもまだ続いていた。
「今はまだ……これぐらいで、ね?」
暗闇の晴れた視界では、本月が気恥ずかしそうに笑っていた。
「……そうだな。ゆっくり、二人の時間を作っていこうな」
俺はお返しに、彼女の頬に口づけた。
とても甘い味と、とろけてしまいそなぐらい柔らかい触感がした。