第5話 「東堂秋子」
さて、その日の帰り道である。ビン底メガネの女と、男子の制服を着た女っぽく見える男と、つんでれ系ツインテ女子高生が並んで歩いていた。つまり東堂が、夏樹と冬原とともに帰っていたのだ。どうしてそのようなことになったのか。なんとこの三人の帰る方角がいっしょだったのである。
「ねえ、ちょっと寄っていかない?」
東堂が指さした先には、住宅街の一角にあるこじゃれた喫茶店があった。そこは東堂いきつけの店である。東堂はそこに二人を招待したのだ。四方山の長話を聞いて疲れたであろう二人をねぎらいたいという気持ちがあったのである。さすが一流秘書の心配りだ。ちりんちりん。三人は店に入った。
「おごりだから、好きなの頼んでいいよ」
席に着くと東堂は、目の前に並んで座る二人に例の落ち着いた声で言ったのだ。実のところ、東堂家はリッチである。
「わー、ほんとですか!?」
夏樹はうれしそうにメニュー表を手に取った。しかし、冬原の「ちょっと! あたしにも見せてよ!」の声とともに、メニュー表は冬原の前へとすべっていくのだ。そして、夏樹がそれをのぞきこむ形になるのだ。東堂はそんな二人を見ている。
東堂秋子。東堂秋子は感情を見せない女である。一流企業の秘書課にいてもおかしくないこの女。自分の感情を見せないことが美徳だなどと思っているふしがあるのだ。『秘すれば花』というやつである。白河派の面々は、東堂の心の奥底に何かがあると感じ取っていた。しかし、その正体が何なのかについては分からずにいたのだ。
東堂秋子は、過去二回、文化祭に合わせて刊行した部誌に、それぞれ寄稿している。それははっきり言って二編ともべたべたの恋愛ストーリーなのだ。『好きです』『私もです』形式の、ひねりもなにもあったもんじゃない恋愛ストーリーなのだ。読んでいくと、最後のシーンに至るまでの経過はとにかくぼんやりしていて印象に残らない。何をやっているのか、登場人物の心理描写がとにかくもやもやしていて何一つ伝わってこないのだ。ところが最後の告白シーンに至るや、事態は一変する。とにかく力が入っているのだ。力みかえっているのだ。それはこんな具合である。
海から来るその風は、そっと私の頬をなでてゆく。さくさくと砂を踏む音が二人分。前を歩く彼の背中を私は見ている。黒々とした夜の海の向こう側に広がる街の明かり。私たちは浜辺に二人っきりだった。いま言わなくて、いつ言うのだろう。私の大切な人がすぐそばにいるこの瞬間に言わないのなら。私は彼の背中に向かって言った。
「好きです」
私の声は海風に溶けて消えてゆく。彼の背中と私の心臓の音だけの世界。彼が私を振り返った。そして私に歩み寄り、私のからだを抱きしめる。
「わたしもですよ」
耳もとでささやかれたその言葉。私はいま、世界で一番しあわせな女の子。ふっと彼が体を離した。見つめ合う目と目。私は目を閉じた。そして私のくちびるに――
なんなのだ。いったい何をやっているのだ。ここへ来て読者は大抵ぎょっとするのだ。そのぐらい、他の場面との力の入れ具合が違うのだ。西村はかつて、一度ならずこの点を取り上げて東堂をからかおうとした。しかし、できないのだ。東堂の無表情が質疑応答を拒むのだ。その無表情に威圧されるのだ。
果たして東堂の心の奥底にはどんな感情が隠されているというのか。それはそれとして、某こじゃれた喫茶店の一角ではこんな会話が交わされていた。
「今日の四方山くんの話だけど、どうだった?」
「授業みたいで、つまんな~い!」
冬原はバッサリいったのだ。四方山が聞いていたら白目をむいて鼻水を流していたことだろう。
「ん……そうね」
東堂は言った。単に相づちを打っただけなのか、それとも明確に同意したのか、よくわからないイントネーションだ。
「あの……」
ストローでオレンジジュースを飲んでいた夏樹が、遠慮がちに言う。
「ボク、生意気じゃなかったでしょうか……」
「どうして?」
「だって、四方山センパイの言ったことを……」
「いいのよ」
東堂は言う。
「あれでいいの。いちばん大切なのは自分の言葉を持ってるってことなんだから」
ビン底眼鏡の奥の目はしっかりと夏樹を見ているようなのだ。
「ちゃんと自分の意見を言えることって、いいことだと思う」
「そ、そうなんですか? えへへ……」
「あのさぁっ!」
冬原が割って入る。
「だいたい、白河光太郎って誰なのよ!? ぜんぜん知らないんだけど!!」
「前の部長さんだった人なんですよね?」
「そうね……」
くるくるとストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら、東堂の脳裏には白河光太郎と過ごした日々の思い出がよぎっていくのだ。
「ステキな人よ。とってもステキな人……」
東堂は白河部長をそう評するわけである。
「私たちはみんな、彼のことを尊敬してるの。彼の遺していった言葉を大切にしてる。だから白河派って呼ばれてるのね」
今、眼鏡の奥の目は遠い過去を見ているのだ。
「でも。あなたたちは自由にしてていいのよ。さっき言ったとおり、白河派がどうこうより、自分の言葉を持つことのほうが大事なんだから」
夏樹と冬原は東堂の話に真剣に聞き入っているのだ。
「でも、そうね……」
無表情の東堂の口もとが心なしかゆるんだ。
「今日みたいなことは、これからもあるかもしれないわね。そのときは一応、付き合ってあげてね」
「はーい!」
夏樹は元気よく手を上げた。
「はぁ? めんどくさーい!!」
かたや冬原は、いずれ来る次なる試練の存在に、まゆをしかめたのであった。