第40話 「今」
俺はひたすらに集中していた。もうすぐ偉大な言葉たちが順序正しく並ぶ。そんな予感がしていた。俺は精神をさらに研ぎ澄ませてその瞬間を待った。もうすぐ……もうすぐだ……。
「信国さん♪」
あと一つ、あと何か一つきっかけがあれば、言葉はあふれ出す。俺にはそれが分かったのだ。
「信国さんってば♪」
俺は我に返った。そこは南泉の部屋であった。
「あんまり根を詰めると体に毒ですよ」
そう言いつつ、南泉は俺の目の前にお茶の入った湯呑みを置いたのだ。
「ちょっと休憩しません?」
「う、うむ……」
ごくり。俺はつばを呑んだ。南泉は甲斐甲斐しく俺の世話を焼く。もし俺に彼女がいたら、こんな感じだったのかもしれない。いや、そんなことは考えても仕方の無いことだ。責任を取る。それが男だ。俺の人生は今や、南泉のしあわせのためにあるのだ。
「なあ、南泉君……」
涼やかなまなざしが俺を見た。
「ふたりっきりのときは、なんて呼ぶんでしたっけ?」
「そ、そうだった……」
そう、二人っきりのときは『ちひろ』と下の名前で呼ぶことになっていたのだ。
「なあ、ちひろ」
「なんですか? 信国さん♪」
ちなみに南泉は俺を『信国さん』と呼ぶ。信国さんとは何ぞ。君は大正時代の新妻か? デモクラシーなのか? 本当はそういうふうにツッコミたいのだ。しかし、どうにもそんなツッコミが出来るような雰囲気ではないのだ。
「夏樹君はどうしてる? 書けそうか?」
「ん~……」
南泉は少し考えた。
「やっぱりちょっと悩んでるみたいです。はじめて創作するんですから、当たり前ですけど。オレにも覚えがあります」
「ふむ……」
「でも、オレやみんなでちゃんと支えますから。信国さんは自分の創作に集中してて大丈夫ですよ!」
「うむ、そうか……」
ちひろ、いい女だ。いや、いい男だ。ウホッ。いや、違う、ちょっと待て。俺はどうしてしまったんだ。よく分からんが、たぶん疲れているのだ。そうだ、そうに決まっている。なにはともかく、俺はまさに即時撤収の必要性を感じたのだ。
「さて、と……」
「あっ、もう帰っちゃうんですか?」
「あ、ああ。これから構想をまとめないとな……」
これは言い訳ではない。事実なのだ。
「なにか、忘れてませんか?」
「何か? 何かとは何だ?」
「ねえ、信国さん……」
南泉がにじり寄ってきた。つまり、そういうことなのだ。
「……いや、ちょっと待て。落ち着け、落ち着くんだ」
「どうしてですか? 初めてじゃないのに」
南泉はグイグイ来るのだ。南泉君、君は本当に君なのか? 俺はそう思ったのだ。
「まず心の準備ってものがあるだろう、心の準備ってものが……」
「じゃあ、早く心の準備、してください」
何を甘えたような声を出しているのだ。何をそんなしあわせそうに笑うのだ。俺にとって南泉千紘とは白河派の同志であり、かわいい後輩だったはずだ。それが今やかわいい恋人と化しているのだ。いったいどうしてこうなった? 俺は何を間違えたのだ?
「ねえ、信国さん……」
南泉は目を閉じた。俗に言う『キス待ち顔』というやつである。俺はまさにリアルで初めてそれを見たのだ。
「……」
気合だ。気合を入れろ。俺は強く念じた。こんなとき相手に恥をかかせてはならないのだ。そんなこと、してはならないのだ。それが男というものなのである。俺は南泉に口づけをした。南泉のくちびるは相変わらず、あたたかく、そしてやわらかかった……。
と、そのときである。
「アニキィ!!」
ドタアン!! それはまさに決定的瞬間であった。親愛なる南泉ユズハ嬢が部屋に入ってきたのだ。そして沈黙。俺にとっては、まさに永遠とも思える沈黙であった。
「ええ~っ!? アニキ、そうだったのぉ~!?」
ユズハ嬢がはしゃぎはじめた。
「へえ~、そうだったんだぁ~! あ~、だからか~! あ~、そっかそっか~!」
そういったことを、うれしそうに言うのだ。
「アニキ! あたしは応援するよっ♪」
どうもおかしい。いったい最近の小学生はどうしたことだろう。一体いつ性癖を歪められるような機会を持ったというのだろう。俺には分からなかった。
「ありがと、ユズ」
南泉も何を照れているのだ。そのリアクションもおかしいのだ。
「あ~、でもコイツか~」
ユズハ嬢は俺の顔を見ながら言うのだ。何度か会ったことのある俺をコイツ呼ばわりなのだ。いや、そんなことはいい。どうでもいい。しかし、しかしだ。
「もっと美形がよかったな~。でも、ま、いっか!」
南泉妹はちょこんと正座して言ったのだ。
「アニキのこと、よろしくね!」
このときこの瞬間、俺の退路は断たれた。まさに断たれ尽されたのだ。
南泉家から辞した俺は、その足で白河家累代の墓に参った。
さるお寺の境内の一角にそれはある。たそがれどきの闇に沈むその佇まいは、なんとも寂しげだ。俺がふがいないばかりに。俺は自分を情けなく思った。
墓の前にあって、俺は真摯に手を合わせた。夏樹、冬原、そして春川先生を必ず白河派に引きずりこむ。それをお誓い申し上げたのだ。ここには一度だけ白河部長に連れてこられたことがあった。その折、白河部長は俺に言われたのだ。
『わたしもいつか、ここに入ることになるんでしょうね』
俺はぎょっとした。
『え、縁起でもないことを言わないでください』
『いいえ。それは誰にも変えることのできないことなのですよ』
白河部長はお墓の正面に掘られた『白河家累代之墓』という文字の『之』の部分を指でなぞられた。
『人は皆、いつか死ぬ、ということを忘れないでください。そして、人が死んだ後どうなるのか、それは誰にもわかりません。だからこそ「今」、わたしたちには「今」しかないのです』
白河部長は視線を俺の方に移される。
『君は何をするんですか? 四方山信国くん?』
その問いの答えを、今まさに俺は持っている。夏樹を、冬原を、春川先生を、必ず白河派の文士とする。これなのだ。これしかないのだ。
その後、自室に戻った俺は、鉛筆を取り上げて、ノートに向かった。ついに書くときが来た。深夜、俺の耳に聞こえるのは、鉛筆の先がノートの上を滑る音だけである。そして俺は書き上げた。まさに会心のポエムなのだ。




