第39話 「高砂」
その日から、俺はひたすら精神を集中させた。頭の上に備え付けたアンテナを最大限に稼動させ、ポエムとなるべき言葉が降りてくるのを待っていた。これによって、授業中は完全に上の空でノートだって取れなかったが、俺はそれでもひたすら精神を集中させたのだ。この現実の外側にある神域のワードを降臨させようとしていたのだ。
ある日の昼休み、俺は学校の購買部へと歩を進めていた。ポエムに集中しすぎて、うっかり弁当を忘れてきたのだ。そして、俺の忘れてきた弁当箱が今ごろ家で一人泣いているのではないかという妄想にとらわれていたのだ。客観的に言って、ノイローゼ気味である。
「四方山くん」
俺を呼ぶ声に振り返ると、そこには春川先生が立っていた。雑踏の中にすんなり立つその姿はまさに文芸部の守護天使である。かつて北峰を抱きしめた両腕は今、教科書類を抱くように持っている。
「少し歩こっか」
そう言いながら春川先生は俺に歩調を合わせた。春川先生と並んで歩く俺を、皆がじろじろ見ていく。そんなにも珍しいのだ。ぼっちが春川先生と並んで歩いているのが。しかし、そんなことはどうでもいいことである。
「昨日も部室に来なかったよね? どうしたの? 詩を書くのに忙しいのかな?」
「ま、まあ、そのようなものです……」
「そっか」
どうやら春川先生は、俺が部室に来なくなったので、さりげなく俺の様子を見に来たらしいのだ。春川先生は全く大人なのだ。そして、なんというコミュ力の高さだ。この社会が円滑に転がるのは春川先生やその眷属ともいうべき人たちのおかげだと確信せざるを得ないのだ。
「夏樹くんも冬原さんも、四方山くんのこと、待ってるからね。また、白河部長さんのお話とか、聞かせてあげてね」
俺は春川先生の顔を見た。俺の視線を澄んだ瞳が受け止める。光に愛されている。
「もちろん……もちろんです」
「うん」
春川先生は安心したように笑った。
その日の夕方、俺は河原を散策し、インスピレイションの訪れを待っていた。すると、土手の階段に一人腰掛ける北峰を見つけたのだ。あの北峰了一がたそがれている姿というのは、なかなかに物悲しい光景である。俺はそっと北峰の背中を見守った。
と、そこへ珍客が現れた。
「やあ、ノビー。調子はどうだい?」
マンガ研究部でお馴染みのジョンだ。その後ろにはまるでボディーガードのように岩男大五郎がくっついている。
「やあ、ジョン。それに岩男君」
「ミスター北峰はずいぶんたそがれてるみたいだねえ。何かあったのかい?」
大いにあったのである。しかし、敢えて話すには及ばない。俺はそう判断したのだ。
「いや、別に取り立てて何かあったという話ではないのだが……」
「ふうん?」
ジョンはアメリカンな仕草であいまいに頷いた。
「ところで、春川先生が男と一緒に街を歩いてたって話があるんだけど、何か知らないかい?」
なぜかジョンは、そういうことを俺のところにまで聞きに来たらしいのだ。そして、春川先生が一緒にお出かけしていたとなると、いちばん可能性が高いのはあのイケメンである。
「ふむ。それはたぶん広瀬さんだろう」
「オウ、ミスターヒロセ?」
「ああ。春川先生の婚約者だ」
「ホウ」
驚いた顔を作るジョンの後ろで大きな異変が起こった。ミスター岩男の巨体がグラリと揺れたのだ。何もないのに、まるでヒザかっくんをやられたかのように、前につんのめったのだ。そして、ドシャアッと腹から倒れこんでバウン!と一度バウンドし、地べたに突っ伏したのだ。ちょっと待ってほしかった。いったい何が起こったのだ?
「いや……いったいどうしたんだ?」
俺の問いかけにジョンはあいまいに笑って首を振った。つまり、そういうことらしいのだ。
「そうだったのか……」
俺とジョンはその場を後にした。途中、俺たちは一度だけ振り返ってみた。河原へと降りる階段に座り微動だにしない背中。土手の上の道に突っ伏している盛り上がった巨体。それらが夕日の光に照らされている。そしてどこからか謡いの声が聞こえてきた。久々に詩吟の爺さんが大吟醸川に出張ってきやがったのだ。近く誰かの婚礼でもあるのか、謡っているのは『高砂』である。何の変哲もない船路を詠った中に『たがいに想い合い、ともに老いるまで』という意味が隠されている、あの『高砂』である。
『高砂や、この浦船に帆を上げて。この浦船に帆を上げて。月もろともに、出汐の、波の淡路の島影や。遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉に着きにけり。はや住吉に着きにけり』
夕暮れの大吟醸川に出現したその光景は、なんともシュールで、それは恋に破れた者たちの堕ちた地獄のようでもあった。




