第36話 「不思議なのは人の心」
さて、そのころ、東堂に送り出された冬原は、夏樹と並んで、宿の裏の砂浜を歩いていた。波の音と海の向こうに見える街の明かり。しかも今日は満月だ。まさにお誂え向きの状況と言っていいだろう。古風な人間であれば、「月がきれいですね」などと言い出しかねないのだ。
さくさくと砂を踏む音がする。二人とも話したいことがあるのに、切り出せない風情である。冬原はそっと夏樹の横顔をうかがった。冬原には夏樹がいつもと少し違うふうに見えたのだ。
「ねえ」
「うん?」
「結局、西村センパイとさ、何があったの?」
「……んーん。なんにもないよ」
夏樹はそう言って、にっこりする。冬原にはそれが嘘だと分かったが、しかし敢えて問い詰めたりしない。実に冬原の本質は『粋な女』なのだ。
浴衣姿で並んで歩く二人である。その姿は女友達が連れ立って歩いているようにも見える。しかし、どこか夫婦な雰囲気もあるのだ。
「ねえ、ご褒美あげよっか?」
唐突に冬原が言い出した。そして、そのまま立ち止まって夏樹を見ているのだ。
「ご、ご褒美? なんの?」
「なんだっていいの。一つだけ、蒼太がしてほしいこと、なんでもしてあげる」
「ひ、緋奈。からかわないでよ」
「からかって、ないけど?」
からかっているのか、本気なのか、どうにも分からない口調なのだ。これは東堂の悪い影響を受けたと考えざるを得ないのである。
「緋奈、ボ、ボクだって男の子なんだよ……」
「だからぁ?」
挑発を続行する冬原の両肩を、夏樹がガッツリとつかむ。
「……ッ」
冬原の体が緊張でこわばる。しかし、振り払わない。悪態も吐かない。見詰め合う二人。
「緋奈……」
夏樹が少し顔を近づけた。
「……」
冬原は少し顔を引いた。
「……」
夏樹がまた少し顔を近づけた。
「……」
冬原はあごを引いた。
「……」
夏樹がまた近づいて、冬原は目を伏せた。
「……」
夏樹がまた近づいて、冬原は目を瞑った。夏樹はまた少し近づいて……。
「あ……」
それに気が付いて動きを止めた。思い出したのだ。自分がまだ告白していないということに。
「そんなの、どうでもいいから」
冬原が言った。
「順番とか、どうでもいいから」
「……うん」
目を瞑ってそのときを待つ冬原の表情は、まさに乙女であった。そして二人のくちびるは重なったのである。
「……ちゅっ」
ややあって、二人のくちびるは離れた。同時に開いた目がぴったりと合う。
「好きだよ、緋奈。ずっと、ずっと好きだった」
「うん……あたしも」
感情が昂ぶったのか、その頬を涙が伝った。
「蒼太のこと、好き……」
見詰め合う二人。ごく自然な動作で、お互いをひきよせる。そして二人のくちびるは再び以下略。
この光景を目撃したのは、月と星と海と……それから北峰だ。北峰は磨り減って傷だらけの己の心をいたわるために、浜辺を散策していたのだ。しかし、それはいまや完全に裏目に出た。夏樹と冬原の間で展開されたその甘酸っぱすぎる光景は、北峰に春川先生と広瀬氏とを想起させたのだ。すなわち、春川先生と広瀬氏もこれと全く同じことをしたであろうという、全く当然のことを想起させたのだ。ここに至って、ついに北峰の心はポッキリと逝った。まさに逝ってしまったのだ。
音もなく、北峰は砂浜に崩れ落ちた。そしてそのまま、朝を迎えた。
北峰が砂に崩れ落ちたころ、四方山と南泉は露天風呂の出入り口のすぐ近くに設えられた卓球台でピンポンをしていた。四方山はたいがい下手であるが、南泉が四方山にも打ち返せるような球にして返してくれるので、わりあいにラリーが続いていたのだ。
「四方山先輩、聞いてもいいですか?」
「な、なにかね……」
「四方山先輩は今回の件に関与していないのですか?」
南泉は鋭い問いを発した。
「知らないな」
シラを切るしかないのだ。
「本当ですか?」
「ああ、本当だ……西村君にも困ったものだよ……」
四方山のひたいに流れ出た冷や汗は鼻の横っちょを伝っていくのだ。
「そうですか。失礼しました」
そうしてまた無言のラリーが続くのだ。四方山は飛んで来る球を打ち返すのに集中した。無心になりたかったのだ。これからのことを考える上で、ちょっとそういう時間を持ちたかったのだ。
「さて、そろそろ風呂にでも入るか」
だいぶ汗をかいたころ、四方山が提案した。
「はぁ……お供します」
南泉も四方山の後に続いた。
入ってみれば、露天風呂はまさに絶景であった。なんとも素晴らしく綺麗な星空だったのだ。しかも四方山と南泉しかいない。つまり貸切状態というやつである。南泉とゆったりお湯に浸かりながら、四方山はすっかりいい気分になった。近くにいる人の顔が分かる程度の薄暗い照明である。ちゃぷ。そんな中で南泉が手で湯をすくって肩にかけ、そのまま首すじから肩をなでた。なんとも艶っぽい仕草ではないか。四方山はちょっとドキッとしたのだ。
「ねえ、南泉君、見たまえよ。綺麗な星空じゃないか」
「ええ。そうですね」
「昔、カントという男が言っていた。『この世界、不思議なのは星空と人の心だ』ってね。まさにこの光景が神秘ってわけだ。そうだろう?」
「はい……」
南泉は静かに返事をする。そのとき、そういえば……と、四方山は思い出したのだ。南泉は此ノ川高校に来て二度、失恋しているという。しかも二度目は最近だ。そうであれば、たとえ形式的なものであれ文芸部部長を名乗っている自分としては、何か力になってあげられないか試みてみるべきじゃないのか。四方山にはそう思えたのだ。
「南泉君」
「はい?」
「西村君から聞いたよ。俺はそこらへんのことに疎くて、ぜんぜん気が付かなかったのだ」
そう言われて南泉は体を硬くした。
「なあ、南泉君。俺じゃ駄目なのか……?」
俺では相談相手になれないのか? 苦い思いが四方山にそう言わせたのだ。たしかに自分は白河光太郎より格段におとる存在なのかもしれない。しかし相談してくれれば何かしら力になれたのではないか、そう思っていたのだ。
しかし、四方山が南泉の方を見ると、南泉は驚愕の表情を浮かべていた。そしてその表情は次第に照れたような喜びの表情に変わっていったのだ。
「えっと、あの……オレ、いま、告白されてるんですか?」
「……んっ?」
なんだ? どういう意味だ? 四方山には分からなかった。しかし、何か大変な勘違いをされたような気がしていたのだ。ちゃぷ……。静けさの中に、お湯の動く音がした。南泉が四方山に体を寄せたのだ。そして、四方山の腕に、きゅっと自分の腕を絡めたのだ。
どうして腕を絡めるのだ? どうしてそう体を密着させてくるのだ? 四方山はそう言おうとして、言えないのだ。四方山を見る南泉の顔は、まさに乙女のそれである。四方山は大いにあわてた。どうしてそんな顔をするんだ。君は男のはずじゃないか。いくらなんでも色っぽすぎやしないか? おかしいだろ、どうなってる!?
「オレは……いいですよ。四方山先輩、やさしいですから……」
南泉はゆっくりと目を閉じつつ、四方山に顔を近づけた。間違いなくアレだ。四方山の思考はそこで途切れた。
たしかに、偉大な男カントは言っていた。『この世界、不思議なのはこの星空と人の心だ』と。そして、まさにこの瞬間、四方山にとってそれは現実のものになったのだ。




