第33話 「木刀」
明け方、午前四時である。朝と言えば朝であるが、夜と言えば夜と言えなくもない時間である。四方山は空気の動く気配に目を覚ました。老人は眠りが浅いのである。誰かが部屋の扉を開け、常夜灯の光が部屋に差し込んだが、扉はすぐに音をひそめて閉められた。どうやら誰かが部屋を出て行ったようなのだ。四方山は起き出した。浴衣のままスリッパをつっかけて、廊下をパッタパッタと歩くのだ。エレベーターを見ると一階に止まっている。四方山は階段を一階へと降りた。
灯りの光量が落とされた一階ロビー。四方山がぐるりと見回すと、受付カウンターには、まだ若い男が手持ち無沙汰な様子で立っている。夏樹はロビーの隅にある自動販売機の前にいた。自動販売機の明かりと緑色の非常灯に照らされるその姿は、どこかさびしげに見えた。
四方山はパッタパッタと夏樹の方へ歩み寄る。
「やあ、夏樹君」
「四方山センパイ」
少し驚きつつ、夏樹は四方山を迎えた。
「どうしたんですか、こんなに朝早く」
「齢をとると朝が早くなるんだ」
「ふふふっ。四方山センパイってまだ十八歳なんでしょう?」
老い。老いとは精神の現象であって、肉体のそれではない。この基準でいえば、四方山は初老の域にあるといってよいだろう。
「そういう夏樹君こそ、どうしたんだ?」
「ボクは……なんだか目がさえちゃって」
「睡眠は極めて重要なんだぞ」
「えへへっ、ちょっとは眠ったんですよ?」
そう言いつつ、夏樹は両手で包むように持っていた缶ジュースに口をつけた。
「……ねえ、四方山センパイ。聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「西村センパイはどうしてこんなことをするんですか? 四方山センパイはレクリエーションだって言いましたけど、そうじゃないですよね? 西村センパイの言葉、本気でした。だからボク、知りたいんです」
じっとうかがうように四方山を見る夏樹である。その瞳の綺麗なこと。嘘は吐けない。四方山はそう感じたのだ。
「……ヤツは昔、この世界の良くない部分を多く見る機会があった。ヤツの前に広がっていた世界は闇そのものだった。偉大な白河部長の助けで、その闇を冷静に観察することができるようになったが、今もヤツの心は闇を抱え込んでいる」
「……」
夏樹は四方山の話をじっと聞いている。
「率直に言おう。ヤツにとって君みたいな純粋な子は心配なんだ。この世界は時々、悪意にまみれている。ほら、君もコンビニの前で例の五人組にからかわれていたじゃないか。しかし、この世界の闇はあんなもんじゃすまない。ヤツはそれを知っている。不条理と理不尽がひと一人の人生をハッピーエンドで終わらせないことがある。この世界は残酷なんだ」
じっと四方山を見ていた夏樹が、視線を外してうつむいた。
「それでも人は生きねばならないらしい。いろんな困難の中で、自分自身や周りの人たちを守っていかねばならないらしい。そのためには戦わねばならない。この世界の理不尽や、心に巣食う憎悪と。ヤツはこの考えを白河部長の下で信念にまで高めた。ヤツはこれに従って生きている。だから夏樹君にも戦って欲しいと思っている。そこで手始めに自分と戦わせることにした。そういうことだ」
「……西村センパイは、どうしてそこまでするんですか?」
「俺や西村君は、一口で言えば『ゴミ虫』なんだよ。白河部長に出会っていなければ、きっと真っ当な生き方はできなかったろう。白河部長は俺たちに教えてくれたのだ。ゴミ虫だって益虫として生きることができるということを教えてくれたのだ。そんな白河部長の思い出がヤツを突き動かしておる」
夏樹が四方山を見た。
「……でも、四方山センパイも西村センパイもゴミ虫じゃないですよ?」
「んっ?」
ギクリ。四方山はギクリとした。夏樹のまなざしの中になにか険しいものを見たような気がしたのだ。そう、夏樹は実にいい子なのである。傲慢でも卑屈でもなく、適度な自尊心を持っているし、他人のそれを尊重することも知っている。実に夏樹家の皆様は夏樹蒼太を立派に育てたのだ。
「あの、四方山センパイ……」
「な、なんだ……?」
「ボクも……ボクたちも……」
何かを言いかける夏樹である。
「……あ、えと……やっぱりなんでもないです」
夏樹は缶ジュースをあおって飲み干し、自販機のとなりにあった缶入れに入れた。
「四方山センパイ」
夏樹は決然とした面持ちで言った。
「ボク、戦っていいですか? ボク、西村センパイと決闘してもいいですか?」
「そ、そりゃ、もちろん、かまわんが……」
いったいどうしたというのだ。四方山は戸惑った。夏樹ひとりで大丈夫なのか、心配にもなったのだ。
「夏樹君はなにか武術や格闘技の経験はあるのか……?」
「えっと、これ……」
夏樹は四方山に手のひらを見せた。そこには薄れかけてはいるが、確かに竹刀だこがあったのだ。
「これは……剣道か?」
「はい。ボク、中学のころは剣術の道場に通っていたんです」
四方山は驚いた。ここへ来て衝撃の新事実発覚なのだ。
「でも、今はもう、やめちゃいました。型は上手いって言ってもらえてたんですけど、試合になると全然勝てなくて。中学最後の試合が終わった後、館長さんに呼び出されて言われたんです。『この道はお前の道じゃないぞ』って」
夏樹にも挫折の記憶があったのだ。四方山はそのことにも驚いたのだ。
「そのとき、『それでもやらせてください』って言えればよかったんですけど。でも、何も言えなくて、そのまま……」
夏樹は四方山から目をそらしたまま、話を続ける。その横顔はとても真剣なのだ。
「ボクはいつだって意気地なしで中途半端なんです。でも今は、西村センパイの気持ちに応えたい。ボク、頑張ってみたいんです!」
そう言って夏樹は四方山の目を見た。なんと真っ直ぐな眼差しであろう。狂気じみたあの男の気持ちを受け止めたいというのだ。夏樹蒼太。大変にいい子なのである。四方山は大いに感動したのだ。そして閉店して間接照明だけになっているみやげ物屋にずかずか入っていった。店の一角に温泉街特有の木刀を見つけ、それを手に取り、今度は旅館の受付カウンターにいる若い男の従業員のもとへ向かったのだ。
「お客さま、いかがなさいましたか?」
「この木刀が気に入った。今すぐ売って欲しい」
「かしこまりました」
それは完璧な営業スマイルであった。明け方の眠くなる時間帯に、頭のおかしい注文をさらりと受けるその姿勢はまさに完璧なホテルマンだ。もっともここは旅館であるので、旅館マンと呼ぶのが正確なのかもしれない。
「夏樹君、これをあげよう。ぞんぶんに戦うがいい」
夏樹は力強くその木刀を受け取った。
「はいっ! ボク、がんばります!」
この意味不明のやりとりを前にしても、旅館マンの営業スマイルは微塵も揺るがなかったのだ。




