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此ノ川高校文芸部★  作者: m8eht
第5章 理性は全ての感情を観察する
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第31話 「神」

 さて、西村によく似た例の男は、絶賛キャッキャ展開中の露天風呂をのぞこうとしていただろうか。その答えは否である。男は宿の一室に一人でいたのだ。

 そして男は、短刀を鞘から抜いて見入っていたのである。何か凶悪なことを考えているのであろうか? 否。断じて否。この短刀を見てそういうことを考える奴など居やしないのだ。末古刀期、備前長船刀工の中でも中堅どころの手になる真面目な作である。やや幅広で丸みを帯びた平造りという姿は、鋭利という印象を与えるものではない。よく練られた地鉄に、すっとまっすぐな刃文が引かれ、その周りには銀砂をまいたような細かな粒子がきらめいている。電灯の光を受けて落ち着いた光を返すその刀は、見る者の心をどこか静かな場所へと連れていってくれるかのようだ。この短刀は西村民男が生誕のおり、彼の祖父がお守り刀として購めたものである。今の西村には祖父の気持ちがわかるのだ。痛いほど、よくわかるのだ。しかし、あのころの西村にはわからなかったのだ。


 あのころ――それは西村が中学生のころである。中学生の西村は、一言でいえばイジメられていたのだ。そのときのことを細かく描写するのは適切ではあるまい。つまるところ、人間社会のそこかしこで見ることのできる暴力と暴言とがあったのである。それは本当にありふれたものであるが、やられた当の本人にとっては心をえぐるような体験である。西村もそういったものに巻き込まれたのだ。

 心の痛みとともに刻み付けられた記憶は、人を捕らえて放さない。どこまでも追いかけてくる。何度も反復させる。そして、いつしか人は空想の中で復讐を始めるのだ。想像力が生み出したその光景は、人の心を蝕んでいくのだ。

 空想の中で西村は相手の頭に何度も何度も大きな石を叩きつけ、頭を割って血と脳漿をぶちまけさせた。あるいはナイフで腹をえぐり、また屋上から突き落とした。想像力に相手を憎むよう焚き付けられ、へとへとに疲れた頭で、それでもなお相手を憎み続けていた。そしていつも、気絶するように眠りに落ち、気が付けばまた朝である。その日々は一言でいえば地獄であった。この憎しみを忘れさせてほしいと願ったいくつもの夜があった。しかし、どんなに願ってみても地獄の日々は終わらなかったのだ。

 そしてある夜のことである――。

 眠っていたはずが、ふいに目が覚めた。そこには暗黒があった。停滞した空気とともに佇む闇があった。そして西村はその声を聞いたのである。

『なぁ、あいつら殺してムショ行こうや』

 それは頭の中に響いた声ではなかった。たしかにその耳で聞いたというのだ。それは人の声ではない。それは闇の声だというのだ。闇が西村を呼んでいたというのだ。その一線を越えろと呼びかけていたというのだ。

 朝が来た。西村は祖父からもらった短刀を腰に差して、それを隠すように制服の上着を羽織った。

 通いなれた通学路を歩く西村の顔は晴れ晴れとしていた。

 これから大量殺人を犯すのだ。やっとあの暗黒の夜から解放されるのだ。やっとあの脳が焦げ付くほどに刻み込まれた記憶から自由になれるのだ。西村の心は喜びに満ちていた。そして腰に短刀を隠したまま、外界と神聖な学び舎とを隔てている校門をくぐろうとした。

 しかし、西村はくぐりおおせなかった。西村の前に立ちはだかった男がいたのだ。その御方こそ、当時、山ノ上中学校生徒会長であった白河光太郎であった。その日の朝、白河光太郎は生徒会のあいさつ運動の関係で校門にいたのである。

「君」

 白河光太郎は、西村に優しく声をかけた。

「いったん家に戻りましょう。わたしもついていきますよ」

 穏やかで静かな声であった。しかし、そこには侵すことの出来ない威厳がこめられていた。西村はその言葉の圧に押され、その言葉に従うしかなくなったのだ。

 二人が西村宅に着いたとき、出迎えた西村母と西村祖母はある予感を感じていた。そして二人を座敷に通したのである。

「見せてください」

 白河光太郎は西村のお守り刀を受け取り、そして静かに引き抜いた。光にかざして見る。その鑑賞の所作。その美しさといったらないのだ。そして、白河光太郎は言った。

「良い刀ですね。この刀は人を傷付けるためのものではありませんよ」

 白河光太郎はこの刀の本質を一目で見抜いたのである。短刀は再び鞘に納められ、西村の前に置かれた。西村は白河光太郎を見た。その澄んだ瞳。その光。

 そして西村は見たのだ。自らの心の内にそれを見たのだ。白河光太郎という光に照らされてその正体を現した者、己の心に巣食う者、憎悪という名の怪物を。剣は己の心に住む邪悪と対峙するためにある。西村はそのことを悟ったのだ。憎悪は、凶悪な疑心暗鬼を生み出すために想像力を用いるのだ。だから心に隙を作ってはならない。それこそ、白河光太郎が西村に授けた最初の教えであったのだ。

 なお、このとき西村母と西村祖母は座敷を覗き込んでいた。やがてその頬を涙が伝う。この御方は大変な御方だ。それがわかったのだ。この御方こそ、うちの民男を導いてゆく御方。それを直感したのだ。座敷の仏壇には西村祖父の遺影が飾られている。お父ちゃん、民男を見守ってあげて。西村母はそう父親に語りかけた。西村祖母は静かに手を合わせている。そして西村祖父は遺影の中でただ穏やかに微笑むのであった。


 男は我に返った。そして、古びた温泉宿の一室にいる自分を見つけた。

「……」

 短刀を静かに鞘に納める。しばし瞑目した後、かたわらにあったスマホを手に取った。そして、四方山の携帯が、この温泉街に到着し、かつて白河部長と泊まった旅館に向かって移動しているのを確認したのだ。


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