第30話 「意志」
冬原たちを乗せた車がたどり着いたのは、海沿いのさびれた温泉宿であった。奥の生垣の向こうがすぐ砂浜、そして海になっており、波の音が絶えず聞こえてくる。
「ようこそいらっしゃいました」
玄関先でさび色の和服を着た老婆が一礼する。
「ご案内いたします」
冬原たちが黒フードの男達に囲まれているのに、特段、奇異に思った様子もなく、部屋へと案内するために背を向けた。
冬原たちは十五畳ほどの和室に通された。真ん中にテーブルがあり、あとはテレビと貴重品を入れる金庫、窓辺には小さな卓を真ん中に二つの籐椅子が向かい合っている。ごく一般的な旅館の和室といった風情である。
「明日の昼までには片がつくと思います」
あくまで静かに、西村によく似た男は言った。窓から入る光はすでに薄暗く、男の姿は白っぽく浮き上がっているように見える。そして、その左右には黒い影が立っていたのだ。
「それまでは温泉にでも入ってのんびりしててください。必要なものがあれば宿の人間に言えば揃えてくれるでしょう」
「ねえ、西村くん。どうしてこんなこと……」
春川先生は聞かずにはいれなかった。
「夏樹くんに……」
そこまで言って、男は言葉を選ぶように口をつぐんだ。
「夏樹くんに、歪んでほしくないから。僕みたいに、なってほしくないから」
男は明言した。
「無垢なまま、けがれを知らないまま、生きていくことはできない。だからこそ、今の僕にできることがある。それだけですよ」
男はきびすを返し、部屋を出て行った。黒尽くめの男達も後に続く。部屋には春川先生と冬原、東堂が残された。
春川先生は迷っていた。もし、強いて逃げようとすれば逃げられるのかもしれない。春川先生には西村が誰かを傷つけるような人ではないと思えたのだ。しかし、春川先生の心の声は言っていた。ここで逃げたらだめだ、と。
(もし、今、西村くんにちゃんと向き合わなかったら……もう二度と本音の西村くんに出会えない気がする。そうなったら、わたし、きっと後悔する。だから……)
春川先生はそんなことを考えたのだ。春川先生とはやはり聖天使であろうか? それとも単なる女神なのか?
一方、冬原は何も言わない。何も言わずに考えていた。四方山や西村に毒舌を振るうという事実は、冬原緋奈が繊細な女性であることを妨げない。先ほど男が言ったこと、そして車の中で電話をしていたときに出てきた言葉。
『夏樹くんは学ばなければならない。戦う、ということを』
彼女は男の言うことを完全に理解したのだ。理解して受け入れたのだ。彼女は自分の想い人に足りないものを自分の中で完全に言語化したのである。
「春川先生、せっかくの温泉なんですよ。のんびりすればいいと思います」
東堂は落ち着いたものである。彼女が電気をつけると部屋の中が明るくなった。同時に場の空気も緩んだようであった。
広瀬氏の運転する車は快調に海沿いの道路を飛ばしていた。もうあたりはすっかり暗くなっている。車内はいつも広瀬氏がドライブするときにかけているのであろう、ご機嫌な音楽が流れているのだ。圧倒的なリア充感といわざるを得ない。
そんな中、助手席の四方山は考え込んでいた。あの三万円を渡したことはどうなるのだ。もしかしたら誘拐を幇助したと指摘されるやもしれないのだ。しかしそれも……致し方なし。四方山はそう結論した。腹を括ったのだ。
音楽が止んだ。ちょうどCDが一周したのである。
「あの~広瀬さん」
「ん? 大河でいいよ」
「あ、じゃあ、大河さん。あの、ユイ先生とはどこで知り合ったんですか?」
急にどうしたのであろう。夏樹がそんなことを聞くのだ。
「あ~、おれたちってさ、大学で出会ったんだよ。同じゼミだったんだ」
広瀬氏、そういう話は嫌いではないようである。しまりのない笑顔で話し始めるのだ。
「彼女の方が一年後輩だったから、はじめはおれ『広瀬さん』って呼ばれてたんだよ」
四方山には、広瀬氏の横顔が思い出のために輝いたように見えた。
「でも、付き合い始めてからは『大河さん』になって、そんで今は『タイガくん』になってる。どうよ? なんかいいだろ?」
いや、知りたくないのだ、そんな情報は。そして四方山には確かに聞こえたのである。車の後ろの方から、北峰の心がきしむ音を。
「あの、いつかユイ先生と結婚するんですか?」
今日の夏樹はどうしたのだ。なぜそんなことを聞くのか、四方山はいぶかしく思ったのだ。そして衝撃の答えが返ってくるのである。
「もうプロポーズしたよ」
「え!? そうなんですか!?」
「ああ。彼女の大学の卒業式の日に」
「そ、それで……?」
「もちろんオッケーさ。ユイが社会人になって一年経ったら……おれ、ユイと結婚するんだ」
まさに『人生を決めた』というやつなのだ。
「それでこのワゴンも買ったんだよね。子ども五人は欲しいかなって」
広瀬氏、ずいぶん気の早い男である。しかも春川先生と何をするつもりなのだ。とんだド変態野郎である。
なお、この三列シートの三列目では、人知れず崩れ落ちてシートに突っ伏す北峰がいたのだ。南泉は二列目に座る夏樹の横で、静かに窓の外を眺めていた。
いろんな人間の思惑を乗せて、広瀬氏の車は夜の湾岸道路を軽快に走っていくのであった。
「ふぃ~」
そのころ……文芸部三人娘は露天風呂に入っていた。ここに至って、まさかの危機感ゼロなのだ。まさに『女は度胸』である。
「いいお湯ですね~。西村くんもいいとこ知ってるよね」
ちゃぷり。耳に心地よい水音をさせながら、清楚系ビッチが自分の二の腕をなでた。その妖艶っぷりは今すぐにでもどこかの温泉宿のCMに出演できそうなほどだ。
「春川先生、なに考えてるんですか?」
そして、何か考えごとをしているふうの春川先生に声をかけるのである。
「せっかく来たんですから、楽しみましょうよ」
気楽にもほどがある。しかし、これこそ文芸部男性陣の生態を知り尽くす東堂ならではの余裕と言えるだろう。
「うん、そうかもね」
「じとーっ」
自ら効果音を付けながら、東堂は春川先生の胸を凝視する。
「な、なあに?」
「ふふ、大きいですね。触ってもいいですか?」
こんなときにも百合営業に余念が無い東堂なのである。
「え、ちょっと……だ、だめよ」
「ちょっとだけ、ほんのちょっとだけですから!」
「え……えと……」
ぺったり。ほんのちょっとだけと言いながら、遠慮会釈もなく、東堂は大きく広げた手のひらで春川先生の胸に触れたのだ。すなわち、思いっきり行ったのである。
「あ、ちょっと……!」
そして戸惑う春川先生にお構いなく、いろいろとやらかしたのだ。
「と、東堂さん、だめ……」
春川先生はそう言うが、すっかり鼻息の荒くなった東堂は、後輩もけしかけるのだ。
「ほら、緋奈もご利益に預かりなさい」
「え、でも、あたしは……」
「すごいよ? ほんとすごいんだよ?」
「……」
冬原はついに好奇心に負けた。どうすごいのか知りたくなったのだ。
「ほら」
「うん……」
東堂に促され、冬原はおそるおそるといった感じで、春川先生の胸に手を伸ばす。
「ごくり……」
我知らず唾を飲む冬原である。ふにふに。
「あ、やっ……冬原さん……」
「ね、すごいでしょ?」
「う、うん……」
ね、すごいでしょ?ではないのだ。後輩を堕落の道に誘う先輩は悪い先輩である。こんなことではご利益なんぞあろうはずがないのだ。




