第28話 「黄昏の男」
その日、四方山はまっすぐに自分の家へ帰らなかった。此ノ川高校の方へと自転車を走らせたのだ。そしていつもの土手の階段に座って、大吟醸川を眺めていたのだ。それはまるで心の痛みが、四方山をこの場所へ呼んだかのようであった。
夕焼け空の下、川面はどこまでも続く幾何学模様のようでもあり、変化を繰り返す時間の流れのようでもあったのだ。四方山はそんな光景を眺めていたのである。
「ノブくん。ここにいたんだ」
やってきたのは西村である。北峰まで向こう側に行ってしまった現状において、もはや白河派は西村と四方山の二人しか残っていないのだ。これからいったいどうなってしまうのであろう。果たしてこのままで、新入部員たちを白河派へと引き込めるのであろうか。四方山の心に若干の不安がきざしたのだ。
「プールでは、ずいぶん楽しんでいたじゃないか、西村君?」
自分のことを棚に上げつつ、かすかな皮肉を込めて、四方山は言った。現状に対する憤りを吐露したかったのである。
「そりゃあね?」
西村は四方山の二段先に下りて、大きく伸びをした。
「みんなカワイイ子たちさ」
そのとき、四方山は違和感を覚えた。西村は『カワイイ子たち』の中に東堂や春川先生も含めているようなのだ。まさか? 四方山にある予感が訪れた。
「だからこそ、伝えたいメッセージもあるけど」
そう言って四方山を振り返った西村は、もはや西村ではなかった。黄昏時の闇に顔の半分を喰われたその男は、もはや西村ではなかったのだ。
「……『整った』のか?」
西村だった男は口の端を歪めて笑った。
「始めてもいいのかい?」
「……かまわんよ。いつでも」
四方山は、胸ポケットから例の三万円が入った封筒を取り出した。
「何かの足しにしてくれ」
男は黙って封筒を受け取り、ポケットにねじ込んだ。
「……ねえ、ノブくん」
「何だ?」
「脳みその表面になすりつけられた悪意ってのはさ……」
ゆっくりと紡がれる言葉。その響きはどこまでも虚ろであった。
「どんなに額をぬぐってみても、取れやしないんだ」
四方山は男を見た。男は四方山を見ていた。視線が交差する。
「……じゃ、行ってくる」
「ああ……」
男の足音が遠ざかっていく。四方山は感じていた。闇がよみがえったのだ。かつて白河光太郎によって葬り去られた闇が。しかし今度は、白河光太郎の忠実な僕として。新入りどもを白河派へと引きずり込む。それが新入りどものためになると信じているのだ。狂信しているのだ。
「これでもし、誰かの心に消えない傷が残れば……」
四方山は一人ごちた。
「俺が死んで詫びるしかないな」
風が四方山の独り言を吹き散らしていった。川面は黄昏の光を失って黒くうごめいている。夜の闇はもうすぐそこまで来ているのだ。
男が動いたのはそれから一週間後。金曜日の放課後である。




