第27話 「プール」
憎悪に巣食われた心は夢を見る。ひたすら暗く、血の匂いのするその場所を夢に見る。その憤怒に身を任せたいのだ。その手を血で汚したいのだ。憎悪の見せる幻は復讐の悦びに満ちている。歪んだ理性はその狂気を擁護し、肉体はその衝動の訪れを待ち焦がれている。
『殺す。もう殺す。誰にも邪魔はさせない』
しかし……しかしだ。それでいいのか? 本当にそれでいいのか? 人が人を憎むことは果たして自然なことだろうか?
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四方山は憂鬱であった。
まさか北峰まで向こう側に行ってしまうとは。まったくの誤算だったのだ。四方山はじりじりと追い詰められつつある自分に気付いたのだ。ガララ。そんな憂鬱な気分のまま、四方山は部室の扉を開けたのである。
「あっ、四方山センパイ来たっ!」
うれしそうに声を上げたのは夏樹であった。いったいどうしたというのだ。四方山は夏樹のリアクションをいぶかしく思った。夏樹は立ち上がって、カバンから何かのチケットを取り出して皆に見せる。
「じゃじゃ~ん!」
なんと古風な効果音であろう。
「あのですねっ! 実は、緋奈が温水プールのチケットを福引で当てたんです! 週末に、みんなで行きましょう!」
どうやら四方山がやってくるまで、その発表を引っ張っていたらしいのだ。
「なんでアンタが仕切ってんのよっ……」
むっつりしつつも冬原は夏樹を止めようとしない。
「みんなー! プールに行きたいですかー!?」
「「「「お~」」」」
のんきで平和な文芸部ではある。まるで正月の宴会で子ども達の余興に沸く親戚のオジちゃんオバちゃんのノリなのだ。ちがうだろう、そうではないだろうと四方山は思うのだ。それにしても、西村、東堂、南泉、そして春川先生はともかくとして、北峰まで片手を挙げているのはどうしたことだろう。『皆が挙げてるから仕方なく』といった体を装ってはいるが、手を上げていることに変わりはないのである。やはり北峰は脱落していたのだ。白河四天王から脱落していたのだ。
「とりあえずみんなの水着姿を拝みに行こうよ、ノブくん」
西村が四方山の肩をポンと叩いたのである。
さて、その週の土曜日である。文芸部一行がやってきたその屋内型プールは、波が起きるプールや流れるプールなど無数のプールがあって、しかもところどころ軽食を出す店まである、いわばリア充御用達のプール型遊園地と言ってもいい代物であった。
四方山は大いに場違い感を覚えつつ、パラソル付きのテーブル席で、ほおづえをついていた。視線の先にいるのは、波が起きるプールの波打ち際でビーチボール遊びに興じている文芸部のメンバーである。
「なんということだ……」
四方山は嘆息とともにつぶやいた。思えば遠くまで来たものだ。去年からは全く想像もつかない光景なのだ。ガラス張りの天井からは太陽の光がそのまま降り注いでくる。キラキラ輝くのはプールの水なのか、それとも部員達なのか。全く分からないのだ。そしてその部員達に春川先生も混じっているわけだが、それが全く違和感がないのだ。それはそうである。つい2ヶ月半くらい前まで、春川先生は女子大生だったのだ。JDだったのだ。やはりどこか子どものようなところが残っているのは、仕方のないことである。
南泉がトスを上げた。ちょうど近くを三人の女子が通りかかる。一人が友人たちに南泉への注意を促す。
「きゃあ~」
声にならない悲鳴を上げて、あとはキャッキャと通り過ぎていく。なんとも南泉のイケメンぶりではある。
そのトスを受け損ねたのは北峰である。かの秀才メガネがビーチボールを追いかけるその姿は、なんともシュールであった。
四方山はそういった光景を見ながら、たそがれていたのだ。そして、たそがれる四方山の隣には西村がいた。緩んだ口もとを隠そうともせず、青春の光に包まれた部員達の方を見ている。この西村と並んで座っているというのは、四方山にしてみれば、なんとも締まらない構図であった。
四方山と西村の視線に気付いたのであろう、夏樹が二人に大きく手を振った。そして四方山たちのほうへ歩いてくる。途中、二人のチャラそうな男が夏樹に声をかけた。いかにもナンパでもされているような様子である。トランクスタイプの水着の上にパーカーを羽織っている夏樹である。一応、男のような格好をしているが、まだ女にしか見えない夏樹なのだ。夏樹は、きゅっとくちびるをかんだようである。しかし、次の瞬間、夏樹はパーカーのファスナーをガッと下ろして、バッと胸を開けた。
「ボ、ボクは男なんですッ! だから行きませんッ!」
と、言ったようである。男たちは「マジか……」みたいな、ねっとりこってりした視線を夏樹の胸に送り、夏樹は恥ずかしいのをこらえて、ぐっと我慢しているようであった。
やがて男達は去った。
「夏樹君も強くなったもんだ」
四方山は感心していた。
「あれって本来、男がやると変質者扱いされるはずなんだけどな。夏樹くんがやると、なんていうか、最高だよね? たぎってくる」
「ああ、そうかい……」
四方山はすっかり呆れたのだ。西村という存在に呆れたのである。そんなことを話しているうちに、夏樹が二人のそばに来た。
「四方山センパイ、西村センパイ、泳がないんですか? とっても気持ちがいいですよっ!」
はじける笑顔は青春の証である。四方山は気圧される思いがした。
「いや、俺は……」
「そう、もう年寄りでね」
西村が勝手に後を引き取った。
「そんなことないですよぉ~、ふふふっ」
言ってから、夏樹は辺りを見回した。
「あ、なにか飲み物、買ってきますね」
そう言って、売店の方へと歩いていくわけである。そんな夏樹の背中を見つつ、西村は言った。
「……ねえ、僕たち、どさくさにまぎれて後輩をパシらせてない?」
「……」
「そんな大人にだけはなりたくないって思ってたのにねェ……」
ぼんやりしていて気付かなかったが、たしかに客観的に見れば、夏樹をパシらせている。いったいいつの間に、こんなに堕落してしまったのであろう。ガラス張りの天井からは太陽の光が降り注いでくる。全ては太陽のせいなのではないか? 四方山はそんなことを思ったのだ。
結局のところ、四方山と西村は夏樹の買ってきたジュースをストローですするハメになった。パラソル席の三人、すなわち四方山、西村、夏樹の視線は波の起きるプールからウォータースライダーの方に移っている。
南泉、北峰ときて、次に東堂が滑り降りてきた。今まで四方山が見たこともなかったような笑顔ですべり降りてきたのだ。
「秋子さま、スタイルいいよなァ~」
西村がそんなことを言い出す。
「白いワンピースタイプの水着。背中がざっくり開いて綺麗なお背中が丸見え。いやぁ、白河部長がうらやましいなぁ」
四方山としては白河部長が女の、しかも東堂の体を撫で回しているところなんぞ想像できなかったのだ。この世界にはまだ、四方山に開かれていない部分というものは存在しているのである。
「え? 東堂センパイって白河部長さんと付き合ってるんですか!?」
「そ~よ? もう完全に許婚状態よ?」
「そ、そうだったんですかぁ! 初めて知りました!」
四方山には、西村が夏樹をからかっているのだと分かっていたが、ついでに一つの未来予想図を既成事実化しようとしていることにも気付いたのである。しかし、だからといって、四方山としても白河部長が誰か知らない人とくっつくよりも、東堂とくっついてくれたほうが良いように思えたのだ。これは四方山における思い出の在り方の問題である。
東堂の次には、春川先生が降りてきた。なんと輝く笑顔だろう。ウォータースライダーの弾ける水がそのキラキラ加減に拍車をかけている。あの笑顔が北峰了一の青春の全てとなるのであろうか。全く可哀そうなヤツである。四方山はどことなく切ない気持ちになったのだ。
「う~ん。うすいブルーのビキニ。清涼感があって、春川先生が着ると本当に上品な印象だよねェ……」
西村はそんなゲスな批評を始めるのだ。
「それにしてもユイ先生のおっぱい、ほんとエロいよね~」
そして話はよりいっそうゲスな方向に逸れていくのである。
「いいよねェ広瀬氏。あのおっぱいフツーに揉めるんでしょ? それってヤバくない?」
「ヤバいのは君の頭だよ、西村君」
その昔、トレンドを極めた女子高生なる生命体が『キモイ』という言葉を発明したのは、まさにこういう瞬間ではなかったかと思うのだ。
最後にすべり降りてきたのは冬原である。怖いのか、若干顔がこわばっている。しかし、水しぶきを上げてプールに突っ込んだ後は、「余裕だった」な笑顔を作っているのである。なんとも冬原らしいのだ。
「いいねえ。緋奈ちゃんはほんと、元気少女ってカンジだよねェ」
西村は言い出すのだ。
「ビキニタイプのフィットネス水着。う~ん、ほんとによく似合ってるねェ。あえておなかを出してるところに勝負魂感じちゃうなァ~……」
たしかに文芸作品をものするためには、身の回りにある物の名前をよく知っているということも大切なことである。しかし、女子の着ている水着をこうも的確に指摘・描写するというのは、どこか違う気もしてくるのだ。少なくとも四方山は『ビキニタイプのフィットネス水着』などという単語を、このとき初めて知ったのだ。
「いやあ、でも緋奈ちゃん、かわいいおしりしてるよねェ。安産型だね。蒼太くん、どう?」
「え? はぁ……」
「将来的に、緋奈ちゃんのおしりを合法的に撫でまわせるのは、いったい誰になるんだろうね?」
「夏樹君。その男がウザければ殴ったっていいんだぞ?」
四方山は大いに怒気を含ませて言ったが、なぜか夏樹は下を向いてもじもじしているのだ。
さて、パラソル席の三人のところへ、東堂を先頭に文芸部のメンバーがやってきた。すかさず西村が地べたに寝転がる。それはまさに逆土下座であった。
逆土下座とは土下座の逆である。地べたにひたいを擦り付けるのではなく、お犬様が飼い主の前で喜び勇んでやるあの腹芸である。これによって恭順の意を示すとともに、視線は下から女性陣の体を這い上がるわけだ。
ふみゅっ。そんな西村の顔を、東堂がはだしで踏んだ。なんということだ。東堂君、君はそういうキャラだったか? 四方山は大いにギクリとしたのだ。
「にゃうん、にゃうん」
キモい歓喜の声を上げるデブった猫が現出する。
「秋子さまの足の裏、ひんやり気持ちいいですぅぅぅ」
なんという醜態であろう。
「ね、そろそろお昼にしましょうよ」
西村の痴態を軽くいなして、東堂は言うのだ。そして女性陣三人と南泉、そして北峰は軽食コーナーの方へ歩いていくのだ。
「……さて、俺達も行こうか」
四方山はすっと立ち上がった。西村も跳ね起きる。しかし、夏樹はなぜか立ち上がろうとしないのだ。
「どうした夏樹君。何してる? 行くぞ」
「えっ、えっと……あの……」
若干前かがみになって、そして両手で股の間を隠すようにして、もじもじしているのだ。
「さ、先に行っててください! ボク、すぐに追いつきますからっ」
そしてなぜか顔も赤くなっているのだ。
「そうなのか?」
四方山は怪訝に思いつつも、東堂たちを追いかけて歩き始めた。後ろから西村も付いてくる。
「夏樹君はいったい、どうしたというのだ?」
「要するにそういうことだよ」
「水着でか?」
「水着でね」
「水着でか……」
水着で立てなくなるとは純情にもほどがある、の意である。
「ある意味、『たってる』けどね」
「そのくらいにしておけ、西村君」
性欲を完全に理性の管理下に置いてこその白河派である。そういう意味において、夏樹はまだまだ修行が足りていないようなのだ。なんとか白河派の精神を伝えたいものだが……。四方山はそう思ったのだ。
結局、午後からは四方山もプールに浸かって、大いに泳いだり遊んだりしたのだ。そして一抹の心の痛みを感じつつも、なんだかんだで、それはそれは楽しい一日を過ごしてしまったのだ。




