第26話 「温順犬」
四方山はなんとも気まずい思いをしていた。北峰は先に立ってサッサと歩いていくし、春川先生は四方山の少し後ろを歩いている。二人に挟まれる形となった四方山は顔を冷や汗にまみれさせ、挙動不審となっていたのだ。
「北峰くん」
春川先生の声に北峰はピタリと立ち止まった。なんという声であろう。それだけ春川先生の声に含まれるいわば『引き止め力』ともいうべきものは強かったのだ。そして北峰は、ぎこちなく振り返った。
「……なんでしょう?」
やや不機嫌そうな声の北峰である。しかし……コツ、コツ、コツ。春川先生が北峰に歩み寄った。ああっ!? そして次の瞬間、四方山の目の前にとんでもない光景が出現した。北峰が春川先生に抱きしめられていたのだ。英語で言えばハグ。かつての北峰の言い草を借りれば、『肉袋が付属のアームで他の肉袋を抱え込んでいる』ということになるのであろう。しかし、社会科学の見地から言えば、これは『お姉さん先生が親愛の情を込めて生徒を抱きしめている』と言えるのだ。
「あ、あの……」
北峰は振りほどこうとするでもなく、また抱きしめ返すなどということも出来ようはずもなく、ただひたすら全身を硬直させて抱きしめられていた。その表情は、迷子の子犬のようでもあり、また初恋に戸惑う少年のようでもあった。
北峰君、耐えろ! 耐えてくれえええ! 四方山は心の中で絶叫した。しかし、その声は北峰に届くはずも無い。人の心と心の間には肉体と空間、この二つの仕切りがあるからだ。それにしても『抱きしめる』という所作のなんという怖ろしさであろう。春川先生の高貴なお胸が北峰の胸っぺたに「これでもか」と押し付けられているのだ。
「ずっと嫌われてるのかと思ってた。ありがとう……」
春川先生の声には涙がまじっていた。『大人は傷つかない』というのは迷信である。そして春川先生は北峰のこともちゃんと考えていてくれたのだ。
やがて春川先生は北峰から体を離して、その両肩にそっと手を添えた。そして北峰の顔をのぞき込むようにして言ったのだ。
「でもね、先生は天使じゃないよ。人間だよ」
涙に光る笑顔の、なんという美しさであろう。春川先生はやはり天使だ。四方山は自分の言った言葉に確信を得たのだ。そして四方山は幻視した。北峰のケツのあたりに揺れる尻尾を幻視したのだ。かつての狂犬は白河部長の手によって馴れ犬となり、いま春川先生の手によって盲導犬の資質をも備えた温順犬へと成り果てたのだ。
堕ちた。四方山はそれを確信した。北峰は白河四天王から脱落したのだ。四方山はそれを悟ったのだ。
そんなこともありつつ、四方山たちは部室に凱旋した。春川先生を死守したのだ。なにはともかくメデタシメデタシというものである。
「河原にピクニックに行こうよ」
東堂の提案で文芸部は河原にピクニックに行くことになった。四方山の労をねぎらおうというのである。大変に感心な心がけではないか。文芸部でぞろぞろと河原を目指して歩く。なんというほのぼのとした時間だろう。なんとほのぼのとした雰囲気だろう。四方山はほんの少しの間、北峰が白河四天王から脱落した悲しみを忘れたのだ。当の北峰はいつもの澄ました顔をしている。しかし、その鼓動はいつもの五割増しで刻まれていたのだ。
さて、一同が土手の階段を上りきったときである。
「結衣!」
突然、河原の側から春川先生を呼ぶ声がした。その声の主は、土手の階段を駆け上がってきて、ようやく春川先生の後ろに控える文芸部一同に気付いたのだ。そして、ちょっと驚いた顔をするのである。
「せんせ、だーれ?」
真っ先に食いついたのは東堂である。すでにその答えを見透かしたかのように聞くのだ。
「えーと、えーと、誰だろう? 変な人かな?」
それに対し春川先生は、普段の春川先生に似ず、おどけた口調で言うのである。そして言ってることとは裏腹に甘えかかるような口調なのだ。まさか……まさか……。四方山は否が応でも直感せざるを得なかったのである。春川先生が四方山たちに向き直った。
「ええと、広瀬大河さん。先生の……彼氏、です」
彼氏。そのあまりに生々しい響きに、四方山は頭をガツンとやられたのだ。
「どうも、広瀬です」
広瀬氏は人の良さげな笑顔で自己紹介をした。まさにイイヤツ感にあふれている。
「おおお~」
そして広瀬氏は文芸部の部員たちに取り囲まれるのだ。
それにしても、広瀬氏を見る春川先生のまなざしの優しさよ、その様子の愛らしさよ。なんというカップルであろう。まさに存在自体がしあわせ家族計画と言ってよいのだ。
夕焼け空の下で文芸部の部員達に取り囲まれる春川先生と広瀬氏。それはそれはしあわせな光景であったのだ。そしてその光景はもはや若いとは言いがたい四方山の目に染みたのだ。
東堂君も、南泉君も、夏樹君も、冬原君も、浮かれすぎだ。無作法だ。四方山は心の中で苦情を述べた。そして西村に至っては言うまでもないのだ。やれやれ、困ったものだ。そこまで考えて四方山はハッとした。一人足りない。背中を悪寒が走り抜けた。そしておそるおそる後ろを振り返ったのである。
北峰の短い春は終わっていた。




