第25話 「マンガ研究部にて」
四方山と北峰はマンガ研究部の部室の前に立った。ウム。四方山は腹に力を込め、気合を入れた。
「たのもう!」
そしてついに、マンガ研究部の領域に足を踏み入れたのだ。ギロリ。そんな二人を、机で何か書いていた徹夜明けの目を持つ男がにらみつけた。資料棚の前の男は二人に背を向けたまま、資料を読んでいるかのようである。しかし、その背中の硬直具合を見れば、二人を意識していることは明白だ。机に突っ伏したまま動かない男もいる。その手にはGペンが握られたままになっていた。
「こちらへどうぞ。部長もすぐに来ると思います」
四方山たちに応接用のソファを示したのは、三ツ編でメガネの大人しそうな女子である。しかし四方山は知っていた。彼女の心はいつも腐海をサーフィンしているのだ。そういうマンガを描き、それを堂々とマンガ研究部の部誌に載せているのだ。全くどいつもこいつも一癖もふた癖もありそうな連中である。なんだかんだで常識人のそろっている品行方正な文芸部とは大違いだ。四方山はそう思ったのだ。
四方山はソファに座り、北峰はソファのかたわらに立った。手を後ろに組んで、背筋を真っ直ぐにし、顔はうつむき加減だ。こういう姿勢をとると北峰は、その銀縁メガネの効果も相俟って、とても冷酷そうに見えるのだ。
「やあ、待たせたかい? ホームルームが長引いちゃってね」
ジョンがやってきた。授業中、先生の話そっちのけでノートにネームを描き、部室に来て原稿を書く、そんな猛者である。まさにこのメンツを束ねるにふさわしい男だ。
そんなジョンは反対側のソファに四方山と向き合うように座り、そのソファの横には、さっきまで資料棚の前にいた大男が立った。岩男大五郎である。コワモテな彼だが、少女マンガに見紛うごとき繊細な作風の持ち主なのだ。
ここに、文芸部とマンガ研究部は対峙した。その構図はまさにマフィア映画である。それぞれのドンが顔をつき合わせ、そのかたわらに付き人兼ボディーガードが立っているのだ。しかし、登場人物にややマヌケな感じがあるのは否めない。
「それで? どういうことになったかな?」
ジョンはすぐに話題に入った。
「とても言いにくいことだが……やはり文芸部としては春川先生と過ごす時間を大切にしたいという結論に達したよ。つまりシェアはできない、ということだ」
「なるほどね」
ジョンは納得した様子であった。しかし、例の腐海サーファー女史が四方山とジョンの前にコーヒーの入ったカップを置いたのだ。
「まあ、飲んでよ」
話は終わったはずなのに、どうしてコーヒーが出てくるのか。それは話が全然終わっていないからだ。むしろここからなのだ。
「でも、ねえノビー。もしかして君はぼくらの提案を何か勘違いしてないかな? もしかしたら『シェアしよう』というワードに対して、何か誤解をしている可能性もあるわけだよね? まず、この点について説明させてほしい」
ほうら、おいでなすった。そんなこったろうと思ったよ。四方山はそう思ったのだ。
「ぼくたちは毎日のようにマンガを描いてる。だから作品が完成したらすぐにでも的確なフィードバックが欲しいんだよ。もちろん、伊藤先生だけでも十分すぎるほどにそれを得ることができてる。でも、ここに春川先生が加わることによって、よりいっそう大きな効果が見込めるんだ」
ここまで言って、ジョンはコーヒーカップを取り上げ、コーヒーをすすった。
「たしかに、これだけだと、ぼくらだけが得をしているように聞こえるかもしれない。でもね、マンガ研究部とも絡むことによって、春川先生の視野はそれだけ広がることにもなるんじゃないかな? そしてこのことは巡り巡って君たちのメリットにもなる。そうじゃないかい?」
言い終えてジョンは、反応をうかがうように、じっと四方山の眼を見た。四方山は口もとに笑みを作って言った。
「たしかに。君達の旺盛な創作意欲には大いに敬意を払いたいね。ただ、世の中には色々な創作方法がある。俺たちはたいてい、インスピレイションが降りてくるまでのんびりしているが、春川先生にはこうした時間も俺たちと共有して欲しいんだ。それに視野を広げるということについて言えば、むしろ部活の掛け持ちによって、どちらについても中途半端になってしまわないかという危惧がある」
「うーん、前半については分かるけど、後半はどうかな? ぼくには中途半端なものになるとは思えない。それに春川先生はまだ二十二歳だ。教師としてこれからまだまだ経験を積んでいく必要がある。そのためには……」
「フッ……」
四方山はさりげなく、しかし、見せつけるように笑った。
「……ぼくが何か変なこと言ったかい?」
四方山はかたわらの北峰に聞いた。
「なあ北峰君。春川先生は二十二歳なのか?」
北峰はメガネのつるをぐいっと押し上げながら答えた。
「いえ、誕生日が四月二十八日なので、今現在二十三歳です」
「……と、いうことだ。率直に言って俺たちの方が春川先生のことをよく知っている。なぜならこの二ヶ月弱というもの、同じ時間を過ごしたからだ。いまさら他の部活に出向するという話でもあるまい。春川先生のことは、俺たちに任せてほしい」
「なるほどね」
ジョンはコーヒーをすすった。
「しかしまあ、ぼくたちにしてもこれから知っていくということはできるわけだ。ぼくたちも知りたいね、春川先生のこと」
「そうは言ってもねえ……」
四方山は渋い顔を作った。
「春川先生にしても、ずいぶんと文芸部に馴染んでおられるからなぁ……。最近で言うと、部室でうたたねをされてたことがあったなぁ……」
「パードゥン?」
「いやあ、そのときの寝顔のかわいらしさときたら……」
四方山は溜めを作った。そしてぐいっと親指でかたわらに立つ北峰を指さしたのだ。
「こいつですら見惚れるほどでね」
四方山はまるで西村のようなことを言い出した己を恥じた。しかし、こうでもしないとジョンを論破できないと感じていたのだ。徹底的に悔しがらせ、文芸部が春川先生を手放すはずがないと思わせるしかないのだ。
「四方山先輩」
「黙ってろ」
北峰の抗議を四方山は一蹴した。ここぞとばかりに威張り散らす四方山なのだ。こうすることで、文芸部部長としての威厳を見せ、四方山の下した決断が決して覆らないことを相手に悟らせるのだ。
この光景を見たジョンは攻め手を変えた。
「ふーん。それは興味深い話だね。……ところで、ねえノビー、思い出して欲しいんだが。ぼくたちは昨年度、一年弱にわたって伊藤先生をいわば『貸し出した』んじゃなかったかな? もちろん、恩を売るわけじゃない。しかし、この件について考える際には、この点も考慮に入れて欲しいと思うのは、そんなに無茶なお願いかな?」
北峰入部は六月なので、正確には十ヶ月である。ジョンは若干盛ったのだ。そしてこれは『貸しを返せ』と言っているのだ。あんなもんのどこが貸しだ、ふざけんな。四方山はそう思った。しかし、ここで『世話になった覚えはない』などど辛辣な口を利くのは素人である。相手の指摘をやんわりと受け止め、相手に言葉尻をとらえる隙を与えないのだ。また丁寧な口を利くことで品位も保てるというわけである。
「もちろん、それについては本当にありがたいことだと思ってるよ。心から感謝している。しかし。だからこそ。春川先生が我々の顧問となられた以上、俺たちは君達と伊藤先生の交流やふれあいといったものを邪魔したくないと思ってるんだ」
四方山はにこやかに返答した。その返答は相手の発言に対して微妙にずれたものであったが、これも戦略である。真正面から行くと、『借りを返さざるを得ない』という結論に達してしまうからだ。
さて、ここまで慇懃な言葉がずらずらと並んだが、会話の内容をよくよく精査してみれば、幼稚園の園児が「はるかわせんせーがほちいんだモン!」「だぁめぇなぁのぉ! はるかわせんせーはボクたちのせんせーなんだゾ!」などと喚きあっているのと同値なのである。それを慇懃な言葉で包んでいるに過ぎないのだ。これが巷で『交渉』と呼ばれているものの正体である。しかし、これができないと社会ではやっていけないのだ。お互いにニコニコと顔を見合わせる四方山とジョンである。その様子はさながら、化かしあうタヌキとキツネだ。
それはそれとして、四方山は勝機を感じていた。このままのらりくらりと行けば、話にひと段落つく程度の時間は十分に稼げるはずである。そこで「今日は遅くなったね。また後日に話そう」などと言って帰ればよい。もちろん、そんな後日は永遠に来ないのだ。ざまあみろである。
しかし、ここでジョンの左斜め後方にボディーガード然と立っていた岩男が、もどかしげに言ったのだ。
「さっきから、全部、詭弁じゃないですか! 真面目に話してくださいよ!」
四方山をキッとにらみつつ、言ったのだ。まだ若い。四方山とジョンは二人してそう思ったのだ。老獪さとはほとんど常に、若く真っ直ぐな感情をいたぶり、苛立たせるものである。しかし、社会に出たらそこはポーカーフェイスで乗り切らなければいけないのだ。
そしてまた、四方山は気が付いたのだ。岩男大五郎こそ、春川先生にもらった感想で大いに発奮した人物に違いないと。だとしたら危険である。ときに若い情熱は話の流れを変えるからだ。四方山はゆったりとした微笑を作った。
「どうしたんだ、ジョン。君らしくないじゃないか」
ジョンに向き直り、四方山は鷹揚に言った。暗に『部長同士の会話に割り込んでくるなんて、部員のしつけがなってないじゃないか』と指摘したのである。
「本当にすまないと思ってる」
ジョンは素直に詫びた。
「でも、彼の気持ちも分かってあげて欲しい。それほど、ぼくらは春川先生を必要としているんだ」
そして、さりげなく春川先生必要論へと話を持っていくのだ。
「ねえ、ミスター北峰」
と、ここでジョンは北峰に矛先を向けた。
「君はどうなんだい? 君は春川先生をどう思ってる?」
ギクリ。ここへきて四方山はギクリとした。そういえばどうして北峰君は俺に付いて来たのだ? そういう疑問が頭をもたげたのである。たしかに、この話を春川先生に内緒で握り潰せと言ったのは北峰である。それは全く頼もしいことである。しかし、よく考えると北峰はずっと春川先生にそっけなかったのだ。いったい北峰君は春川先生に対して、どういうスタンスを取っているのだ? 今さらながら、四方山は自分がそれを知らないことに気付いたのだ。北峰の返答次第では、突破口を探すジョンに絶好の機会を与えてしまうことになるのである。失言はやめろよ……! 四方山はそれを祈ったのだ。果たして、北峰は言った。
「春川先生は……おれたちの守護天使です」
メガネをくいっとして、決意に満ちたまなざしをジョンに向けた。
「絶対に手放すわけにはいかない」
……時間が止まった感じがした。四方山のひたいに冷や汗がにじんだ。や、やっちまったあああああ!!!! 四方山は心の中で絶叫したのだ。これではただの痛い子である。そして、ついさっき自分が言ったことを北峰がこんなにも真に受けていたとは、四方山にとって全く予期しないものであったのだ。
「……ハッハッハ。まあ、こういう冗談も言えるくらい、彼も春川先生に懐いているということだ」
乾いた笑いの四方山は、己の冷や汗ととともに話を流そうとした。しかし、そのとき岩男大五郎が大真面目な顔のまま言ったのだ。
「四方山先輩には見えていないのですか? 春川先生の……あの、背中の翼が」
……あっ。いや、いやいや。うん。そう。なるほど? 四方山は自分の思考の流れを追えなくなった。彷徨い泳いだ四方山の視線は、やがてジョンのそれとかち合ったのだ。
「……」
ジョンのまなざしは四方山に、岩男の発言に対する寛容な態度を要求していた。四方山は、ぐっとつばを呑んだ。
「あ、ああ。俺には……そう、見てはいないが……しかし、春川先生が天使だという主張には……相応の根拠があるとは思う。そう、この点については大いに賛成できる。うん」
四方山は大いに挙動不審になったのだ。
「さ、さて……」
そのノリのまま、四方山は立ち上がった。潮時である。ジョンも引きとめようとしない。さすがのジョンも、今日、四方山を説得することはできない、もはやそういう空気ではなくなっていると悟らざるを得なかったのだ。
「手間を取らせて悪かったね。この件については、また機会を作って話そう」
さりげなく次の機会を予告する。ジョンの交渉術は最後まで定石どおりの完璧なものだったのだ。
「ああ、もちろんだ」
四方山も辛うじてにこやかに応じた。もちろん、そんな機会を作るつもりはない。ともあれ、今は一刻も早く撤収するのみである。
ガララ。いざ帰らんとマンガ研究部の扉を開けた四方山はぎょっとした。そこには、ニヤニヤ笑うアゴヒゲ先生と、頬を染めてうつむく春川先生がいたのだ。




