第19話 「狂犬」
その夜、北峰は自室で中間考査に向けた勉強を続行していた。かっこつけた知的に見える銀縁眼鏡をかけ、さらさらとノートに数式を書きこんでいくその姿は、まさに秀才である。そして実際に成績も良いのだ。しかし今はそんな北峰も、一年前はこうではなかった。一年前はいわゆる問題児だったのである。
北峰了一。北峰了一はかつて狂犬であった。
いや、中学生の頃までは、ごく大人しい目立たない子であった。しかし、高校に入ってから突如変わったのだ。高校デビウをしたのはまさに一匹の狂犬であった。
この狂犬は、まず倫理の授業において、人の命の価値には当然差があると主張した。価値のある命と価値のない命があるというのである。多くの人間を救ってきた医者と強盗強姦殺人犯を例に出し、後者の命の価値は前者のそれに圧倒的に劣ると主張した。
しかし、北峰のこの主張は黙殺された。この社会はそういうふうに回っちゃいないのだ。命の価値は平等。それは人類が悩みつつもたどり着いた一つの理想であった。北峰の主張はそれを真っ向から否定するものであって、現代社会の観点から言って不都合なものだったのである。
しかし、この件において自分の考えが黙殺されたことで、北峰は先鋭化した。この狂犬は物理の授業において唯我論を持ち出すという暴挙に出たのだ。すなわち、この世界には自分しか存在しておらず、他の人間は全て北峰の見ている夢の中の現象に過ぎないというのである。人の命が平等なのはこの意味においてだ、と付け加えるのも忘れなかった。
ところがこの主張は簡単に論破されてしまった。物理担当教師である物部三郎次先生は、北峰の頭を軽く叩いて「これも夢だぞ」と言ったのである。その言葉と、真面目に困惑する北峰の顔との対照がクラスメイトたちの爆笑を誘った。そしてさすがの北峰もこの主張を取り下げざるを得なくなったのである。
しかし、笑われたことで北峰はさらに先鋭化した。今度は唯物論にかぶれたのである。ある日のホームルームの時間、担任の先生が、此ノ川高校の女子バレー部が地方大会にコマをすすめたことを周知したときのことである。北峰は敢然と言い放ったのだ。
「そんなものに何の意味があるんですか?」
クラス中がざわついた。
「人間なんてただの肉袋じゃないですか。そしてその肉袋が付属のアームでゴム製のボールを弾いて、網の上を越え、かつ、白い枠内に落とそうとするその行為にどんな意味があるんです? この一見複雑に見える動きは完全に無意味です。何の意味もないことですよ」
クラスには女子バレー部の一年生部員もいて、そのあんまりな言われように泣き出したのだ。
「なあ北峰」
クラスで正義感にあふれる男ナンバーワンのS氏が泣いてる女子を北峰に示しつつ言った。
「もし彼女を『水分を出してる肉袋にしか見えない』とか言ったら、ぶん殴るぞ」
女子達からも北峰を非難する声が上がり、男子達はニヤニヤと高みの見物を決め込んでいるのだ。北峰はポーカーフェイスを保ちつつも、実のところ、このような事態に立ち至ったことに内心では大いに戸惑っていたのである。
このように、北峰はその言論において、きわめてしばしば物議をかもしていた。そして次第にクラスから孤立するようになったのだ。ほとほと困った担任教師は学年主任とともに北峰との面談を持ったのだ。
「北峰くんはどうしてあんなこと言うのかな?」
「別に……」
北峰は何も話そうとはしなかった。二人の教師は困り果てた。そんな二人を北峰はじっと観察するように見ている。測ろうとしているのだ。教育というものの底を。それに気付いた二人の教師は気合を入れ直した。これではいけない。教育が負けるわけにはいかない。そこで担当教師と学年主任は非常手段に打って出た。当時、すでに人格者として隠れもなき白河光太郎に協力を要請したのだ。そこには齢の近い白河であれば北峰とも打ち解けられるのではないか、という計算もあったのだ。
結果的には、これが大成功であった。
白河部長は北峰に言ったものだ。
『この宇宙の起源はどのようなものだったでしょうか?』
北峰は沈黙した。その答えを持っていなかったのだ。
『何か大きな爆発があったという人もいれば、そうではないという人もいます。しかし、わたしたちにその始まりは見えなくとも、今、この世界を形作っている力はたしかに働いたのです。それと同じように、今はその根拠が分からなくとも、この世界を律する力というもの、理というものはたしかに存在するのです。人を辱めてはなりません。これもその理の一つだと、わたしは思うのです』
宇宙というスケールで語られてしまったら、北峰も大いに説得されざるを得ない。
こうして一ヶ月も経つころには、北峰は立派な沈思黙考の文士に変わっていた。自分の意見を言う際には言葉を選ぶようにし、他人の気持ちを尊重するようになっていたのだ。
かっこつけた銀縁メガネをかけて、口数も少なくなった北峰に対し、クラスメイトたちも次第にまた普通に接してくれるようになった。件のバレー部の女子も、である。北峰はこのようなクラスメイト各位の好意に対して大いに感謝しなければならないだろう。
こうして北峰のクラス復帰は成った。もし今でもあの路線を捨てていなかったら、およそ北峰は単なるSNSの炎上芸人にでもなって適当に消費されて終わっていたことだろう。白河光太郎は北峰了一の人生の軌道を変えたのだ。
北峰はペンを置いた。
「ふう」
この日の勉強を終えたのである。とは言ってもすでに日付は変わっていた。眼鏡を外すと十六歳、凛々しくはあるが年齢相応の幼さを残す顔が現れた。大人になるにはまだまだこれからなのだ。
電気を消してベッドにもぐりこむ。さて、この静かなるひととき。かつての狂犬にして、今や此ノ川高校文系コースで五本の指に入る秀才は何を考えているのだろうか。ぼんやり天井を眺めている。
「はるかわせんせい……」
急にどうしたというのであろう。突如として春川先生の名前を呼んだのだ。
「はるかわ、ゆいこ……」
一人でいるとき、脈絡なく人の名前を呼ぶという現象は決して珍しいことではない。それが何を意味しているのか。多くの場合、アレが関わっていることは周知の事実である。しかし、北峰に限ってそのようなことがあるのだろうか?




