第2話 「春川結衣子」
入学式の前に新入生オリエンテーションなるイベントを設けて、早めに学校生活に慣れてもらおうとする高校が多いそうである。我らが此ノ川高校もそのような高校の一つであった。
朝の清々しい空気の中、講堂へと続く桜並木を真新しい制服を着た新入生諸氏が歩いていく。着慣れない制服に若干動きがぎこちなくなっている。そんな彼らを木陰から観察する一群の男女がいた。ご存知、此ノ川高校文芸部、通称『白河派』の面々である。
「オレたちにも、あんなころがあったんですよね」
こうしみじみと懐かしげな口調で言ったのは、文芸部の新副部長にして新二年生の南泉千紘である。この男、まさに美青年というほかない。桜木に手を添えて、新入生の方を眺めやるその横顔はもはや絵である。それにしても、この男が自分のことを「オレ」と言っているのを聞くのは、なんとも妙なものだ。まるでボーイッシュな女が自分のことを「オレ」と言ってるみたいだ。
「どうかな……」
ポケットに手を突っ込んだまま、南泉の言葉に応える伊達男は、やはり新二年生の北峰了一である。シルバーフレームの眼鏡が似合いすぎている。まるでそれをかけたまま生まれてきたみたいだ。その鋭い眼差しは、割と大人しく講堂の方へ歩いていく新入生に注がれている。およそ彼は知っているのだろう。連中が大人しいのは初めのうちだけだと。
「みんな、カワイイねえ……」
こう言ったのは西村民男、新三年生である。春休みの間も一キログラムだって痩せた気配はない。春の日差しの下、デブった猫のような何ともいえない笑顔を浮かべている。『可愛ければ男でも女でもいい』それが彼の座右の銘であった。
「君が言うと変な意味に聞こえてよくないね、西村君」
切れ味鋭く西村の言を斬って捨てたのは、新三年生で新部長の四方山信国である。白河部長のお別れ会の際には泣き叫んでいた彼ではある。しかし、彼がしおらしくなるのは白河部長の前でだけで、普段の言動はわりと適当なのだ。
「四方山くん。部活紹介のときに言うことはもう決まったの?」
そんな四方山に後ろから声をかけたのは、やはり新三年生の東堂秋子である。まったく落ち着いた声だ。どこかの一流企業の秘書課からスカウトが来そうなほどだ。そして、相変わらず眼鏡の奥にある表情は見えない。
「安心していい。今、構想が形になりつつあるところだ」
四方山は堂々と答えた。
「四方山先輩。オレたちにも何か手伝えることってありますか?」
先輩を気遣う姿勢を見せる南泉は、まさに後輩の鑑のような男である。
「いや、大丈夫だ。俺に任せておけ」
「ノブくん、僕はいつでも大爆笑する準備できてるからね」
西村はどこまでも無責任な男である。四方山は渋い顔で腕を組んだ。その腕の組み具合からは強い決意が見て取れる。部活動として続けていくには最低でも五人の部員が必要である。たしかに今年、一人も入部しなくとも、部活としては存続できる。しかし、白河派の伝統をつなげていくという大業は、そんな甘っちょろい考えでは到底為しえるはずもない。やるぞ。俺はやるぞ。いつしか組んだ腕がギリギリと音を立てるのであった。
ちなみに言っておけば、誰も四方山を部長とは呼ばない。四方山くんだの、四方山先輩だの、ノブくんだの呼ぶ。彼らにとって部長とは白河光太郎ただ一人なのである。そして誰よりもそうあるべきだ、そうでなければならぬと考えているのは、他ならぬ四方山であった。
桜並木から新入生諸氏の姿が消えていた。
「さて。戻ろうか」
四方山がつぶやいた。
一同は部室へと戻ってきた。白河光太郎とともに研鑽を積んだ、思い出の詰まった場所である。部室の後ろの壁面には本棚が備え付けられ、文芸部の蔵書が並んでいる。これはそのまま文芸部の歴史なのだ。そしてそこには白河部長が寄贈した書もあった。白河光太郎が親しんだ書物。それはどれも超一流の書であり、とても部員たちの手に負えるものではない。しかし、部員たちにとってこれはまぎれもなく思い出の書なのだ。一同はテーブルを囲んで座った。
「さて、諸君」
四方山がおもむろに口を開く。
「ついにこのときが来た。この文芸部、俺たちの代で潰すようなことがあれば、白河部長に対してどのような申し開きができるというのだ。我ら一丸となって、新入部員の獲得に全力を尽くすべきである!」
「でもさァ……」
西村がのんびりした声を上げる。
「それってノブくんのスピーチの出来次第じゃないの? 僕ら、なんかやることあんの?」
とぼけたことを言う男である。
「あるに決まってるだろう。見学に来た新入生を歓待するのだ。そして、なんとなく入らなきゃいけない空気にするのだ。いいか、諸君! 気合いだ! 気合いを入れろ!!」
四方山が部員らに檄を飛ばす。四方山には自覚があった。自分は白河光太郎ではない。その人徳ゆえに人が寄ってくるなんてことはないのだ。だからこそ、新入生を全力で捕獲しに行く。それしかないのだ。
「俺たちはやるぞ! やるんだ!」
こぶしを振り回し、力説する。しかし……こつ、こつ、こつ。ここで四方山は誰かが廊下をこちらへと歩いてくる気配に口を閉じた。
「むぅ?」
そして……こんこん。誰かが文芸部の扉をノックしたのだ。誰だ? 四方山は考えた。顧問か? しかしあの顧問は――。
文芸部は正式な部活動である。それゆえ、顧問の教師がいるのだ。名前を出すのは控えるが、あるオッサン先生である。しかし、この顧問氏、マンガ研究部との掛け持ちをしており、文芸部の方にはほとんど顔を出さなかった。
かつてこの顧問氏は、右手であごのヒゲをしごきながら言い放ったものだ。
「小説はなぁ……。文字ばかりで読みにくくないか? 仕事で読む分には仕方ないが、さすがになぁ……」
さすがに、なんだと言うのか。
「その点、マンガには絵がついてるから読みやすいな」
絵があるから読みやすい。それがどうしたと言うのか。
「お前ら、絵は描けないの?」
おふざけもほどほどにしてもらいたいものだ。文芸部は文芸を志す者たちの集りである。マンガ全盛のこの時代、初めから終わりまで文字ばかりの話を読ませて、読者を楽しませようというのだ。生半可な覚悟で出来るもんじゃない。絵は描けないのか?とは何事か。それどころではないのである。顧問氏の言葉を知った白河部長は「わたしたちは作品が全てですよ」と言って笑っていたが、四方山はそのときのことを思い出すと、どうしてもワナワナしてしまうのだ。
さて。四方山が思い出にひたって固まってしまったので、代わりに南泉が扉の方に声をかけた。
「どうぞ」
がらがらがら。扉は開き、その瞬間、どおっと春の風が部室の中に吹き込んだのだ。
そこには一人の女が立っていた。年のころはだいぶ若い。しかし、若いなりに大人の雰囲気を持っている。教員のようだ。真面目そうだが、同時に親しみやすそうでもある。途方もなく綺麗なお顔に気品と親しみやすさがにじみ出ているのだ。
「こんにちは」
言いながら彼女はとても綺麗な姿勢で五人の方へと歩み寄る。
「あっ、自己紹介するね。わたし、春川結衣子っていいます。今年から文芸部の顧問をやることになったの。よろしくね」
そう言って彼女はにっこり笑った。人間の精神活動というものは体内に蓄積され、いつしか顔面に表出するものである。彼女の顔を見れば、彼女が人生でブチ当たってきた諸々のやっかいごとに真面目に真っ向から取り組んできたことが読み取れる。そこへ親しみやすい笑顔が加われば、まさに鬼に金棒というものだ。
「文芸部副部長の南泉です。歓迎します」
南泉がスッと立ち上がって言った。礼儀正しく気が利いて、そつがないが冷淡でない。それが南泉という男である。
「ありがとう」
春川先生はそんな南泉の手をぎゅっと握った。
「東堂です」
「僕、西村です! どうも!」
「……北峰です」
春川先生は、東堂、西村、北峰の手を親愛をこめて握ってゆき、ついに残るは四方山だけになった。一同が四方山の方を向く。四方山はようやく椅子から立ち上がった。
「四方山信国です。一応、文芸部の部長を名乗っております……」
威厳を保とうと虚勢を張る四方山に、春川先生は無邪気に近寄ってくる。四方山の鼻先に大人の女性の良い香りがふわりと当たった。
「春川です」
春川先生は改めて自己紹介しながら、四方山の手をぎゅっと握ったのだ。四方山は必死に動揺を見透かされまいとした。なぜ動揺したのか。女の手を握るのは小学校のお見知り遠足以来だったからである。
「先生! ユイ先生って呼んでいいですか!?」
「ええ、いいわよ」
「マジですか! なんか僕、ワクワクしてきた! なんかほんと、ワクワクしてきた!」
西村の笑顔は完全にゆるみきっている。西村、あの野郎。四方山は苦々しく思った。
「こ、校内でお見かけしたことがないところを見ると、新任の先生なわけですか?」
なんとか立ち直ったところを見せようと、機械的に口を動かす四方山である。
「そうよ。今年、大学を卒業して、この高校に赴任してきたの。先生も新入生ねっ!」
教師になりたての人がよく言うジョークだ。彼女もそれを言った。
「それじゃあ、今日は挨拶だけね! また新学期に!」
にっこり笑って手を振って、春川先生は部室を去っていったのだ。あとには四方山も嗅いだ、あのいい匂いが残っていた。
「えっろ!! ねえ、ちょっと! マジえっろ!!」
自分の胸の前で不謹慎な手つきをしながら、西村は一人ではしゃぎ倒している。要するに春川先生の胸が大きかったと言いたいのだ。いったいどこを見ていたというのだ。困った奴である。
「いい先生みたいで、よかったじゃない」
平坦な声で言うのは東堂である。
「どんな奴でも、アイツよりマシじゃないですか?」
吐き捨てたのは北峰である。彼も四方山同様、前顧問を嫌っているのだ。
「明るくて優しそうな人ですね。オレは好きになれそうな気がしてます」
どこまでもさわやかな南泉である。
「四方山先輩はどうですか?」
はっきり言って、四方山の脳内にあんな綺麗な先生のいる文芸部でキャッキャウフフできたら、という考えがチラとでもよぎらなかったと言えば、それは嘘になる。しかし、白河派の伝統にキャッキャウフフなど存在しないのだ。白河派とは求道である。道を求めることである。こんなことで浮ついてるヒマはないのだ。
「たしかにいい先生のようだが……だが諸君、忘れるべきではない。我々は白河光太郎の弟子なのだ。常に道を求めているのだ。これからも粛々と精進していくべきである」
四方山は演説をぶち、気を引き締めた。そして白河派の伝統を伝えてゆくことの難しさを思ったのである。