第10話 「始まりのはじまり」
一同は部室へと帰ってきた。なんとも気まずい雰囲気である。夏樹のカバンが部室に置いたままになっているのが、その雰囲気に拍車をかけるのだ。
「私たちが届けるわ」
カバンを手に取りながら、東堂が言った。
「今日はもうお開きにしましょうか」
南泉も言った。しかし四方山はといえば、道々、冬原に対し一言訓戒するという覚悟を決めていたのだ。
「冬原君。ちょっとそこに座りたまえ」
「なに? ……なんですか?」
「ここらで一つ、お説教をする」
そして四方山はこんこんと説き始めたのである。
「冬原君。君だって自分で気付いているだろう。君は少し口が悪いのだ。いくら夏樹君と君が幼馴染みで、夏樹君が君のそういった口調に慣れているといっても、だ。長いこと浴びせられていると、少しずつ心が痛んでいく。そういうものなのだよ。な? たしかに、ついついそういう言い方をしてしまうというのは、なかなかすぐには直せないだろうが、まずはだな、まずは意識して、例えば十回に一回は優しい言葉を使おうとか、そういう心がけをしてみてはどうかね?」
「……」
冬原は大人しく聞いている。だから、四方山は調子に乗ったのだ。
「実に、実に『口の利き方に気をつける』というのは大事なことなのだ。この言葉というのは、尊大ぶった馬鹿者が相手に圧力を加える目的で口にするごとに、その真価を貶められてきたのだ。綺麗な言葉を使わなければならぬ。綺麗な言葉を使うとは、すなわち、心の所作を正すということなのだ。こうゆうことは、だ。白河派の文士にとって、とても大切な……」
「なにが白河派よっ!!」
ガタンと冬原が立ち上がったのだ。
「そんなのカンケイないでしょっ!!」
「い、いや、まあ、関係ないとしても、だ」
四方山は大いにたじたじした。
「ダークサイドな言葉遣いをしてはならん……」
「あーもう!! ほっといてよっ!!」
冬原は部室から出て行った。
「四方山くん、あとは任せて」
そして東堂が後を追ったのだ。夏樹のカバンも持っていったのだ。四方山は完全に取り残された形となった。
「ノブくぅ~ん?」
ニヤニヤとしつつ西村はなじるような調子で言うのだ。南泉はポンと四方山の肩を叩いて慰謝の意を示した。北峰はといえば無造作に帰り支度をはじめたのだ。
さて、冬原はプンスコしながら歩いていた。そして東堂の方も見ずに、ずかずかといつもの喫茶店に入っていく。
「なんなのよアイツ!!」
注文をすませた後で、冬原は東堂にぶちまけるわけである。
「ほんと、ワケわかんない!!」
「あんまり怒らないであげて」
そう言って東堂はとりなすわけだ。
「悪気はないんだから」
そう、決して悪気なんてないのだ。四方山とはそうした男である。
沈黙が訪れた。その沈黙は、注文した品が置かれても続いたのだ。冬原は、ストローで意味もなくオレンジジュースをかき混ぜる。ふだんは気の強そうな光を宿す瞳も、今はどうしていいか分からないかのように、カラカラと音を立てる氷を見ているのだ。
そんな冬原を見ながら、東堂は思い出していた。
あの日、廊下の様子を見に行った東堂は、そこで臆病そうな表情で廊下に立つ冬原を見たのだ。東堂に気付いた冬原はきびすを返そうとした。しかし、その仕草には迷いがあった。『ちょっと何!? 離してよ!!』東堂にとっ捕まった冬原はそう言って、東堂の手を振りほどこうとする素振りを見せた。振りほどこうとした、のではない。振りほどこうとする素振りを見せた、のだ。この微妙なニュアンスの違いから、東堂は冬原の心を読み解くきっかけを得たのである。
もはや東堂は確信している。冬原が文芸部に来たのは、夏樹のそばにいたいからなのだ。高校でいっしょの時間を過ごしたいからなのだ。それと察した東堂は、実のところ、キュンキュンしていた。表情があまり変わらないので分かりにくいが、高三女子とは、もう大人なのだ。若い子のコイバナに顔が熱くなるのを感じるオバチャンなのだ。これは一つの現実である。
「だって……だって、ずっとそうだったんだもん。それでも大丈夫だったし、蒼太はずっと……」
冬原がぽつりと言った。つまり『自分は今までずっと毒舌だったけど、それで夏樹に嫌われたりしたことはない』と言っているのだ。
「それじゃあ、ずっと変わらないままでいいの?」
東堂は言った。
「変わらないなら、ずっと今のまま。それを後悔……しない?」
冬原自身も、そして夏樹との関係も。東堂はそういうニュアンスをぶち込みながら言ったのだ。
「夏樹くんはね、芯の部分はとても強い子だと思う。年上相手にも物怖じせずに自分の意見をちゃんと言えてたもの」
これは四方山による白河派への勧誘を、夏樹が拒んだときことだ。
「男の子には自信をつけさせてあげよう? 冬原さんがそうしてくれたら、夏樹くんはとても嬉しいと思う」
じっとうつむいたまま東堂の話を聞いていた冬原は、やがて――
「うん……」
こっくりと頷いたのである。
「あ、あのさ……」
冬原は言葉を継ぐ。
「あ、アンタは、どうだった、の……?」
『傷ついたの?』という問いを遠まわしに言ったのである。今まで東堂をオバサン呼ばわりしてきたことなどを省みたのだ。若干、遠まわしすぎて意味が不明瞭であるが、東堂の読解力をもってすれば、そんなものは口に出したも同然なのだ。
「傷ついてないよ」
東堂は言うのである。
「本当のことを言えば、浮かれてる、かな?」
「浮かれてる?」
「そう」
ここで東堂は前かがみになってテーブルに両ひじをつき、指を絡めてその上にあごを乗せたのだ。まさに大人のお姉さんにのみ許された所作である。そして、極厚メガネの向こうから、その視線はじっと冬原に注がれているようなのだ。
「去年はね、白河部長がいたから。南泉くんも北峰くんも私によくしてくれたけど、やっぱり二人は白河部長のことを見てた。仕方のないことだけど、でもちょっとさびしかったから……」
東堂のその口もとには、微笑みが浮かんでいるのだ。
「だから、今はうれしい。友達みたいな後輩がいて」
「ああ、もう!!」
冬原は頬を赤く染めた。
「しょ、しょうがないから、これからは秋子センパイって呼んであげる……!!」
「うん、私も。緋奈ちゃんって呼ぶ」
これはどういうことであろう。はっきり言ってガールズトークを理解しようなどと、そんなことは不可能なのである。理解をあきらめろ。それが答えなのだ。
「変われそう?」
「うん……」
「一人で……行ける?」
「うん、だいじょうぶ……」
冬原は自分に言い聞かせるように言った。
「だいじょうぶ、なんだから……」
そんな冬原を見て、東堂は思ったのだ。
(私も、自分の気持ちに、素直になりたいな……)
そうして、眼鏡を拭こうと何気なく眼鏡を外したのだ。冬原はそんな東堂をぽかんと見ていた。眼鏡を拭き終えて、東堂は冬原が自分を見ているのに気付く。
「どうしたの?」
「……ねえ、眼鏡やめて、コンタクトにしたら?」
「え?」
「その方が……かわいいから」
照れ隠しのムスッとした顔で、冬原はそう言ったわけである。
さて。
というわけで、冬原は勇気をふりしぼって夏樹家のインターフォンを鳴らしたのだ。ピンポォン! 東堂には「一人で大丈夫」と言ったものの、冬原の胸はやはり緊張でドキドキ鳴ったのである。ガチャ。玄関の扉が開いた。登場したのは、夏樹そっくりの夏樹ママだ。
「あら、緋奈ちゃん!」
「こんにちは、おばさま」
「うちに来るの久しぶりじゃない!」
夏樹ママは冬原の来訪にはしゃいでいるようだ。
「蒼太? 呼ぶ?」
「あ、えっと……」
「蒼太! 緋奈ちゃん来てるわよ!!」
二階に向かって大きな声を出す夏樹ママである。
「じゃー、おばちゃんはこれで。ホホホ……」
変な笑い声を残して夏樹ママは去った。しばらくして夏樹が二階から降りてくる。その目もとは赤かった。
「ひ、緋奈……どうしたの?」
おどおどと聞く夏樹である。
「べ、べつにっ! ほら!」
冬原は、夏樹の忘れていったカバンを差し出した。
「アンタ、カバン忘れていったでしょっ!?」
「あ、ありがとう……」
夏樹がカバンを受け取って、黙り込んでしまう二人である。しかし、ついに冬原は意を決し、夏樹の手を取って、ぎゅっとした。
「え、緋奈……?」
「な、なんでも……」
冬原はあわてて手を離した。
「なんでもないから!!」
きびすをかえして、たったったっと駆け出す冬原。夏樹はそんな冬原を見送ったのであった。冬原の性格を考えれば、これは上出来というものである。これでよかったのだ。
□
休日明けの月曜日の朝である。四方山は早々と部室にやってきていた。
四方山には、毎朝はやくに学校に来て、部室を清掃するという習慣があるのである。窓を開け、本棚にはたきをかけ、テーブルを拭き、床をはわいて、部室を綺麗にする。そして椅子に座って「ふむ」とうなずく。にっこりしてご満悦の四方山である。開けた窓からは、なんとも気持ちのいい風が吹き込むのである。
金曜日の夜、東堂から『全て丸く収まった』旨の報告を受けた四方山である。気分もほくほくしようものである。まさに上機嫌だったのだ。
と、そこへ。がらがらがら……。部室の扉が開いて、その方を見た四方山はぎょっとした。とんでもない美少女が部室の中へと入ってきたのだ。背中に流れる黒髪が風になびき、椅子に座る四方山に送った流し目は、おそるべき深窓令嬢のそれである。四方山はすっかり度を失って、ガタタッと席から立ち上がったのだ。
「あら」
と、深窓の令嬢は言った。
「おはよう、四方山くん」
その声で、四方山はその女の正体を悟ったのだ。
「と、東堂君か……」
「そうだけど? 誰だと思ったの?」
落ち着きに落ち着いた口調は健在である。そのまま東堂は窓のところまで歩いて、窓の縁に手を置き、窓の外を眺めやった。東堂の長い黒髪が風と遊び、四方山はその姿を、心臓ばっくんばっくんさせながら見ていたのだ。
「私ね、決めたの」
やがて東堂はぽつりと言った。
「私、白河部長と……ううん、光太郎さんと同じ大学に行く」
光太郎さん? いったい何を言っているのだ? 四方山のひたいから冷たい汗が流れ出た。しかも白河部長と同じ大学とは? 白河部長の進学した大学とは、例のあの大学なのだ。そこに通っていると言えば、「マジでえ!?」とか「え、スゴウイ!」とか言われる、あの大学なのである。そんなことが可能なのか? 混乱し、錯乱する四方山である。東堂は振り返って、そんな四方山を見た。そして少しだけ笑ってみせたのだ。
「と、東堂君……君はいったい……」
その微笑みは清楚というにはあまりに妖艶であった。それはまさに、四方山の知らない東堂であったのだ。四方山はまるで白昼夢を見ているかのごとく立ちすくんだ。ひたいの冷や汗は鼻筋を通って、くちびるの端からあごへと伝い、ぽたりと床に落ちる。そしてその瞬間、四方山は悟った。東堂は『向こう側』へ行ってしまったのだ。白河四天王の一角は崩れてしまったのだ。
何かが始まった。その予感に四方山は呆然と立ち尽くしていたのであった。




