第1話 「独白のはじまり」
雨だ。雨が降っている。
君。学校はどうしたのだ。俺か? 俺はいいんだ。早退したんだ。君はヒマなのか? だったら俺が退屈しのぎの話をしてやろう。話が終わるころには雨も止んでいるだろう。
その話というのは、とある高校の文芸部の話なのだ。新しい風が吹いて、伝統という名の木がざわざわ揺れた、そういう話なのだ。
文芸部。なるほど、たしかに他の部活に比べたらマイナーな存在なのかもしれない。しかし、この話はおよそ君の役に立つものであると信じる。なぜならこの話は、文芸部にたむろする連中というものがどういう連中なのかを君に教えるであろうからだ。
時は百代の過客。みんなゆきすぎてしまう。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。すべては変わってゆくものである。万物流転。これは一つの理である。
しかし、人には時として、それに抗わねばならぬことだってあるのだ。それではお聞きいただくとしよう。
春めいてきた三月のある日、此ノ川高校の文芸部、その部室。ここから話を始めよう。
部室の真ん中にあるテーブルの上にはスナック菓子だのジュースだのが並び、前の黒板には『白河部長! 大学合格おめでとうございます!!』と書かれてある。
そんな部室に五人の男と一人の女がいた。彼らの中心にいるのは、穏やかな微笑を浮かべた男である。その瞳は静かな光をたたえ、詰め襟の学ランをきちんと着ているにもかかわらず、椅子に座るその姿からは柔らかな気品ともいうべきものがあふれている。この男こそ、第二十六代文芸部部長、白河光太郎であった。
「ぶちょう~ぶちょう~」
その足元に、床にぺたりと座り込み、見苦しく泣く男がいた。片手を白河光太郎のひざの上にのせ、あとは身も世もなく泣いている。
「ぶちょう~! 行かないでくらさい~!!」
この男は次期文芸部部長、四方山信国である。『文芸部・中興の祖』といわれた白河光太郎の去りし後、自らが文芸部を背負っていかなければならない、その重圧に耐えかねたようにも見えた。
さよう、白河光太郎は『文芸部・中興の祖』である。部員が消滅し、長らく休部状態にあった文芸部を始動させ、部員を集め、一年目には同好会とし、二年目には再び部活動として学校当局に認めさせたのは彼である。いや、そんな事実は瑣末なことだ。もっとも偉大な彼の功績は、文芸部の存在理由ともいうべきもの、ありうべき理想、為すべきことを後進に対して提示したところにある。彼は言った。
『文芸とは何でしょうか? それは善とは何かを追求し、人と人とを結び合わせることです』
この言葉の下に人は集った。そして、どんな題材であろうと何が何でもハッピーエンドに向けてひた走った。そんな彼らの部誌は、文化祭において二年連続で売切御礼の栄に浴したのである。そうしていつしか、此ノ川高校の文芸部は白河派と呼ばれるようになったのだ。
そんな偉大な存在である白河光太郎が、今まさに部を去ろうとしている。四方山信国の思いが千々に乱れるのも止むを得ないところではある。
「部長、どうぞ」
「やあ、ありがとう」
白河光太郎の右手に持った湯呑みに、ジュースを注ぎ足す男があった。驚くべき美青年である。しかして、注ぎ終えてちらりと上目遣いに白河光太郎を見やる目には満腔の尊敬がきらめいていた。彼の名は南泉千紘。次期文芸部副部長である。
「さあて!」
声を張り上げた男がいる。
「そろそろ余興のお時間だ。そうでしょう?」
デブった猫のように笑う小太りのその男は、学ランからワイシャツから、果ては肌着までポイポイと脱ぎ捨てた。男の腹には、ひょっとこの絵が描かれている。
「無芸の芸、お見せいたす!」
そう言うと男は踊り始めた。馬鹿な踊りをやりながらも、男の表情は、なんとかして尊敬する白河光太郎を楽しませたいとする意欲にあふれていた。この男、自称『文芸部のムウド・メイカー』、西村民男である。
そんな西村民男の馬鹿踊りにまゆをひそめた男がいる。皆の輪からやや離れたところに立つ、銀ぶち眼鏡の伊達男、北峰了一である。北峰了一はしかし、己の師である白河光太郎が西村民男の踊りに気持ちよく笑っているのを見て、そっと肩をすくめた。
宴もたけなわである。
白河光太郎が立ち上がり、教壇に立った。最後の授業がはじまる。一同は白河光太郎に大注目した。そんな中で、椅子の上に座りなおし、居住まいを正した女がいる。うずを巻くビン底眼鏡のその向こうにある表情は見えない。しかし、その視線は他の者たちと同様、まっすぐに白河光太郎に注がれていた。東堂秋子。真面目を絵で描いたような女である。
白河光太郎の静かで穏やかな声が言葉を紡ぎはじめた。
「世の中をどう見るか。これはすでに一つの問いです。青空を見上げるのか、それとも人の悪意から目が離せなくなるのか。これは人の一生を決める問いなのです。
そしてわたしたちは答えを知っています。青空を見上げるべきだ。それが答えだと。しかし、世界というものはとても複雑で、いろいろなものの見方がありえます。だから、わたしたちがそれを答えだと信じていても、それは信仰の域を出るものではありません。
でも、それならそれで良いとわたしは思うのです。
生きているとつらいことや悲しいことが起こります。これは逃げようのないもの、避けようのないものです。しかしそれでも、悲しみに負けないでほしい。憎しみにとらわれないでほしい。青空を見上げてほしい。そういうメッセージを送り続けよう。それがわたしたちの為すべきことだと信じるのです。
みなさん、書いてください。書き続けてください。書けなくなったら大いに休んでください。人生を楽しんでください。そしてまた書いてください。書き続けてください。
皆さん。わたしの高校生活はとても楽しいものになりました。かけがえのない思い出ばかりで足の踏み場もないほどです。それは皆さんがわたしの人生に現れてくれたから。この出会いにわたしは心から感謝しています。
四方山くん。西村くん。東堂さん。南泉くん。北峰くん。わたしは皆さんのことを忘れません。ありがとう。さようなら」
それは授業ではなく、お別れの挨拶であった。白河光太郎という一人の人間が、今までともに過ごしてきた仲間たちに別れを告げていたのだ。沈黙は一瞬のことであった。
「アアアアアアアアアッッッッ!!!!」
絶叫とともに、四方山信国が泣き崩れる。他も似たり寄ったりである。この御方について来た事は全く間違いではなかった。これから先も自分たちを導いていくのはこの御方をおいて他にない。白河派の伝統を守り続けていく。一同はそう固く心に誓ったのであった。先回りして結論を言えば、このときの印象は部員たちの心に永久に刻みつけられ、消えることはなかったということである。