影追う恋
「ねぇ……私のこと、まだ好き?」
暗闇の中で衣擦れの音と彼女の囁き声が、まるで波紋のように広がった。
一人用のベッドは狭く、彼女の吐息が頬に触れる。
仰向けに寝ている僕の心臓あたりで、小さな手のひらが熱を帯びている。
僕はそれらから逃げるように寝返りをうち、問いかけてくる彼女に背を向けた。
「……どうかな。わからない」
僕は彼女が傷つくのを知っていて、それでも言わざるを得なかった。
好きだよと言うことは容易いことだった。しかしそれは僕にとってとても白々しく、著しく誠意を欠く行為だと思った。
付き合いはじめて二年が経過していた。初々しくも激しい恋の炎はもはや見当たらない。別に彼女を嫌いになったわけではない。しかし二年の間に僕は社会人となり、彼女はいまだ学生のままだった。
疲れてアパートに帰ると彼女の相手をしなければならない。学生のたわいのない話を聞くことが正直煩わしかった。そんな風に僕は思ってしまっていた。それでも自分の部屋に帰れとは言えなかった。喉元まで出かけたこともあったが、かろうじて飲み込んできた。
中途半端な優しさといえばまだ聞こえはいいが、冷徹に徹することもできない中途半端に冷たい男だった。
「そっか……」
それだけ言うと彼女はひたいを僕の背中につけた。彼女が僕の寝間着を両手で握りしめる。そして僕の背中が熱く湿った。
キュッと締め付けるように胸が痛んだ。
可哀想だと思うのは、僕が救いようのない男だからだ。
こんな男のどこがいいのだろう。他にいい男などいくらでもいるだろうに。どうせなら……。そこまで考えて僕は唇を噛んだ。
微睡みの中で彼女の声を聞いた。
私は好きだよ
でも、もう無理みたい
目を開けようと思えば開けれたかもしれない。しかし僕はこれが夢なのだと信じようとした。
彼女の指が僕の髪に触れる。
細い猫っ毛もすき
冷たい指先が唇をなぞる。
性格そのままの薄い唇も好き
でも、もう無理だよ
そして頬に雫を感じた。
彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。細い肩を抱き寄せ、彼女の欲しいと思っている言葉を叫びたかった。
しかしそれは欺瞞だ。いっときの自己満足だ。僕はどれだけ自意識の化け物なのだろう。
僕は強く瞼を閉じて寝たふりをした。
寝たふりがどれだけ辛いことなのか、僕は頬に落ちる雫で知った。
翌朝起きると彼女の姿はなかった。
学生時代から住んでいるワンルームだ。見渡せばなくなったものに容易に気付く。
僕はクローゼットを開けてみた。スチール製のハンガーが役目を終えて寂しげに並んでいる。いくつか詰め込まれていたバッグ類も見当たらない。
僕は顔を洗いに浴室に入った。
洗面台の隅に置かれていた化粧水や乳液の姿もなかった。
玄関にも、キッチンにも、彼女がいた形跡は綺麗さっぱりなくなっていた。清々しい程だった。
全て僕の妄想だったのではないだろうかと疑いもした。
僕は煙草に火をつけた。普段はベランダで吸っていたが、一人なのだからもういいだろう。
そうして壁に背を預けて紫煙を吐き出した時、ふと気付いた。
僕のTシャツが一枚なくなっている。お気に入りの服だからハンガーにかけてディスプレイしていたのだ。
そしてそれは彼女のお気に入りでもあった。
長期休みで九州の実家に帰省する時、彼女はかならずその僕のTシャツを持って帰っていた。
僕の匂いがするらしい。
それを聞いた時、言葉にはできないほど愛おしく思った。
そんな時もあったのに。
僕は目頭を強く押さえた。
そして長くなった灰が床に落ちた。
次の休みの日には不動産屋に行き、転居の手続きを終えた。大学の裏に住んでいたが、職場にはとても遠い。その場に居続けたのは彼女が居たからだ。だからもうこの部屋は必要なかった。
彼女の色をなくした部屋はひどく寂しげに見えた。クレヨンのセットから、赤と青と黄色を失った感じに見えた。
月極め駐車場の解約をしようと大家を訪ねた。
転勤で引っ越すと伝えると、「ありゃ。お人形のような彼女もいっしょに?」と聞かれた。
僕は曖昧に笑って「ええ、まあ」と濁して挨拶を終えた。
それからも行きつけのラーメン屋、通っていたイタリアンレストランや洋服店で同じように彼女のことを聞かれた。
決まって「今日は一人? お人形のような彼女は?」と言われた。
どうやら僕はこの二年間、ほとんど彼女といっしょにいたらしい。そのことを人から言われて初めて気付いた。
それから僕はすべてを忘れようと遮二無二働いた。
ほとんど精神を擦り減らし、体力を奪われ、睡眠すらままならなくなった。
そうでもしなければ自己嫌悪で潰されそうだった。そう思ってさらに僕は自己嫌悪に陥った。結局のところ、僕は僕ばかりだ。ほんとうに自意識の化け物なのだろう。
だから街で彼女によく似た後ろ姿を見てしまうと、不意に立ち止まってしまうのも、きっと自意識だ。
ほんとうにそうだろうか? 雨に煙る街中で足を止めて自問する。視界の中で色とりどりの傘が過ぎ去る。
あれから二十年近くが過ぎ行き、それでも僕は無意識に彼女の影を追っている。
思わず街で足を止め、あるいは傘の隙間から彼女の横顔を探す。
あの日胸に添えられた手のひらの熱がさめない。
ねえ、もう一度言ってくれないか?
「まだ私のこと好き?」と。
たぶん僕はこう言うだろう。