覚え書き・異世界とは何か
題の通りメモです。
私の書いている意味不明な小説を
読み通すためのヒントのつもりで書きました。
異世界……私は異世界について考えようとする時、
ほぼ同義の異邦人という言葉を思考の出発点に定める。
「人」の字をあえて省かないのは
実際のところ異世界とは
どこまでも人間の(キャラクターのではなく)
問題だからだ。
フランスの作家であり劇作家でもあった
アルベール・カミュ(1913~1960)は
よく俳優や演劇を例えに用いて
自分の思想や意図を説明しています。
彼の主著である『異邦人』は
私が現在執筆し一部発表している
二次創作作品『異邦人』の
原作にあたる作品ですが、
この『異邦人』という題名の意味についても
彼は俳優を例に挙げて解説しています。
(以下『不条理な論証』参照。)
カミュの『異邦人』とは
「俳優と舞台の断絶」、
「人間と生の断絶」を意味する言葉です。
すなわち
『浮いてるヤツ』、
『場違いなキャラ』、
『その場に馴染めていない役』、
今自分を取り巻いている環境、世界との
親しみや馴れを喪失した人間、
世界との繋がりを喪失している人間、
その世界からして『よそ者』である人間、
疎外感を感じている人間、
隔絶し、孤立した人間、
自分の存在に不安を感じている人間、
生まれる時代を間違えた、正確には
生まれる世界を間違えた
というような人間のことを指す。
「自分は何故こんなところで
こんなことをやらされているのか?」
「自分がここにいる意味はあるのか?」
「自分が存在する理由って何だ?」
「やっぱり自分は生まれる世界を
間違えているのではなかろうか?」
朝起きて夜眠るまで、
徹夜の間も夜勤の間も
ずーーっとそんなことを考えてる
『異邦人』たる人間に対して
小説家は何ができるだろうか?
そして一人一人の『異邦人』本人は
何ができるのだろうか?
その答えを出そうとして
異世界の幻想とそのブームが始まった。
しかし肝心なのは
異世界ブームが終わった後です。
何故なら異世界での生活や成功の夢想が覚めた時、
後に残るのは
魅力的なキャラクターでもなければ
ランキングや売上の記録でもない、
この人間存在の根幹に関わる
永遠の問いだけだからです。
「我々は不安のうちに漂う。
もっと明瞭に言えば不安は全体としての存在物を
滑り去らせるから我々を漂わせるのである。
(……)それ故我々は
根本的には「君にとって」
また「私にとって」不気味なのではなく
むしろ「ひとにとって」そうなのだ。
全く寄る辺なきこの漂いの底深き振動の中に
ただ純粋な現存在のみがなおそこにあるのだ。」
(マルティン・ハイデガー
『形而上学入門・1929年の講演』)
今日からこうした覚え書きを
毎日投稿したいと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。