エピローグ おにいちゃんは春の季語 中
初回の授業も多くは雑談を交わすだけで、短くきりあげられた。
「大学に入りたての慣れないコンパでやらかす失敗もたいがいだけどなー? せいぜい子供ができたり逮捕されるくらいだろ? 社会人の飲み会は本当の妖怪地獄が混じっているからなー? 人間性を壊される感じの。模範的エリートだったオレがこんな風になったのもぜんぶ、ゆがんだ社会のせいなんだわー」
松小路は話し飽きるとスマホをいじりはじめ、もれだしたアプリゲームの音をのんびりと消す。
「いや、大変なことがあったばかりだし、教師は人生の先輩として接することで生徒の気持ちをうんたらかんたら~って言われたけど、オレじゃな~あ? ど~せオマエらだって、休み時間を増やすほうがうれしいだろ? じゃ、オレがなんかいいことを言った風にごまかせる感じで、あとはご自由に。そう、これがオレなりの人徳ってやつ?」
夏実はあきれながらも音をたてないように拍手を送り、小桃は柔術の教本を読みはじめる。
梨保子のまわりには女子が集まって気づかい、島での失敗や戦績を話しはじめた。
それでようやく梨保子も落ち着き、周囲の男子たちが好奇ではなく、心配の視線を向けていたことにも気がつく。
「そういや梨保子が告られたって本当?」
「あ、わたしも開いた。他校の男子ふたりと女子ひとりがガチな交際の申し込みメールを夏実にあずけたって」
「いつもわたしらが言っていたとおり、梨保子は積極的になりさえすればモテモテだって、証明されたね~?」
「あんなことで興味を持たれても、うれしくないです!」
はっきり自己主張する元気も出てきた。
「しっ、まだ授業時間中」
柿沢清枝は苦笑してなだめたあと、教壇へ向かう。
最初に梨保子の犠牲となった短髪メガネの学級委員女子だった。
「柿沢さん……なんだか意外と冷静ですね?」
梨保子は罪悪感と、共犯者を非難するような気持ちが混ざった表情で見送ってしまう。
「たしかに。もっと堅い性格だと思っていたけど、意外に余裕あるね?」
「開きなおるしかないとか? 八人にかみついて戦績ダントツとか自慢していたし」
松小路もさすがに、となりから柿沢に見られているとゲームはやりづらそうだった。手は止めなかった。
「自主性の尊重と放任は別だと思いますが?」
「いや、これは職務怠慢のぎりぎり半歩手前……というか、オレは余計な口出しをしたくないだけだから、なんでも聞いてくれ。オレに解決できることだけ」
柿沢は松小路の腕や首筋に残るかみ跡を見ていた。
「……そこで沈黙されてしまうと、オレがなにもできない無能みたいなんですが?」
「わたし、松小路先生はかみそこなったんですよね」
「ああ、その節は見逃していただき感謝しております。まあ柿沢さんだって、オレよりマシな男子をかじりたかっただろ?」
「事件の症状に関わるからかいはセクハラになると、教頭先生も言ってましたよね?」
柿沢はダメ教師を言葉でいたぶりながら、かみ跡ばかり見つめる。
「へいへい悪かったよ。柿沢さんも感染症状がすっかり抜けて、きっちりかっちり元のままみたいだね~?」
「わたしもそう思っています」
しかし柿沢はいまだに不良中年教師の首筋に限っては見ていたい気がして、もっと近づいてこまらせたいうずきをこらえ、くやしそうに苦笑する。
教室の前のドアが少しだけ開かれた。
そこからきつい目つきが見渡すだけで松小路の教室は静まり、無言のまま閉じられると重苦しい静けさが続く。
竹見千鶴はとなりの教室へもどり、厳しい表情のまま残り時間を確認した。
「課題提出の期限と試験日は十日ほど先延ばしになりますが、授業の進行も遅れることになります……事故に関して周囲は配慮していますが、あなたたちはそれで遅れをよしとする人間になるのか、トラブルがあったからこそ、より多くの努力で挽回する人間であろうとするのか、よく考えて自宅学習の計画を立ててください」
大半の生徒はげんなりした顔で聞いていたが、真桑進だけは目を輝かせ、美人教師の毅然とした態度へ熱心にうなずいていた。
「それと連絡などにもあるとおり、事故とその症状に関する発言などはくれぐれも慎重に。軽はずみな冗談などは口にしないように。なにか問題があった場合、わたしも今回は特に厳しく対処させていただきます」
強い口調で言い切られ、真桑はひそかにガッツポーズをとる。
竹見に少しだけ視線を向けられた気もしたが、すぐにそれてしまった。
「では少し早いですが、そのままチャイムが鳴るまでは静かに……」
生徒が下校の準備をはじめる中、竹見は教室を出る前に真桑を呼びつける。
真桑はそのまま保健室で服を脱がされる展開はないと思いつつ、雑用の命令や説教を期待し、いそいそと駆けつけた。
しかし意外にも廊下を出てすぐ、指先で髪へ触れられる。
「失礼。まだ……残っていますね?」
首筋にかみ跡とわかる傷が残っていた。
竹見は感染症状のせいとはいえ、自分が直接につけた傷を気にかける。
真桑は指の感触で月夜の海を思い出していた。
かみつかれて『ありがとうございます』と叫んだ自らの恥に心中でもだえる。
「だいじょうぶです」
さすがに『このままずっと残したいです』とつけ足すわけにはいかなかったが、やや顔に出ていた。
「そう? それなら、お大事に……」
立ち去りぎわ、竹見がほんのり微笑したように見える。
「……それと『どういたしまして』……」
首筋の近くでささやかれた。




