第15話 おにいちゃんならすべてを受け入れて 下
感染騒ぎが広がる前、剣間春梅は昼食後のコンサートで倒れた正上梨保子を運んだあと、自分の班の部屋へもどっていた。
予定していた班行動の時間になったが、来るはずの呼び出しが三十分以上も遅れる。
インターホンもつながらないので同室の班長が確認に出たが、それすらもどってこない。
外が騒がしいのでベランダから見下ろすと、九階の高さからだと人はかなり小さく見え、声もほとんど聞こえないが、不自然さを感じた。
人影の多くは集団としての動きが乱れ、ほとんど各自に『ホテルから離れて』いるように見える。
騒ぎかたもはしゃいでいる様子ではなく、あせりや怒りといった不穏さを感じる。
ようやくもどって来た班長はあわてた様子で、ドアから顔だけつっこんできた。
「みんな部屋で待機! 緊急事態!」
「え? なにが……」
「わかんない!」
学級委員でもある班長はすぐに出て行って、春梅は同室のふたりと残され、ふたたび外の様子をながめる。
逃げ散る姿のほかに、ふらふらとした足どりも多いことに気がつく。
「なにか事故が……?」
しかし動きのおかしい歩行者たちも、大ケガをしているようには見えない。
周囲にそれを助けようとする動きもない。
ほどなく班長がふたたびドアを荒っぽく開ける。
「春梅さんヘルプ! なんか力仕事ぽい!」
エレベーターホールへ向かい、教員の竹見千鶴を手助けして教員部屋のドアをふさいだ。
そして『妹ゾンビ』の信じがたい症状と対策を聞き、連絡役が帰って来ない通路の南側へ走る。
誰の姿も見えないまま突き当たりへ近づくと、中で騒いでいる部屋があった。
鍵がかかっていて、ノックしても出てこない。
両どなりのうち、片方の部屋がノックに応じてドアを開けた。
「となりの班、マジなんなの? だいじょうぶ? 電話も昨日までは外線が使えたのに……」
タオルを借りて両手を守り、ベランダにあった避難用の壁をたたき割る。
くぐり抜けると、ガラス越しに数人の女子が見えた。
ひとりが春梅に気がついて鍵を開けるが、動作はふらふらしていて、表情もぼやけている。
その奥ではふたりの女子生徒が三人の女子生徒に押し倒され、かみつかれていた。
『最も重要な護身術は、危険を事前に避け、できる限り近づかないこと』
空手道場を経営している実家の父にも、柔術部の顧問にも、くりかえし言われていることだった。
目の前の状況は自分の手には負えないと見て、逃げるべきに思える。
しかしかまれている女子にひとり、かみついている女子にひとり、同級生の知り合いがいたため、踏みこまずにはいられなかった。
「来てくれたんだ~」
「はい?」
思ったより気さくに話しかけられ、うっかり気が抜けそうになる。
しかし竹見の説明を聞いていたため、かみつかれないように腕はつかんでおいた。
「な~に~? どうしたの~?」
目の前にしてみると、本当に感染者なのか自信を持てない。
ゲームのゾンビのような変色や腐敗もなく、声もやや間のびしている程度で、動きの怪しさなども、少し練習が長引いた時の運動部員とたいして変わらない。
「おにいちゃ~ん」
「ずるい~。おにいちゃんわたしも~」
とはいえ面識のない女子生徒に『春梅さま』と呼ばれることはあっても『おにいちゃん』呼ばわりは昼の正上梨保子がはじめてだった。
『相手の力量は低そうでも、一対多数という極めて不利な状況』
意識を切りかえ、判断が遅すぎる自分の不心得にまゆをしかめる。
ひとり目の両腕を縛って倒すと、せまってくるふたりを掌底で突き倒す。
ベッド上を狙ったが、ひとりは床まで転げ落ちた。
シーツをたぐって四人目にかぶせて縛り、残りも同様に無力化させていく。
「ひどい~」「なにすんの~」
「ごめんなさい。ケガをしないように、おとなしくしてもらえませんか?」
「わかった~」「ちゃんと言うこと聞く~」
素直な態度に気が抜けそうになるが、倒れているふたりが気にかかった。
「わたしも縛って……」
面識がない女子にじっと見つめられ、少し別の意味も考えそうになる。
「ちがうの……そういう趣味も少しあるけど。その子たちも最初はまともで……でも寝ていた子が暴れている内に、次々と……だからわたしも……おにいちゃ~ん……わたしも~」
普通に見えた表情がだんだんとうつろに、起き上がろうとした姿勢も不自然にぐらぐらゆれはじめたので、近くにあった着替えの服で両手両足を縛っておく。
「きつすぎませんか?」
「いい感じ~」
春梅は『ゾンビ』呼ばわりに疑問を持ちはじめる。
「なんでその子ばっかり~!?」
もうひとりの倒れていた女子までバタバタとはいずってスカートへしがみついてきた。
大きく開いたあごが脚へせまり、とっさにはたき倒す。
「す、すみませんっ! だいじょうぶですか?」
「いや~! 頭をなでてくれないと、いや~!」
近くにあったスポーツバッグの肩かけベルトで腕を縛り、洗面所のタオルで脚や口も縛る。
「ごめんなさい。でも跡に残ってしまうから、なるべく暴れないようにお願いします」
そっと頭をなでてみると、ゆるゆるとおとなしくなった。
しかしやたらと体をすりつけてきて、鼻先であちこちをまさぐってくる。
ほかの五人がそれを察知して猛抗議をはじめた。
「ずる~い! わたしも~! おにいちゃ~ん!」
「せめて『おにいちゃん』以外の呼びかたで要求してください!?」
ようやく廊下へ逃げ、となりの部屋へ事情を説明する。
近くの部屋の女子生徒たちも呼び集めるが『待機』しか伝わっていない様子で、説明だけでも時間がかかった。
そして多くは納得できない様子で、感染者の扱いも意見が割れ、春梅はいったんエレベーターホールへもどる。
「竹見先生……?」
教員部屋を押さえていたはずのソファーが散乱し、男子生徒や男性従業員たちが転がってうめいていた。
竹見や女子生徒の姿はない。
下から上がってきた男子生徒も呆然としていた。
「ええ? なにこれ?」
「部屋へもどっていないと危険です!」
「そうなの? なんかいきなり待機って聞いたけど、ちょっとコンビニ寄りたかったのに……」
これだけの惨状を見ても緊張感に大きな差がある事実に、春梅のほうが驚いた。
教員部屋のチャイムを鳴らしても反応はなく、自室へもどると班長も竹見の行方は知らなかった。
従業員たちとなにか言い争っていたことしかわからない。
春梅がひとりで南側へもどると、まだ女子生徒たちがもめている。
「先生たちが着くまで、各部屋で交代に見張ればよくない?」
「ゾンビひとりに三人はついてないとまずいでしょ?」
春梅は方針が決まれば、すぐにも感染者をかついで運ぶつもりだったが、各班が言い合う狭間で漠然と右往左往する。議論は苦手だった。
そもそもふだん、教室で会話することが少ない。
そんな時にようやく、館内放送が入った。
『はじめまして。紫州田高校二年の皆桐杏理華と申します』
声の主にも内容にも度肝を抜かれたが、ようやく危機感は伝わった。
春梅にとっても、思った以上に深刻な状況だった。
「各部屋ひとりずつがよさそうだね。なるべく知り合いのいる班で」
話し合いがまとまりはじめて、春梅は階下へ向かう。
放送が不自然に途切れたことが心配だった。
放送設備はフロントロビーか、そこに近そうな階に思える。
八階では話し合っていた同校男子たちに激しく警戒された。
鬼島小桃が荒っぽく聞きまわったあとで、それでなくとも女子生徒は全員、ゾンビである疑惑が高まっている。
しかし感染者対策の情報交換は歓迎された。
階段をふさぐ作業などは男子たちに任せ、春梅は下へ向かう……その前に少しだけふり返る。
人手が足りないことはわかっているが「気をつけて」とは言われても「いっしょに行こうか?」と言ってくれる男子がいない。
それどころか……
「だ、だいじょうぶ。感染した女子にも変なことはしないから。ちゃんと保護するから」
ふり返った目つきを威圧のごとく誤解されてしまった。




