梅雨はカタツムリが渦巻殻に背負ってくる。
水たまりを覗いてごらん?
雨の中に、揺れる水たまりを覗いてみれば、何が見えるだろう?
波紋に浮かぶアジサイの花びら?
流れ行く鉛色の空?
道を流れていく、傘の群れ。
その町に咲く傘は、道を流れていく。
湿った大気の色に染まり、ただただ、流れていく。
水たまりに映る風景に足を止め、心を動かす者はいなかった。
あまりにもありふれた、雨の日の垂れ込める風景には。
雨に湿った灰の空気は、ほのかにアジサイの香りがする。
その赤紫に染まった花びらをたたえ、緑の大きな葉にはカタツムリを乗せつつ、アジサイは雨に打たれている。
雨の多い夏、長い梅雨の夏だった。
もう、7月も終わろうとしているのに、空が灰色以外の日を数えたほうが早い。
夏の日差しは、厚い雲の上に。
梅雨はカタツムリが渦巻殻に背負ってくる。
雨の中、一人歩く少年は、そう聞いた事があった。
少年の名は、紫陽花。
緑のレインコートを身にまとい、青紫の傘をさしている。手のひらには、カタツムリを乗せていた。
首からは下げているラジオからは、先ほどから音楽が流れている。
梅雨の気配とは不釣合いなリズムは、湿気を吹き飛ばそうという意図があるらしい。
「その音楽は、絶対にセンスない」
口を開いたのは、紫陽花ではなくカタツムリであった。
紫陽花はラジオの音を小さくした。
このカタツムリは、人の言葉を話すのだ。
カタツムリは、ある水たまりを探していた。
水溜りに住むという蝉の脱殻が欲しいらしい。
しかし、カタツムリの足は鈍い。
そこで、前を通る人々に呼びかけていたのだが、紫陽花を除いて足を止める物はいなかった。
カタツムリと紫陽花の二人は、こうして出会ったのだ。
「ここらへんにあるはず。少年。早速、水溜りを覗いてみる」
紫陽花の手のひらに載ったカタツムリは、触角を使って指し示した。
紫陽花は言われるがままに、水溜りを覗いた。
水溜りに映るのは何だろう?
映っていたのは、灰色の空でもなく、自分の顔でもなかった。
そこは夜空が広がっていたのだ。
「あれ?」
紫陽花は思わずカタツムリを見た。
「何で、ここだけ夜が映っているの?」
カタツムリに表情は無いのかもしれないが、紫陽花には、ニヤリ、と笑った、ように見えた。
「早く行く」
カタツムリは、水溜りに飛び込んだ。
水面には波紋ができ、飛び込んだカタツムリはすぐに見えなくなった。
「早く来る」水溜りの中から、声だけが聞こえる。
戸惑う紫陽花に、カタツムリは言う。
「大丈夫、溺れはしない。今は、扉が完全に開いているから」
紫陽花も続いて用心しながら慎重に、足を入れる。
紫陽花の足は底につかない。
思ったよりも深いようだ。
「もっと、思いっきり、飛び込む」
紫陽花は、目を瞑り、両足を揃えて水溜りに飛び込んだ。
長靴やズボンが濡れてしまう、と紫陽花が思った瞬間、世界は、揺らめき、泡の中に溶けていった。
頭上には、銀色の流れ。
それは、泡とは違う、光のきらめき。
空は、天の河は、北の大空から、南の大空へと流れていた。
水溜りの中は、夜であった。
「ここは?」
先ほどいた場所とは、違うようだ。
それどころか、アスファルトの道さえない。
街燈の光かと思ったその淡い明るさは、月の光。
白い月に照らされた夜は、人の声は、聞こえない。
雲ひとつ無い空は、水溜りのように静かに、揺れている。
「あっちに行く」
カタツムリは、紫陽花の足元で、そう叫ぶ。
紫陽花は、カタツムリを拾い上げ、雑木林の方へ歩き出した。
闇に包まれた林は、霊気のような物が、漂っていた。
草草が月に照らされ、発光植物のように黄緑色を発し、ぼうっと浮き出て見えた。
風が、吹いた。
紫陽花は、目を細める。
「紫陽花、あそこ!」
カタツムリは、興奮していた。
「なに?」
カタツムリは、地面を見た。
紫陽花も、つられて、下を見た。
土が動いていた。
さらに土が盛り上がる。
「あっ! 蝉の幼虫」
紫陽花は、言う。
蝉は、地面を這う。
そして、木に登る。
足を止めると、日本の茶色の鎌を、樹に食い込ませ、体を固定する。
鼈甲色に耀く背中にひびが縦に入る。
割れ目から、白い体が徐々に見え始めた。
何分も何分もかけて体を殻の外に出していく。
宝石のように透き通った雪色の蝉。
身体が全て抜けた蝉は、自分の殻にしがみついた。
しわしわの羽が、シャンとしてくる。
その羽は、鏡のように周りの風景を反射させていた。
そして、生まれたばかりの蝉は、大空へと飛び立った。
「綺麗」
「そうだね」
「……今日から、うるさく鳴く大人の仲間入り」
誉めているのか、怒っているのかわからない言葉を言う。
'夏の終わりまで、長生きしろよ。夏は、本当に短いからな、本当に'
誰にもわからないように、カタツムリは、囁いた。
カタツムリは、紫陽花のほうを見た。
「蝉の子供は、自分の脱殻を見たとき、大人になる」
「そうだね」
「自分は、まだ、自分の脱殻を見ていない。ただ、大人になろうと背伸びしていた幼虫」
「?」
「外の世界がうらやましくて出てきた、まだ成長していない子供。土の中にいる、太陽の光の下で鳴く日を夢見ている子供」
「……」
紫陽花は、首をかしげた。
「自分は本来いるべきところに帰らなくてはいけない。ここにいるべきじゃない」
「?」
「紫陽花、抜け殻を」
紫陽花は、そういわれ、カタツムリに、蝉の脱殻を手渡す。
「これは、夏の精霊の抜け殻。
草花から滴る甘い朝露の、白い真昼の太陽光の、そびえたつ夕立の雲の、輝くモノたちから生まれた、夏色の結晶」
カタツムリの殻が虹色に染まる。
カタツムリの体が、淡い光に包まれていく。
「!」
紫陽花が叫ぶと、カタツムリの身体は、空気に浮かぶ。
涼しく軽い風が吹いた。
'……長い雨も、そろそろ終わりだ……'
心の奥に、そう聞こえたような気がした。
カタツムリは空へと。
カタツムリの通った跡は、虹となる。
紫水晶のような日光が、差し込む。
風景の溶解。
紫陽花が気がつくと、先ほどの水溜りを覗いてた。
カタツムリは、もう、そこにはいなかった。
水溜りに映る空が明るくなる。
首から下げたラジオの音楽は終わり、天気予報の時間となる。
"午後の天気予報の時間です。
…停滞していた梅雨前線は明日にも……、梅雨明けとなるでしょう。"
雨の残した水溜りを覗いてごらん。
揺れる水面に映るのは、何だと思う?
自分の姿?
それとも、別世界?
あの空に残る、虹のような。
明けた空気の中に、
そっと、
あるような、