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千年恋物語  作者: 堀田里佳
3/3

第二章ー出会い Bー

野菜、魚、小物、甘味。

道の両脇には所狭しとたくさんのお店が並んでいる。

男は威勢のいい声を張り上げて、女は今晩の夕飯のおかづを選んだり、可愛い小物を選んだりと賑わっている。

ここはお江戸の城下町が一つ。月川定正(つきかわさだまさ)が住む月見城(つきみじょう)の下にある。月見城とは変わった名前だが、その由来は、なんでもその城から見える月がとても綺麗だから、らしい。月見城の殿である定正が名づけたらしいが、家来の大半は反対したという逸話まである。

定正は変わっている。彼は主従関係を嫌い、城に使えている人たちにも、城下に住む平民たちにも友好的かつ自然に接していた。家来や平民らが定正に心を許したのには、彼のやや天然な性格もあるのだろうけど。そんなわけで、他の大名や将軍らとは正反対な月川大名は彼が治めるこの場所ではもの凄く信頼されていた。

そして、そんな定正のもとで過ごしたせいか、その娘も気が強く、好奇心旺盛のやんちゃっ子に育ってしまった。


「ふぅ。脱出成功」


そう、城からお供も付けずに抜け出してしまうほどのやんちゃっ子に。


今しがた城からの脱出にもごと成功したのは、月川家の長女、(はる)だった。少し地味な淡い桃色の着物をまとって、髪は邪魔にならないようにまとめて簪でとめている。下手に変装するとかえって目立ってしまうことは、過去何回か試みた脱走計画の折に学習した。何度も何度も実行しては城の外にたどり着くまでに家来やらなにやらに見つかってしまっていたけれど。


「ふふふ。やっと、やっと成功したわ!」


あまりの嬉しさにぐっと拳を握り締めてはしゃいでいるお姫様。城の前を通る人々に訝しげな目で見られていることに気付くと、人が賑わう方向へと歩き出した。


「いろいろな店があるのねぇ・・・」


折角だし、お父様にも何か買っていってあげようかしら・・・。


「あ、いや、そうしたらバレるか・・・」


お土産を買うことは諦め、しばらく一本道をぶらぶら歩く。

今までめったなことでは外に出してもらえなかった。欲しい物は言えば父や兄が買ってくれたし、とくに見たい風景なんていうのもないし、そもそも知らなかった。

一度だけ、家族で海に行ったことを覗けば。

その時のことを思い出したのか、ふっと春の表情が翳る。一面の藍色。潮の匂いに、波の音。その時はちょうど曇っていて、あまり美しくは見えなかったけれど、それでも城のなかから見る景色とは違ったそれは、春を感動させた。


「いけない、今日は折角外に出たんだから、楽しまなくっちゃ」


ペチペチと自分の頬を軽くたたいて、止まっていた歩みを再会させようと一歩を踏み出すと・・・


「きゃ・・・」


「うぉ!?」


人にぶつかってしまったらしい。急いで謝ろうとして顔を上げた春は固まってしまった。

目の前にいる人物は、一言で言ってしまえば、あまりにも怖かった。

背が高く、春を見下ろす目つきはそれだけで人を殺せそうな鋭さだ。そして何より、頬に走る傷跡が、彼がただの町人ではないことを告げていた。


「え、えと、その。ご、ごめんなさいでした!!」


わけのわからない日本語で謝りながら、春は脱兎の如く逃げようとした。したのだけれど。


「お前、人にぶつかっておいてごめんで済むと思ってんじゃねぇよなぁ?」


着物の襟を掴まれて、猫のように持たれてしまった春は、恐怖で顔を真っ青にする。のではなく、むしろ腕を組んで堂々とした振る舞いで男に対峙する。


「離してくれないかしら。私は謝ったのよ?聞いていなかったのかしら?」


さっきまで男の顔に怯えていた春はどこえやら。憤然たる体で男を睨んでいる姿は、とても城に住む姫とは思えない。男はそんな春の態度に意表をつかれ、たじろいだ。

しばらく無言の睨みあい(というか春が一方的に睨んでいるだけ)の状態が続く。通行人たちがチラチラと視線を向ける中、そんな状況に終止符をうったのは男のほうだった。

ふと何かに気付いたようにまじまじと春の顔を見つめていると、頭に引っかかりを覚えた。


「お前・・・・・・どっかで見たことあるなぁ」


「ま、まさか・・・。人違いでは・・・?」


どうしよう・・・。


男の指摘に今度は春がたじろいだ。まさかこんな浪士が自分の正体に気付くとは思ってもみなかったのだ。

そんな春の様子の変化に気付きもしない男は、しばらく首を傾げながら春の顔をじっくりと観察する。記憶を手繰りながら、いったい何処でこの少女を見たのだろうかと数秒思案する。


「えーっと・・・たしかこの間城で・・・・・・」


城・・・?


春は男の言葉に疑問を抱いた。城の中でこんな男を見た記憶がなかった。


「もしかして、お前、月見城の姫様か?」


「・・・・・・・・・違いますけど?」


どうしよう。正体がばれてしまった。

この男に城まで届けられたらどうしよう。まだ何もしてないのに・・・。


「いや、お前の顔は見た事があるぞ」


「違うって言ってるでしょ!」


否定の言葉をつむぎながら、春はどうすればこの場を抜け出すことが出来るかを考える。しかし、急いでる時に限って何も思いつかないのが人間の不便なところである。焦ってしまい、何も妙案がうかんでこない。


どうしよう、どうしよ・・・・・・。


スラリという金属と何かがこすれる音によって、春は現実に引き戻された。目の前には刀を鞘から抜き放った男の姿。男は刀を構え、振りかぶって・・・・・・。


城まで届けられたほうがよかったのかもしれない。


斬られると認識する中、そんな考えが頭の中をよぎる。


「月川定正への恨み、姫の命で晴らしてくれる!!」


「・・・っ」


男の怒声と共に振り下ろされた剣。思わず目を瞑った春は確かに聞いた。

憎しみをこめられて叫ばれた、父親の名前を。


キーン


刃物が合わさったような金属音。覚悟していた痛みはなく、恐る恐る目を開けると、目の前には少し色あせた藍色の着流しを来た大きな背中。助けてくれた人物は、男の刀をはじくと、刀の柄で男の手首を思いっきり叩いた。


「ぅぐ・・・・・・」


あまりの痛みに刀を落とした男は手首を押さえてその場に蹲った。恐怖と緊張が解けて座り込んでしまった春に、助けてくれた人物は手を差し伸べた。


「大丈夫?」


「・・・・・・っ!?」


春は目を瞠った。色素が抜けた薄い色の髪、海を思わせるような澄んだ藍色の瞳。自分より高い背。少しだけ日焼けした肌は健康的で、美形の部類に入るその面差しに、思わず春は見とれてしまった。


「おい、大丈夫か・・・?」


「あ、はい。ありがとう」


心配そうに顔を覗き込まれて、春はさっきとは別の意味でたじろいでしまう。



「なんだなんだ?」


「喧嘩か?」


少年の手を借りて立ち上がると、自分たちの周りに野次馬が出来ていることに気付く。そして、野次馬の向こうから何人かの男達が十手を構えてこちらに駆けてくるのが見えた。


「何事か!?」


「こいつが、女の子を斬ろうとしてたのをこの兄ちゃんが止めたんだ」


三人ほどいる同心の中で、年配の同心が声高らかに状況を尋ねると、近くにいた野次馬の一人が簡潔に状況を説明してくれた。そして、それを聞いた同心は、いまだに蹲る男を一瞥してから、春、そして少年に目を向けて、


「はぁ。三人とも、一緒に来てもらうか・・・」


面倒そうにため息を吐いた。



***



「で?なんだってこんな年端もいかない娘を斬ろうとしたんだい?」


ここは江戸の町奉行所。ただ今男の動機を取調べ中である。

男と話しているのは、さっきの三人の同心ではなく、男ほどではないが目つきの鋭い黒髪の同心だった。年は三十路を過ぎたくらいで、その表情からは少しだけ面倒臭そうなのが伺えた。



「あいつのせいなんだ・・・」


しばらくして、男はうめくようにぽつぽつと語りだした。春が城の姫であることから、なぜ自分が姫を斬ろうとしたのかまで。そばで聞いていた春は、話が進むにつれてだんだん顔が青くなっていく。


男の話はこうだった。


男はつい先日まで月川家の家来だった。

それは、ちょうど七日ほど前の出来事。

彼は七日前の夜中に、定正からあることを頼まれた。それは、「この子、迷子になってしまったらしくてなぁ。お前、ちょっと家までおくってやってくれないか」だった。もちろん断る理由もなく、子供に家の場所を尋ねて、送り届けようとしたその時だった。


「ぅ、ぅ、うわぁぁぁぁぁ!!!」


子供が突然泣き出した。

当たり前といえば当たり前の反応だった。春が謝ろうとして一瞬固まってしまうほどの、鬼のような極悪面の男に、いったいどんな子供が好き好んで家まで送ってもらおうというのか。

さらに運の悪いことに、それは夜中だった。夜中に子供が外で大泣きしていれば、誰かしらが駆けつけてくるのは当然といえる。

そしてやってきたのが一人の同心で、子供を誘拐したと勘違いされ、あれよあれよという間に奉行所へと連行されたのだった。


男は思った。これは、定正が仕組んだ罠ではないか。よくよく考えてみれば、子供を送り届けるなど、自分よりも適役な女の使用人がいるではないか。仮に女だと夜道が危ないという理由で省いたのなら、もっと顔が優しげな男はいなかったのか、と。




「・・・ということは、だ。君はあの月見城のお姫様、ってことでいいのかい?」


「・・・・・・・・・はい」


「それで、あんたはそこのお姫様の父君に逆恨みをしていたって?」


「・・・・・・・・まぁ、そんなところだ」


「はぁ」


同心の盛大なため息に男と春は頭が上がらなくなる。男は、今まで興奮していたらしいが、自分で話をしているうちにだんだん冷静さを取り戻し、己の一連の行動が単なる逆恨みだということに気付いたらしい。

同心は、それらを終始黙って眺めている少年に目を向けた。


「ところでそこの少年。あんたは何でここまでついてきたんだ?」


「かけつけてきた同心の人に三人ともって言われたからだけど?」


「・・・・・・お前いらなくね?」


「な!?」


「まぁいいや。わけは聞いてるし」


「・・・・・・」


聞いてんならわざわざ訊ねんなよ・・・・・・!

わなわなと震える少年をしれっと無視して、面倒くせぇと頭をかく同心。そこにいた一同は少しだけこの町の治安が心配になった。


「んじゃ、まぁ。あんたは一応殺人未遂ってなわけでもう少しだけここにいてもらわにゃならねぇが・・・」


同心はちらりと春と少年のほうを見て、懐から煙管を取り出す。


「俺そろそろ一服したいんだわ。おめぇら帰れ」


「なんて適当な・・・」


しっしと手で追い払うまねをする同心。その態度に少年はむっとしながらも、春を連れて奉行所を出た。



***



「何しでかしてるんだ!この阿呆娘!!」


城に戻って最初に聞いたのは、顔を真っ赤にして怒る父の雷だった。あまりの怒りっぷりに、春を送り届けた少年までもが呆気にとられてしまう。


「まったく。毎回毎回城から出ようと企んでいるかと思えば・・・。本当に町まで出て行ってしまうなんて・・・・・・」


そこに正座!っと指差す定正に、なぜだか春と一緒になって従ってしまった少年は、なぜか一緒にお説教を食らうことになてしまった。その間少年は今までに一度も入ったことのない、そしてこれからも入らないと思っていた城の内装をきょろきょろと見回していた。しかしそこには、少年が想像していたような細やかな装飾や、金色の置物などは一切なく、普通の家と同じような木の柱や、茶色い廊下、白い襖があるだけだった。普通の家と違うところといえば、それらがとても丁寧に磨かれていることと、廊下が限りなく長いということだけだった。あとは、一番奥に、丈夫そうな梯子があること。少年は目がいい。比べたことこそないが、他の人よりは遠くのものが見える。だから、廊下の奥の方に立てかけてある梯子に気付くことができた。


「あの・・・」


「なんだ!?今わしが説教をしているのが・・・・・・お前、誰?」


くわっと少年に牙を向いた定正だったが、そこでようやく自分が見知らぬ少年をお説教に巻き込んでいることに気付いた。さっきまでの怒りはどこへやら。きょとんとして少年を見つめている。


「あ、あの、お父様?少しだけ、事情を説明していいかしら?」


春は、恐る恐る今までのいきさつを説明した。途中父の顔が険しくなったりもしたが、そこにはあえて触れないことにした。


「ふむ」


全てを説明し終わると、定正は目を瞑って、何やら考えている。

しばらくうーむと唸っていたが、やがて諦めたように目を開くと、


「さっぱりわからん。誰だその男は」


「まずそこかよ!?」


娘が殺されかけたことよりも先に殺しかけた男の証言について考えを巡らしていた定正に対して思わず少年が声を上げる。当の定正は再びきょとんとして、春に問う。


「この少年は誰だ?」


「・・・・・・」


話をまったく聞いていなかったらしい父親にもはや呆れてものも言えない春だった。


「だから、私をその男から助けてくださった人よ!それなのに、お父様ったら正座させてお説教なんてして・・・」


まったく、と腰に手を当てた春の紹介を聞いて、定正はようやく少年の正体を知る。そして、少年の方を向くと、がしりとその手を握り締めて、ぶんぶんと上下に激しくゆすった。


「ありがとう。本当にありがとう。いやぁ、すまんねぇ。そうとは知らずにお説教をしてしまうとは・・・」


さっきまでの鬼の形相からは想像もつかないほどの優しげな人懐っこい笑顔でお礼を述べる定正に、少年は戸惑うばかりである。本当にさっきまでの怒りはどこかへ吹き飛んでしまったようだった。

しばらくそうやってお礼やら謝罪やらを聞いていた少年は、この城の主の怒りがどこかへ行った原因を思い出し、もう一度質問しようとする。


「あの・・・・・・」


が、


「ねぇお父様。私この方にお礼がしたいの。今晩うちで食事を振舞ってもいいかしら?」


「ああ。それはいい。では、ぜひともそうしようじゃないか」


「じゃぁ、今日の食事は・・・・・・」



少年の言葉はかき消される。そして、月川親子によって着々とそして勝手に話は進められていた。



***



「さぁ、この服に着替えて。あと少しで食事の準備が整うから」


そう告げた春は、どこか楽しそうに、真新しくきらびやかな袴やらなにやらを置いて部屋から出て行く。

少年は、だだっ広い部屋に連れていかれて、食事の準備が出来るまで待っていてくれと言われた。半ば強制的な話に戸惑いつつも、折角だから、と好意に甘えることにした。

春が置いていった着物を手に取り、眺める。それは、自分好みの桔梗色で、こってりとした模様や装飾がないことで、気後れせずに着ることができた。今まで着ていた藍色の着流しを何処に置こうか迷って、結局自分の近くに放っておくことにした。


そういえば、結局あの梯子のこと聞いてないなぁ。


着替え終わってすることがなくなり、暇を持て余した少年は、今日一日の濃い出来事を振り返ってみることにした。



***



「えぇぇぇぇ!?」


少年は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。

少年の目の前には年配の男が申し訳なさそうな顔で立っている。


「本当にすまない。この頃客が寄り付かないのはお前さんもわかっているだろう。そのせいで生活が苦しくなってしまってねぇ」


ようするに住み込みの手伝いを養うほどの金銭的余裕が店にないということだった。



少年は海に近い町で生まれ育った。海に近い町に生まれたからには、漁師にならなければいけないという両親の考えにほとほと嫌気がさした少年は、十五になった年に家を飛び出し、自分が本当にしたかったことをするために道場に通った。少年は武士になりたかった。道場を出てからは、京で有名な新選組にでも入ろうかと思っていた。武家の血筋ではないまがいものの武士集団。浅葱色の羽織を翻し、京の治安を守る勇者たち。

しかし、少年の理想は現実とあまりにかけ離れていた。風のうわさによれば、新選組は人斬り集団だの壬生狼だの、散々な言われようだった。もちろん少年はそんなうわさを正直に信用することはしなかったし、彼らの掲げる“誠”は素晴らしくかっこいいと思っていた。しかし、そんなうわさを流されてまで将軍に仕えようとまでは思えなかった。


そんなわけで、どうしようかと当てもなく旅をしているうちに江戸に辿り着き、面倒見のいい古道具屋の主人を住み込みで手伝い始めたのが十七の時だった。なんだかんだで一年くらい住んだ場所を追い出されるのは辛かった。でもこれ以上主人に迷惑はかけられないと思い、駄々はこねず、ただ、やり場のない思いを叫びに乗せることで妥協することにした。


「住む場所と、仕事まで一気に無くなっちゃったなぁ・・・」


町をぶらりと歩きながらぼやく。

今まで働いて溜めていたお金があるため一文無しというわけではないにせよ、今現在の装備は何年も前から着古している藍色の着流しに、古道具屋で貰ったこれまた古びた脇差のみという絶望的な状況である。


とりあえず今夜泊まる宿でも探すか。


そう考えて、宿が多くある通りを目指していると、


「・・・・・・・月見城の・・・か?」


「・・・・・・・・・ちが・・・」


なにやら話し声が聞こえてきた。少年は、どこか揉めているように聞こえる会話の元をたどってみる。

そして、ある角を曲がったところで、人相の悪い極悪面の男が可憐な少女に刀を向けている場面を見つけた少年は、条件反射で脇差を抜き、少女をかばう。道場に通っていただけあって、少年の動きには一切の無駄がなく、あっという間に男に一撃を食らわせ、互いに無傷でその場を収めた。


その後は、なぜか少女らと一緒に奉行所まで行き、さらには少女の家、つまり月見城にまで行くことになった。

そして、これまたなぜか少女とその父親にお礼の食事を振舞われるというあまりに旨すぎる出来事に、少年は若干混乱していたが、


でもま、今夜の飯代浮いたし、いっか。


という、なんとも現金な考えで現状を受け入れた。



「あの、食事の用意が整ったわ。ついてきて」


しばらくの思案のうちに準備が整ったらしい。少女は出会った時とは違い、裾のほうにいくつかの白い花が刺繍された、綺麗な東雲色の着物を着ていた。心なしかさっきよりも可憐に見える少女にドキドキと心臓の音が大きくなる。それを悟られないようにと、少年は足早に部屋を出た。



「この梯子・・・」


少女について行った先にあったのは、さっきから気になっていた梯子だった。

少年の呟きに、少女は悪戯っぽく笑い、上るように促した。


「・・・・・・?」


少年は、訝しげに眉を寄せたが、にこにこと笑っている少女を見て、仕方がないと梯子を上り始めた。

思いのほか長い梯子を上り終えた頃には、少年の体をほんの少しの疲れが支配していた。明かりのない場所でひたすら梯子を上り続けるのは、精神的にも厳しい作業だった。何度か足を踏み外しそうになったのも疲れの原因かもしれない。

ふと、少女のことが気にかかった。自分でもこれだけ疲れるこの梯子を自分よりもおそらく年下の、しかも少女に上ることができるのだろうかと。しかし、そんな少年の心配あ杞憂に終わる。少女は息一つ乱さずに梯子を上りきってみせたのだ。

呆気にとられて少女を見ていると、少女は少年の後ろを指差す。


「ほら、後ろを見て」


「・・・・・・」


少年は息を呑んだ。

後ろを振り返った少年の前に広がっていたのは、数多の星々が煌く広大な夜空だった。それは地面から眺める景色とは比べ物にならないくらいに綺麗で、壮大な眺めだった。


「すごいでしょう?ね、もっと近くで見ましょう」


少女に手を引かれて、障子の奥の手すりに近寄る。小さい枠が消えて、周りが見渡せるようになる。さっきよりもさらに壮大な眺めに、目を見開いた少年に、少女は問う。


「気に入った?」


夜空からあ目を離さずに、少年は頷く。もう少し上のほうを見てみると、そこにはちょうど真ん丸い月があった。いつもよりも大きく、立派に見える満月は、淡く輝いていた。


「この城がなんで月見城なのか理解できたよ」


「でしょう?皆はこの城の名前が気に入らないみたいだけど、私はすごく好きなの」


「俺も好きだな」


月を見つめながらそう呟いた少年を、少女は見つめる。その目に熱っぽい何かが含まれていることに気付かない少年は、緩やかな微笑を浮かべている。少女は、少年へと手を伸ばした。少年の着物の袂に手が触れる。それに気付いた少年が、少女へと目を向ける。


「なに?」


「え、えと。・・・そろそろ食事にしない?」


思ったよりも間近にある少年の顔にどぎまぎしながら、少女は少年を食事の席へといざなった。



***



食事が進み、あらかた食べ終えたところで、少年は箸を置いた。


「ありがとう。こんなに美味しいご飯は久しぶりだ」


「いえ、助けて頂いたんだから、これくらい当然よ」


そう言われてもいまだ遠慮が抜けない少年は、少しだけ困ったように笑う。

なにせ、豪勢な刺身の盛り合わせに、普段なら食べられないような白米、いい具合に出しの取れている汁物。こんなにも金がかかりそうな食事は生まれて初めてだった。


「本当に、遠慮なんてしなくていいのよ?お礼をしたいと言ったのは私なんだから」


そう言って微笑む少女に、少年も笑みを返す。

ふと、少女が目を瞬かせる。どうしたのかと少年が首をかしげていると、少女は慌てたように両手をぱたぱたと泳がせる。


「ごめんなさい。私ったら名前を名乗らずに・・・」


恥ずかしそうに俯いた少女に少年のほうもあたふたと意味もなく手を振っている。


「いや、そんなの別に・・・」


「いえ。こういうのはきちんとしなければ!」


「あ、はい」


気にしないように言おうとして、かえって怒られてしまった少年は思わず敬語で返事をする。

少女はこほんと一つ咳払いをしてみせると、姿勢をただした。


「申し遅れました。私、月見城の一の姫、月川春と申します。この度は危ないところを助けていただき、誠にありがとうございました」


今までの気さくな口調とは一変して、礼儀正しい敬語で深々とお辞儀をする春。その見事なまでに滑らかな一挙一動に少年は思わず見とれてしまった。


「あの、あなたの名前は?」


遠慮がちに問われて、少年ははっと我に返る。しかし、どう答えればいいのだろうと少年は迷う。教えたくないわけではない。ただ、名前がないのだ。もっと正確に言えば、武士を目指そうと故郷を出たとき、生まれたときに付けられた名前は捨ててしまったのだ。だから、今までは適当な名前で呼ばせていた。

けれど、この少女の鳶色の瞳を見ていたら、なぜか今までのように偽りの名前を口にすることはできなかった。


「えと、言いたくないなら、いいの」


なかなか名乗らない少年に、春は慌てた様子で質問を取り消そうとした。


「ないんだ」


「・・・・・・え?」


少年の一言で、今まで流れていた何かがぴたりと止まったような錯覚に陥る。さっきまで慌てていた春も、動きを止めて、大きな瞳で少年を見つめる。


「名前は、ないんだ」


再び、言い聞かせるように答えた少年の微笑はどこか寂しそうだった。春がそう感じたのは、少年の瞳の色を、自分の記憶の中の海の色と重ね合わせていたからかもしれない。

だから、思わずこう口走ってしまったのかもしれない。


「海、あなたの名前は海!」


「え?」


急な言葉に驚きを隠せない様子の少年は、春の瞳を見つめ返す。その瞳には、怒りや喜び、悲しみがなく、ただただ春の真意を読み取ろうとしているようだった。

そんな視線にも構わず、春は言い募る。


「あなたの名前は海よ。名前がないと、不便でしょ?自分でもおこがましいと思うけれど、でも・・・」


必死に訴える春の姿を見つめながら、少年はふと柔らかい気持ちになった。思えば、故郷を出てからというもの、道場での稽古やら、住み込みの仕事やらで気が休まる時がなかった。しかし、綺麗な景色をみて、久々に美味しいものを食べて、さらには自分のために必死になってくれる子に会えたことが、少年の心を穏やかにしたのかもしれない。

何の反応も示さない少年が、気を悪くしたと思った春は俯く。

そんな様子を見て、少年は思わず手を伸ばし、一瞬躊躇い、戻すことにした。年下とはいえ、さすがに一城の姫の頭を撫でようというのは無礼なのではないかと思い直した結果だった。


「春姫」


代わりに名を呼んだ。

恐る恐る顔を上げた春に、少年は綺麗な笑顔を見せる。


「わたしの名は、(うみ)と申します。この度は、城にお招きいただいて、誠にありがたく存じます」


さきほどの春のように、慣れない敬語を使って深々とお辞儀をして見せた。

顔を上げると、春はしばらくぽかんと目を見開いていたが、ようやく理解したときには、花が咲いたような笑顔で喜んでいた。




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