第一章ー出会い Aー
「はぁ、退屈・・・」
遥は、退屈していた。
ふう、とため息を吐く遥の日焼けを知らないような白い頬を、風が優しくなでていく。
二階の部屋にはよく風が入ってくる。そよそよと優しげに吹く初夏の風は心地よくカーテンを揺らしながら、部屋に入ってくる。甘いような、爽やかな葉の匂い。それは、季節と共に変化する外界の匂いで、遥からすれば、その匂いが鼻につくと、どうしても外に出たくなってしまうのが近頃の悩みともいえる。
外の世界はどうなっているのかしら・・・。
何気なく窓の外を眺める遥。
ゆらゆらと揺れる純白のカーテンを見ながら、ニャーオとふてぶてしく鳴く、膝の上の真っ白い猫を一撫でする。
くすぐったそうに目を瞑るその猫は、遥の唯一の女友達である。
あまりに気持ちよさそうに擦り寄ってくる様子が面白くて、愛おしくて。クスリと笑みを零して問いかけてみる。
「外の世界はどうなってるんだろうね、ミル」
問いかけられた猫は、再びニャオと鳴いて、大欠伸をしたっきりピクリとも動かずに眠ってしまった。
***
時ノ瀬財閥。
それは、遥の父である時ノ瀬康典が、遥の母、光子と共に築き上げた地位だった。
康典は、誰もが一度は聞いたことがあるような有名な家具ブランド社を、起業早々いくつも束ねるほどの実力者だった。そして、起業から数年。時ノ瀬が束ねるのは家具だけにとどまらず、その他インテリア系の会社をも束ねてしまった。いつしか、時ノ瀬財閥は、インテリアの支配者と呼ばれるようになっていた。
もともと経営学などの才に長けていた康典と、行動力の高い光子だからこそ出来た偉業である。
二人は、仕事が忙しい中、一男一女の二人の子供をしっかりと愛情をこめて育てた。
怖いくらいに続いていた幸運は、まだ子供達が幼いうちに終わりを告げた。二人は、幼い子供達と、大量の遺産を残して、息を引き取ってしまったのだ。
父、康典が死んだ当時、15歳だった遥の兄、拓海は、まだ4歳だった遥の面倒を見ながら、少しずつ経営学などを学んだ。そして、彼が18歳になった三年後。彼は会長がいないままで続けていたために衰えていた時ノ瀬の経済力をもとに戻し、以前のような支配者へと返り咲かせた。若き新会長は、それから十年間で、時ノ瀬の家の財力や権力をますます大きくしていった。
遥は、政治や経済というものを、全くわかっていなかった。しかし、わからないなりに考えはあって、むしろそんなの無くなってしまえばいいとすら思っていた。
その理由が、拓海が遥に自由な外出を禁止したことだった。遥は兄に、理由を何度も訊ねた。しかし、結局今に至るまで一度も彼はその理由を話してくれなかった。そして遥は、外に出られない理由を家のせいだと思うようになった。
およそ十年以上もの間外出を許されなかった遥がどうやって生活していたか。それは常人では絶対に我慢できないような生活だった。欲しいものがあれば使用人に頼むかネットで発注。勉強や社交辞令の類は家庭教師を雇ったり、または拓実がじきじきに教えに来たりした。遊びたい盛りの小学生時代にも、庭に出るのでさえ使用人がついていないと許されなかった。
まるで軟禁されているかのような生活。
そんな中、ふとした拍子に遥は、幼い頃の出来事を思い出す。両親が生きていたころは、家族で買い物に行くことが月に何度かあった。もとは庶民であるために、あまり豪華なものを好まなかった両親は、近くのスーパーなんかで夕飯の材料などを買っていた。それについていって、お菓子などを強請ったりした懐かしい記憶。
遥は、もう一度その時みたいな時間を過ごしたかった。その願いに気付いてくれずに、自由を奪い、放置する兄が苦手だった。
遥は、家の“外の世界”に出たかった。
***
コンコンと、ドアをノックする音。
「遥様。お茶をお持ちしました」
その声に、壁にかかっている時計を見ると、短針は3をさしていて、もうそんな時間かと思い知らされる。
「入って」
一言、そう言うと、ガチャリと部屋の白いドアが開く。
外から入ってきた黒い執事服を身に纏った青年は、今日のおやつであろうドーナツがのった皿や、紅茶の匂いが漂うポットに同じ柄のカップを銀色のワゴンにのせて運んできた。
カチャリカチャリと食器がぶつかりあう心地いい音を響かせながら、青年は遥の部屋にある白いテーブルの上に紅茶を注いだカップを置く。用意が整ったのを見て、遥は眠ったままのミルをそっとベッドに置き、再び椅子に座りなおすとドーナツに手をのばした。
パクリと一口かじると、ちょうどいい甘さが口に広がる。
カップを持ち、中に注がれた紅茶の匂いを楽しむ。
「カモミールね」
「はい」
林檎のような甘い香りが鼻孔をくすぐる。ゆっくりとカップを傾けていくと、甘くて優しい紅茶の味が口いっぱいに広がって、思わず頬が緩んでしまう。ほうと息をつき、カップを置いて再びドーナツに手をのばす。そして、それを隣に立っていた執事に差し出す。
「はい。食べて」
「いえ、私は・・・」
「私一人で三つも食べたら太っちゃう。あと、そのしゃべり方。私と二人のときは敬語じゃなくていいって言ったはずよ」
「・・・・・・」
しばらく無言で見つめあい、先に折れたのは執事のほうだった。
「仕方ねぇなぁ・・・」
ため息を吐きながらも、執事は白い手袋をはずし、差し出されたドーナツを受け取る。一口かじり、眉をしかめる。甘い、と小さく呟きながらも律儀に全て食べきる。そんな執事を見て、クスクスと笑う遥。
「甘い?私はちょうどいいと思ったんだけど」
「甘いの苦手って何回言えばわかんだよ」
苦笑しながら再び手袋をした執事は、赤茶色の髪をうっとおしそうにかき上げた。
そんな仕草に少しだけドキッとしながら、遥は平静を装って紅茶を飲む。
「髪、伸びたね」
「ああ。そろそろ切りにいかねぇと邪魔だな」
前髪を弄りながら答える執事は、もう遥を主人として扱っていなかった。その態度を見て、遥は彼に初めて会ったときのことを思い出していた。
***
「はじめまして。今日から遥お嬢様のお世話をさせていただきます、小湊彰人といいます。どうぞよろしくお願い致します」
二人が初めて会ったのは、遥が12歳の時だった。きっちりと執事服を着こなしていた彰人はまだ15歳だったが、大人びた雰囲気と、丁寧でしっかりとした言葉遣いが、彼を実年齢よりも三つくらい大人にみせていた。
「彰人君はいい子よねぇ。まだ15歳なんでしょう?」
「本当に、しっかりしててねぇ。私もあんな息子欲しいわぁ」
彰人は、とにかく大人受けがよかった。執事としての仕事以外にも、使用人の人たちの手伝いをする姿勢や、言葉遣いと愛想の良さ。遥は、中年くらいの歳の使用人たちが、彼を褒める言葉をよく聞くようになった。
が、遥は彼の態度が気に食わなかった。たった三つしか違わない年上の人に、尽くされているというのが嫌だった。
使用人たちは、お嬢様というよりも、近所の子供のような可愛がり方をしてくれた。遥自身がそういう接し方を望んだ。しかし、彰人は違った。彼の言葉は、まるでマニュアル通りのように感じられて、会話をしている実感がわかなかった。それに、遥は、彰人が来たときに、少なからず期待したのだ。『歳の近い友達ができる』と。実際に会ってみれば、彰人は遥をお嬢様と呼んだ。主従の関係以外には何も無いと思い知らされた。期待を裏切られたような悲しみが遥に降り注いだ。
だから、あの姿を見たときは、ホッとした。
それは、ある日の昼下がり。
遥が白猫、ミルを探して廊下を歩いていた時のことだった。何やら怒ったような声が聞こえてくる。声が聞こえた方へと歩いていけば、そこは、いろいろな物を収納している、所謂物置だった。物置の奥の方からは、また苛立たしげな声が聞こえてくる。そっと足音を忍ばせて中に入る。きっと毎日掃除を怠らないのであろう、中は誰も使ってないはずなのにも関わらず、埃一つ落ちていなかった。大きなクローゼットや、外国の骨董品。初めて見るものも少なくなかった。そして、大きな鏡の裏から、声は聞こえてきた。
「ったく、何でお前はそんなに大食いなんだよ。・・・あ?もうねぇって言ってんだろが!」
言葉の間にニャオというふてぶてしい鳴き声が入る。そっと鏡の裏をのぞいてみると、そこには異様な光景が広がっていた。
あの彰人が、猫相手に真剣な顔をして怒っていた。いつもは大人びて見える彰人が、歳相応の少年に見えることに、思わず噴出してしまいそうになって、慌てて口を覆う。しかし、遥に気付いていないのか、彰人はまだ猫、ミルと話し続ける。
「ちっ、だぁから、もうねぇって」
ニャオ
「んな睨んでもねぇもんはねぇの」
ニャーオ
どうやら餌の話らしい。片手で頭をガシガシとかき回しながら餌の袋を逆さにしてみせる彰人と、それでも餌が食べたいらしく、じっと彰人を見つめるミル。どう見ても笑うしかないやり取りに、遥はとうとう我慢できなくなってしまった。
「あはははははっ」
「!?」
堪え切れなくなって盛大に噴出した遥の笑い声に、彰人はびくっと肩を揺らした。今まで全く気付いていなかったためか、ぎょっとしたような顔で遥を見つめる。
「・・・・・・・」
何かを言おうと口をパクパクさせているが、その顔は薄暗い中でもよくわかるぐらいに紅潮していった。猫と真面目に喧嘩しているところを年下の少女に見られれば、誰だって恥ずかしい。それを察して、なんとか笑いを押し込めて一息吐いた遥は、未だに声が出ない様子の彰人にこう言った。
「あなた、結構面白いのね。そっちの方が親しみやすい」
「申し訳ありません。気をつけます・・・」
失態を皮肉られたと思ったのか、悔しそうに顔を歪めた彰人に、遥は慌てて付け加えた。
「違うのっ!私、敬語とかで話されるのに慣れてないの。だから、今その子に接したみたいな感じでいいから・・・」
どんどん語尾が小さくなっていく。話しながら冷静に考えてみると、彰人は執事という“仕事”をしているのだ。自分のわがままのせいで彼の評判を落としてしまうようなことになたらどうするのだ。遥は、しゅんと俯き、やっぱりなんでもないと言おうとした。
「はっ。何?あんた猫と同類に扱われてぇの?」
遥は、聞こえてきた言葉に顔を上げた。声の主の方に目を向ければ、彰人は挑戦的な目を向けていた。
「誰にも言わないって約束するんなら、お前の前でだけ敬語をやめてやってもいい」
「言わない!誰にも言わないから、その・・・」
再び黙り込む遥を促すように彰人は彼女を見つめた。静かなその眼差しに、まるで捕らえられたかのような錯覚を覚えた。そして遥は、すんなりとその言葉を口にした。
「友達に、なってくれない・・・?」
***
あれから5年の歳月が過ぎ、彰人は遥といる時限定で素に戻る。普段他の使用人や、遥の兄に見せているような好青年はすっかりとそのなりを潜めて、丁寧な口調は欠片もない。むしろ彰人は言葉遣いが悪い方だった。
そんな彼を横目で観察しながら、遥は時々思う。
彰人って、カッコいいかも。
遥だって年頃の少女。人並みに恋愛だってしてみたい。しかし、そもそもこの屋敷には兄と使用人しかいないのだ。年が近くて、いつも世話をしてもらっている彰人を恋愛対象にしてもおかしくはない。というかむしろ、彰人以外に恋愛対象になりえる存在がいないのだ。
「なに?」
「・・・いや、前髪長いなぁ、と」
「ああ」
じっと見すぎたのだろうか、急に声をかけられて一瞬返事が出てこなかった。内心焦りながらも気になったことを呟いてみると、彰人は気にしたふうもなく自分の赤茶色の前髪をいじる。
少しだけ癖っ毛な彼の髪はきっとふわふわで、さわり心地が良いんだろうなぁ。
そんなことを思いながら、遥はコクリとお茶を飲む。
「そろそろ切りに行くか・・・・・・」
鬱陶しそうに再び前髪をかき上げた彰人は、ドーナツがのっていた皿がもう空っぽになっているのに気付いた。
「食い終わったんなら皿提げんぞ」
「・・・うん」
彰人は来たときと同じように食器をカチャカチャいわせながら銀色のワゴンにのせていく。遥はその様子を見ている。
まるで、囚人みたい。
ぼんやりとそんなことを考えたのは、ずっと家に閉じ込められているからかもしれない。
時間になると、朝昼晩の食事とおやつが運ばれてくる。夕飯は時々兄と食べるために大広間まで足を運ぶことになるが。それでも、ただ与えられ、食べ終わればさげられる。食べてる間は使用人の誰かしらがじっと部屋の隅で待っている。遥にとって、食事の時間は少しだけ息苦しくて嫌な時間だった。
「じゃぁな。今夜の夕飯は兄貴とだってよ」
「わかった。ありがとう」
「ん」
ガチャリと、しまったドアは、そこまで重量がないはずなのに、酷く重々しく感じられた。
今日は、お兄様と一緒に食事できるのね・・・。
心地よさそうに眠るミルを抱き寄せ、ベッドに上がる。遥は、最後に兄と食事をしたのがいつだったか思い出そうとした。
「・・・・・・いつだったっけ?」
結局思い出せない遥は、そんなに長い間一人で食事をとっていたんだなぁと実感した。そして、その実感は彼女に孤独を感じさせた。
思い出せないほどに前に一緒に食事をした兄は、いったい誰と食事を取っているのだろう。きっと、一人の時は少ないんだろう。
時ノ瀬の会社と契約しているいろんな会社の偉い人たちと一緒に、世間話でもしながら食べているに決まってる。
そう考えると、妹を独りぼっちにしている兄を恨めしく思った。だけど、仕事だから仕方ないと割り切ってもいた。
「おい!そっちにいかなかったか?」
「いや、見ていない」
物思いに耽っていると、なにやら庭の方が騒がしい。遥はミルを撫でる手を止め、部屋にある三つの窓のうち、ベッドから一番離れた窓から身を乗り出すようにして庭を見る。
「まったく、どこにいったんだあのガキは・・・」
「仕方ない、手分けして探そう」
どうらやら人を探しているらしい。しかも、彼らの口調や話の内容からして穏やかじゃない様子だった。
いったいどこの誰を探しているんだろう。首をかしげながら窓から身を引くと、ニャーォとミルの甘えた鳴き声が聞こえてきた。
「ミル、起きた・・・・・・」
ベッドのほうを振り向いた遥は目の前の光景を見て絶句した。ベッドに近い窓の外。その近くにどっしりと生えている大きな木。その太い枝の上に人がいた。短くて色素の抜けた薄い茶髪。病的なまでに白い肌。優しげな面立ちはどこか儚くて、木の上にいるのが信じられないくらいにおとなしそうな少年だった。いつの間にか起きたミルは、その少年の元に行こうと、窓枠に飛び乗る。
そして・・・。
「あぶない!?」
危機一髪。木の上の少年が、窓から外に落ちそうになったミルを片手で支えて、抱き上げた。一瞬遅れて、遥が駆けつける。そして、彼女が窓枠に手をついて、その人物に声をかけようとしたその時・・・――――
「みつけた・・・・・・」
藍色の瞳を輝かせ、その少年は確かにそう呟いた。