Birth(7)
◆
立花八雲の肉体にある経験は意識に対して告げる。
これからが本番であると。
「先ほどの一撃――」
竜族を吹き飛ばした神楽・回迅の一撃はしかし、見た目とその結果に反して、竜に対して無力である。
あの一撃では竜の鱗を突破できない。彼に与えたのは純粋な衝撃のみ。吹き飛びはすれども、それで傷つくような、柔なパーツは竜という種族の何処にだって存在しない。
肉体が伝えた打撃の感触から立花八雲が学んだのはそれである。
竜族に対して、見かけ倒しの一撃は通用しない。
(だが、吹き飛ばされたという認識はあるはずだ)
例え、肉体的にはいたくなくとも、森に放り込まれたという事実は揺るがない。それに対して、嫌という感情を抱くか否か。
竜は長く生きる種族だ。それ相応の知識や感情の蓄積がある。それらがどのような判断を下すのか。
森を駆け抜けてく。
なぎ倒された木々の向う側に今、まさに立ち上がろうとする竜が見えた。
(――恐れるな)
先ほどの一撃で奇襲による利点は使い果たした。今からは竜に対する正面からの戦いとなる。
意識は先ほどから生物としての恐怖を訴え続けている。
敵うはずもない、逃げろと。あれは生物としての格が違う存在だと。
人間としての分をわきまえろ。お前にあれを倒せるだけの、生物的優位性は存在しない。
だが、逃げるという選択肢は事、ここに来て存在しない。
あるのは、背後の傷ついた人々とこの満身創痍の肉体のみ。
その肉体が、あの竜を倒せると意識に対して告げ続けている。
それを信じて、今は前へ。一刀を地摺り八双に構えつつの疾走。跳躍に近い水平方向への疾走を。畏れを超える一歩の積み重ねを行い続ける。
立ち上がった竜がこちらを見据えた。
(――――来る)
竜との死闘が始まる――。
◆
――竜の思考は、己に迫り来る人間を認識していた。
起き上がり、首をもたげればはっきりとその姿は両目に映し出される。
刀を携えた男が森の中を疾駆してくる。こちらに向かい、躊躇することなく。
竜は思う。
その鋭敏な感覚器官を以て、彼は脅威ではないと。
満身創痍の体に、矮小すぎるその肉体。
竜に到達するには生物として人間の枠にとどまりすぎている。
先ほどの一撃も竜の鱗を破るものではなかった。
その証拠に体には傷一つ負っていない。岩を落とされ、吹き飛ばされはしたがそれだけだ。ダメージは一切無い。
――だが、相手は己の巨体を吹き飛ばした。
竜は思う。不思議だと。
この世界に於いて、魔術に秀でたものならばそれも出来よう。魔力に恵まれたものでもそれは可能だ。
如何に竜が幻想を半身とする存在であっても、物質としての半身がある以上、質量を吹き飛ばすという行為は自然の物理法則に保証されている。
自分の重量を吹き飛ばすだけの膂力ある一撃。衝撃。爆発力。それがあれば、竜とてふき飛びはする。
その上で竜は思う。不思議だと。
彼は魔力・魔術の一切を使った形跡がなかったと。
その上で彼は竜を吹き飛ばす一撃を放った。
その矮小極まりない肉体を以て、この巨体を吹き飛ばすという行為を実現せしめた。
それは竜の知識を持ってしても不思議だ。不可思議だ。
故に、竜は一つの感情を得る。
あの一撃は嫌いだ、と。
判らないものを近づけたくない。得体の知れない何かを懐に招き入れようとは思わない。
危険とも、脅威とも思わない。ただ嫌いだと、そう思う。
故に竜は一つの判断を持つ。――拒絶だ。
だから竜は最もそれらしい方法で判断を実行した。
◆
立花八雲は疾走の最中、立ち上がった竜が行う動作の始動を目撃した。
四足で立った竜は、その長大な尾をこちらから見て右へと大きく振る。それに併せて、首をその反対方向へ振る動作が一つ。
そこから予想される行動は――瞬間の判断で八雲は近くの樹に対しての前方ステップと、跳躍。幹に対する衝突に近い着地からの、三角跳びを行った。
高く、跳ね上がる。八雲の視界は天地が逆さまになり、足が空へ、頭が地面の方へ。
――その、逆しまになった頭の真下を竜の尾が通過していった。
強烈な破壊が周囲の森林に対して行われる。細切れになった木片が散弾となって襲い来る。
その内の、目に見える巨大なものだけを払いながら着地すれば、回転する動作途中の竜が、首だけをこちらに向けて睨み付けているのが目に入る。
視線は鋭くよどみない。
こちらを敵として完全に認識した視線だと、八雲は思う。
同時にそれは、こちらの行為がそれだけの価値を持ったという証左だ。
この時点で背後への気遣いを八雲は捨てた。
(この相手に、誰かを気遣いながら戦えるほど意識に余裕はない)
経験豊富な体躯がほぼ勝手に動いている状況。それに対して追認するだけの意識だが、決して楽な仕事ではない。
寧ろ、反射で動いている肉体動作を遅滞させず許可を出し続けるというのは、一度のミスも許されないだけに、非常な緊張を必要とする。
例えるならば旗上げゲームがそれに近い。己と問題の提示者が持つ紅白の旗。それを音声の誘導と、実際の映像に合わせ正解を選び続ける。
綱渡りだと、八雲は思う。ミスをした瞬間に綱から落ちた自分は竜になすすべ無く仕留められると。
だが、それでも、
「諦めるわけにはいかない」
そのために背後への気遣いを捨てる。竜を倒す。そのために肉体の求める意志を与え続ける。それでいい。
眼前、竜が回転を終えようとしている。
その動作が終了する前に、と。八雲は竜へ向かって接近を要求する肉体に許可を与えた。
肉体は地面を蹴り出し体を射出し、加速力重視の瞬歩を行う。
回数は三回。三回の連続射出で竜との間にあった二十五メートルを一瞬で踏破する。
速度をそのままに、三度目の着地と同時に両足を地面についた。
竜によって強引にならされた大地を滑る。
その動きに合わせて、下段に構えていた刀を右肩に背負う変則の蜻蛉へと切り替えた。
右に刀を担い地面をスライドする。
右足を前に、左足を後ろに。
竜と接触するその寸前に、腰にひねりを強引に入れれば、慣性スライドによる回転が始まる。
二度の左回転。右肩の溜め。
それを神楽として――
「回迅―― !」
もう一度の、打撃を竜に叩き込んだ。
◆
自身のほぼ正面、懐に潜り込まれた竜は己に叩き込まれる打撃を見た。先ほどと同じモーションからの一撃。
ほぼ同様の効果が己にもたらされるだろうと言う予想が脳裏に駆け巡った瞬間、竜は反射的に一つの動作を行った。
まだ大地を強く踏みしめ、慣性を殺そうとしている四肢の力を抜く。回転を終えようとしていた体は、わずかに残っていた遠心力に振り回されるようにしてバランスを崩し、宙に浮いた。
そこに叩き込まれる打撃。
竜の体は、宙を斜め上に吹き飛んだ。
◆
打撃の結果として竜は宙を舞った。先ほどと同じ結果を得た行動は、しかし、
「――――これは」
見事、と思わず呟きを入れるてしまう程、鮮やかな宙返り。五十メートルの巨体をして行われる超ビックスケールのそれは視るものを圧倒する迫力に満ちている。
――これは先ほどとは真逆の致命打だ。
八雲の脳裏に浮かんだのは九回裏での一死一塁センターフライ。併殺即試合終了という未来だ。ホームラン狙いで振られた逆転の一撃はしかし、最悪の結果をフィールドに表す。
「――まずい」
致命的一撃が来る。
肉体が最大級の悲鳴を上げた。心臓は狂ったように早鐘を打ち、頭の後ろ側ではバスサウンドが響き続けている。
ひりつくような緊張感。焼き付くような絶望感。一瞬の思考停止のあと、動き出した風景に従い地面を蹴り出し、残された森へと飛び込む。
瞬間――竜の息吹が八雲を襲った。