Birth(4)
【??? 崖上】
雪原を歩いた末に、たどり着いた崖上から立花八雲はその光景を見下ろしている。
眼下には一団。その直上にはひとつの幻想。
赤き竜に追い立てられ、集団が逃げ惑う様はパニック映画よりも滑稽だ。何しろそこに娯楽性の一切はなく、逃げている彼らにしろ必死の未来に抗っているに過ぎない。だというのにこれっぽっちも助かりそうな未来が見えはしない彼らの様相は、どうしようもなく救いがない。
なるほど、あの音の原因はアレか、と立花八雲は理解を得た。次いで、空を飛ぶ狩猟者に目を向ける。
全長は五十メートルほど。生物と言うには巨大すぎる体躯は陸上で活動していることすら奇跡に等しい。それが大空を羽撃き、あげく、高速に飛翔しているなど冗談にしてもたちが悪い。もはや現実に対する冒涜だ。立花八雲の中に、常識を照らし合わせる過去はない。だがそれでも、この光景があり得ないというのはよく判る。
――いや、あるいは。あり得てはいけないという怒りに近いか。
眼前の光景に対する苛立ちとも似つかない、ドロリとした感情が胸中を刺激するのに、立花八雲は混乱を覚えた。だがそれも一瞬のことだ。
「――――。」
思考の停滞。遅延処理。理解の出来ない感情を鈍感というやすりで削りとる。根源が何処にあるのか判らない感情は、今の段階では不要以外のなにものでもないという判断。
怒りの意味を知るのは後でも全く構わない。伏線としてそれはこの場においておけ。瀕死のこの身に続く話があるのであれば、いつかどこかで気が向いた時に回収だってされるだろう。
現状を正しく入力し、それを正確に処理するのが人間というマシーンとして正しい場面だと、不確定のノイズを根こそぎカットしていく。
感情はフラットに。
逃げ惑う人々とあり得ない脅威。
その二つが立花八雲の目の前には広がっている。
――さて困った。
救助を欲して歩いてみれば、その先には自分よりも助けを求める集団が居た。全身傷だらけの自分と、捕食者に見つかり次第、即死が確定している彼らとでは果たしてどちらが絶望的か。
助け出したいという気持がないわけでもない。立花八雲の中には、それくらいの正義感があった。だが、遺産で彼らの前に駆けつけたところで、想像できる光景は、
――逃げていたら、突然現れる傷だらけの男、か
なんともシュール極まりない。出て行かない方が良いのではないか。自分ならば、あの状況でそんな光景には出会いたくない。一瞬でも混乱をきたせば死に至りかねない状況で、そのような場面を誰が望むか。
こんな状況で彼らを救い出すのは超人にだって不可能だ。必要なのは人間としての限界性能でもなんでもない。兵器としての有能性。上空を飛翔する巨大生物を撃破する。そんな結果を再現しうる単純火力に他ならない。
だが、そのようなことを実現するのは、記憶の中のどんな兵器でも難しい。それを個人でなど、どだい無理な話だ。
つまるところ、立花八雲に出来る行為の限界は彼らの様子を眺めているという、それに尽きる。
邪魔をせず、手を出さず。様子を眺めて、その生き様を空っぽの頭に記録する。それも一つの意義だろうかと、自分で自分に自問する。
生きたいという欲求は薄い。そのために必要な過去《燃料》が自分自身には存在しない。だが、彼らはそれをその身一杯に持ち合わせている。その最後を、見届ける。誰に知られることなく死ぬよりは、誰かに知られ後世に。語り継がれること、語り継ぐということ。
それまで生きているかの保証はないけど、それが己の精一杯。
ならばそれでも仕方がないと、己の中で呻いている英雄像を諦めた。
眼下、走る一団が居る。
頭上、それを捕食せんとする貪欲な狩猟者。
木々の枝を間に挟んだ両者のやりとりを最後まで眺め続けようと、そう決心しかけたところで、
「――――。」
見晴らしの良いこの場所からは丸い広場が見えてしまった。
走れば数分。僅かな距離。彼らはそこに到達した瞬間、狩猟者によって殺される。
それが現実、揺るぎのない未来。確定しきった可能性。
わかりきっていた結末が、無機質なあっけなさでそこにある。
「――――――――。」
どうしようもない。どうのしようもない。立花八雲に現実を変える力はない。
「――――――――――――――。」
一歩を踏み出せば死ぬ。崖を降りれば死ぬ。彼らの死を免れさせる手段はなく、彼らと共に死ぬしかない。
「――――――――――――――――――――。」
だから決めた。彼らの最期を見届けようと。瀕死の体で、誰かの元へたどり着いて、彼らの最後を報告しようと。そう決めた。無駄に死ぬことはないと、決め、
「――――――――――――――――――――――――――あ。」
そこで、立花八雲は致命的なものを見た。
木々の隙間に、集団の先頭を走る人物が、見えた。
薄い色素の蒼い髪。
白い肌。
整った鼻梁。
小柄な体。
必死を宿した瞳。
運動に紅潮した頬。
たなびく髪の房。
雪に照り映えたそれらは薄蒼い燐光を宿し、煌めき。
小さな口は軽く開き、大気を吸い込み――吐き出し。
視線は頭上と背後を行き来し。
走る人々を見ては、再び全身に力を入れ直す。
意思の表れ――先頭を走る少女は強い意志の元に絶望に抗っている。
なんて迂闊。なんという油断。この光景は見てはいけない物だった。自分はこれで確定した。今、目にした物に立花八雲は囚われてしまった。
「――――ああ、これは駄目だ」
削りとられた感情が再起する。
「――――絶対に駄目だ」
この光景はあり得ない、許してはいけないと血が騒ぐ。
だってこの光景の先に続くのは、死だ。冒涜的な現実にもたらされる絶対的結末だ。それは、つまり、もしかして、今見た少女が死ぬという光景に他ならないんじゃないか――?
「死なせたくない」
感情は衝動に。右手にぶら下げたままの刀を握り、立花八雲は結末へと駆けだしていた。
アレは卑怯だ、どうしようもない。一目見たら誰だってそう思う。
見ているだけならそれは映像だ。集団というカテゴリーにくくられた彼らは個を得ることなく、無機物的に処理される。
そこに認識としての生物はなく、記憶の中で鈍感の箱に詰められ、いつかどこかへ出荷される。パッケージングされた情報はそれ以上の価値を持ち得ない。
だが。
さっき見た光景によって、強引に自分は引き込まれてしまった。少女という個を認識してしまった。その表情を、透けて見える感情を視てしまった。
そうなればあれは生物だ。美しくも儚い容姿を持った可憐な少女に他ならない。
フィルターを通さないで生の感情を叩き込まれたものは映像ではなく、現実に他ならず、手を伸ばせば触れてしまえる質感がそこにある。
物語に触れられる。
ならば、たとえ。
数分後の未来が揺るぎない物だとしても、立花八雲の中の衝動は少女を救いたいという英雄像に囚われる。
馬鹿なことをしているという自覚がある。命を投げ出しに行っているという自覚がある。だが、それでも駆けだした歩みを止める理由にはなり得ない。刀を握りしめ、彼女の前に傷だらけの不審人物として身をさらけ出そう。ぼろぼろの体だが、盾くらいにはなるかも知れない。
走る。絶望のその場所へ。先回りするように走る。痛みすら麻痺した体に、いつまでも動く保証はない。遠くない未来、黙っていてもこの体はその活動を停止する。
過去を失い、何が何やら判らない己は、日の沈む前に終わりを迎える。
だから、まぁ。
何が起こっているのかなんて、とんと分かりはしないのだけど。
「まぁ、命を散らすには、十分か」
少女の命を数分数秒ながら得させる、そのために自分という存在を消費する。それを今此の時、了承した。
刀を強く握る。
――あり得ない話だが、もし自分に記憶さえあれば。
少女だって救えたのだろうか?
そんな夢想を未練として。
◆
繰り返しの自問。
相変わらずの自答。
立花八雲に少女を救う力はない。
この未来を変えられる存在を、力を、立花八雲は知り得ない。
その方法の、手段の、可能性の一片足りをも、立花八雲は思い得ない。
この状況に対し、立花八雲は無力極まりない異物でしかなく、
この場に居合わせた偶然以外に、立花八雲の存在意義はどこにだってありはしない。
――――――――――――ほんとうに?
◆
刀を握りしめた瞬間、立花八雲の中で記憶が迸った。
◆
【立花八雲:記憶】
【記憶検索……該当】
【項目:竜種】
【属性:幻想】
竜種とは何か。
その身の半ばまでを幻想で補完した究極の生物である。
幻想とはこの世界ならざる物。想像上の物質。語り継がれた力。想い紡がれる奇跡。
非物質にして有り得ざると物と現実より可能性外に葬り去られた異能。
それを半身とする竜種に対して有効な打撃は存在しない。
現実世界において、竜種を打倒する術はなく、あるのは同種にして竜種を上回る幻想のみ。
故に究極、故に最強。
かつて存在したとされる脅威そのものを具体化した幻想生物である竜は、その存在意味を喪失しない限り永遠にその強さを宿し続ける。
敵対者にの強さに比例して無尽蔵の強化を得る存在。
世界の生命を全て冒涜する魔物にして――神。
◆
【追加検索……該当】
【項目:舞踏】
【属性:技巧】
舞踏とは何か。
それは可能性世界に存在する三大技巧の一。
その真価は――――――――――――――――――――――――――――――――――――。
――――――――――――データ欠損。
――――――――――――言語化は不能。
――――――――――――肉体にのみ経験の蓄積は宿る。
◆
【追加検索……該当】
【問:竜種は打倒しうるか?】
【答:――――――――――――可能】
◆
刀を握りしめた瞬間に、立花八雲の脳裏に記憶の炸裂があった。
情報の本流は一瞬で終わり、かつて脳みそに残っていた記憶の残滓を蘇らせる。
「竜を殺す」
呟きは、肉体の代弁。己の体に刻み込まれたかつての経験が告げる明確な目的意識。
この体は、あの存在を殺すために鍛え上げられた機巧である。生まれてからの蓄積は全てそのために積み重ねられた研鑽に他ならず。
――その存在意義を果たせと、肉体が頭に命令している。
それに従い、体を動かす。弱っていたはずの各所が躍動し、嘘みたいな速さで雪原を駆け抜ける。
目指すその先は、あの場所。少女が竜種に襲われる確定された未来が待つ広場に面した崖の端だ。見ればその場所には広場に対してわずかに切り出した岩がある。
円の中心に通路としての直線を通した広場において、それは集団の進入路に対して出口の位置に当たる位置関係。
立花八雲は思う。
(本当にそれで、救えるのか)
己の意識には明確なビジョンは存在しない。こと、ここにいたって尚、自分の認識の上で竜種を倒すという手段は明確に描かれていないのだ。しかし、肉体はそれに対して反逆を示す。
彼らは意識に対して倒せと告げる。あの竜ごときは倒せると、その性能を叫び続けている。
感覚としては反射運動の連続に近い。気が付いたら体が勝手に動いていたというそれが、今はこの身の全てを支配している。
体は動作はそれ自体が勝手に思考を行い、動作の連続を頭に向かって命令し続けている。脊髄から送られてくる電気信号はもはや双方向性を持って己の全てを掌握しているのだ。
だから今、動いているこの最中ですら立花八雲の中に走っているという認識以上は存在しない。この先にどのような行動をするのかすら、頭蓋の中に閉じ込められた意識にとって思い描くことを許されていない。
(――信じよう)
記憶ではなく己の肉体に宿る経験の全てを信じようと。意識は肉体に対して独立行動の許可を与えた。竜に対する知識において、脳よりも体の方が勝っている。
その体が竜を倒す手段はあると告げているのだ。
ならば何を疑う必要があろうか。
もとより、あれを倒す手段など思いつきもしなかった頭だ。肉体を盾にする以外に思いつかなかったポンコツよりも、吹き出る血潮を気にせず、全力の疾走を続ける過酷な現場《肉体》のほうが信用に足るというもの。
その判断に、体は声にならない喜びを爆発させる。十全に性能を発揮することを許された体躯は脳みそに止められていた最後の無理だって解放された。
もはやそれは、疾走と言うよりも跳躍に近い。地面とは水平方向に己を射出し続けるその走法は冗談みたいに違和感がない。己の中の常識は、これが常ではないと告げているのに、体はこれがお前が持っていた力だと告げている。
命令する側とされる側が完全に入れ替わったこの状態。自分はこの時だけは、経験者に教えを請う初心者であろうと心に決めた。
ただひとつ、任せきりでは体裁が悪いと。
「竜を殺す」
肉体に対して意志を告げる。
「――神堕ろしを始めよう」
立花八雲が目的の場所にたどり着いたその瞬間、広場に対して質量による爆撃が炸裂する。