Birth(2)
【??? 雪原】
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――――――――――――――――雪が降っていた。
立花八雲が目を覚ましたとき、まず目に入ったのは雪の降る空だった。
自分が雪原の上に仰向けの姿で倒れていると自覚するには、酷く時間がいった。
視界の一面はスノードームで、分厚い雲に覆われた空からはゆっくりじっくり、時間を忘れた静かな遅さで白いものが落ちてくる。
「――ぃ」
ゆき、と発声しようとしたが、己の喉がそれを拒んだ。粘ついた感触。こみ上げてくる鉄さびの匂い。風景に合わせて自分の喉まで固まってしまったかのような、そんな錯覚。
「ごほっごほっ――」
完全にひりついた喉の不快感に、思わず数度の咳と嘔吐きがはいった。
それの最後にべちゃりという音。見れば、真っ白な雪をキャンバスに鮮烈な絵の具がぶちまけられている。
汚してしまった、と言う罪悪感が無性にわき上がった。
せめて雪で覆い隠そうと、体を動かし、
「――ッ!」
途端、全身を激痛が襲った。体の各所が行動に対する拒否としての痙攣を返す。不意打ちの痛みは、骨の髄に染み入るほどだったが、動けば痛みが走るという覚悟のあとならば、歯を食いしばる程度でどうにか起きられた。
半身を起こして、気が付いた。全身はくまなく傷だらけで、着ている分厚い衣服には所々の切れ目が入っている。それを視て、まるで絵の具のチューブのようだと思ったのは、先ほどからの連想だろう。見れば、自分の倒れた周囲の雪は、赤くないところの方が珍しい。
これではさっきの罪悪感も、今更にすぎて滑稽だ。汚し尽くした後、最後の最後に罪悪感を抱くというのは展開としてありふれすぎで、弁解すらも許されそうにない。心の片隅にあった、すまないという感情は、しばらく蓋をしたままになりそうだ。
「――――」
さて、と立花八雲は痛みが走らない程度に首を回して、あたりを見渡した。思考は非常にニュートラルで、ようやくエンジンに熱が入った段階だ。視神経を通して思考《運転手》に伝わる光景は、しかし、一瞬でその熱を奪い取る。
「――何処だ」
周囲は一面が白。雪がちらつき、自分が雪原に倒れていた事から十二分に予想は出来ていてしかるべきだったが、全くの見覚えがない光景だ。如何に思考が胡乱だったかよく判ろうというものだが、これが普通の寝ぼけ頭か失血による思考力の低下なのか、いまいちその判別が付かない。それというのも、体の各所は鈍い痛みを返すものの、余りの寒さに感覚が麻痺しかけているからだ。
「ない、な」
しばらくキョロキョロとしてから呟いたのは目印がないという事実。さっぱりきれいに、どこまでも。視力の及ぶ限りにおいて、セカイは一面が手抜きをされたフィールドマップ。乱雑に貼り付けられた雪原は、何処だという以前に、方向感覚の一切すらも奪い去る。
思考も含めての小休止。
あまりの光景せいで呆気にとられて出来た間隙に、当たり前と言えば当たり前の疑問がするっと滑り込んだのはこの時だ。
「そういえば、」
――どうして、この場所に俺は居るのか。
右に首を傾げるも何も思い出せない。左に首を傾げるも何かが閃き落ちるわけもなく。先ほどは、何も思わなかったが、どうして自分が傷ついているのかすらわからない。
「自分は何者か」
立花八雲。性別は男。職業は不明。年齢はよく思い出せない。一般常識やその他の知識は単語単位ならば割合楽に思い出せる。思考を言語化して行えるというのは、言葉自体は忘れていないという事に他ならない。
その他、単語以外でも幾つかの言語化しにくい情報は感覚として頭の裏にこびりついているようだった。思考の裏側には、これは普通、これは普通ではないという基準がある。そのボーダーが失われていたならば、きっとこの思考すらも覚束ない。
ただし、それらを何処で覚えたかという連想は閃かなった。関係づけされるべき事柄が、まるごとどこかに落ちてしまったかのよう。自分でも感心するほどの徹底ぶりで、自分の過去に関する記憶は、どうしようもなく思い出せない。
つまり、これは、物語上では手垢の付くほどによく見かけるくせに現実では全くの都市伝説と化した――
「――記憶喪失」
という状況なのだろうか。過去がないので論拠となる記憶に乏しいが、感覚としてはそういうことになっている。かつてはピアノを弾くこと以外は全部失ったという詐欺師が居たらしいと、辛うじて残ってる一般常識は告げているけど、自分の場合はこの状況自体が何かに騙されているかのよう。余りの突拍子のなさに実感の一切が追いついてこない。
そもそも、自分の中には"これまで”が存在しない。
自分にとっての記憶とは、記憶の喪失を自覚した今から始まったようなもので、なるほど、言い換えればこれは最初からある程度の学習がそのままインプットされた赤子に等しい。今から始まったのならば、立花八雲という人生に今までがあったにしろ、無かったにしろ、この瞬間に生まれ落ちたのだけは確かなようだ。ただし、余りの難産に死に体だが。
雪はますます降り積もっていた。体はますます冷える一方。
感覚はますます失われていて、このままではますます死にそうだった。
”ます”のインフレーションで鱒を連想できたのは、記憶の確認に役立ったが、試しに雪の上に漢字を書いたところで状況の打破にはならない。
何か他に、役立つものはと、記憶を探れば、ふと、思い出される雪山遭難における危機対処項目。曰く、目印のない場所でむやみに動けば自分が何処にいるかを完全に見失い、さらにどうしようもなく遭難する可能性が高くなるでしょうとのこと。
取るべき選択はその場を動くな。救助を信じて持久戦あるのみ。そんな戦国武将も斯くあるべきかという籠城戦の心得はしかし、援軍の頼みがなければ籠城してても意味はないという別の教えが否定した。
ではさて、どうするべきかと自問する。記憶が胡乱なままに考え得る選択肢は、どうにも心細く思えてならない。この場合、致命的なのはここに立花八雲が居ると言う事を知っているだろう他人を誰一人として思い出せないことだ。
そもそもにして、誰一人――両親肉親友人恋人その他にいたる一切の人間関係を自分は思い出せない。好感度ランキング上位の人物たちですら思い出せないのだから、ランク外など推して知るべし。幕下の力士まで覚えているのは、よほどの相撲マニアくらいの物で、どうにも立花八雲という人物にとって交友関係とはそれほど熱意の対象ではなかったようだ。
ならば取り得る選択肢は消去法的にただひとつ。
動かないのが駄目ならば、瀕死の体にむち打ち動く。それ以外に取りようがない。
立ち上がれるか、とは問わなかった。体の節々にある感覚はその一切が沈黙していて、当てにはならない。怪我の具合すらはかれないのは、ちょっとだけ不安だったが、二つに一つの状況ならば、例え少しくらい致命的な欠陥があっても、誤魔化し誤魔化しやるしかないなと、無関心じみた鈍感さで多少の勇気を補った。
立ち上がるにはそれで十分。しかし、両手を地面につき、力を入れたところで、右手に触れる堅い感触が、始まろうとした動作を止めた。
首をかしげつつ雪をまさぐれば、降り積もったその下から、
「――刀」
それも見事な拵えの業物が一本。
長さは鞘から計るに刀身三尺余り。柄は特別に長く一尺ほどもあろうか。
柄頭の付近が折れ曲がっているのは刀を振り下ろす際の工夫だろう。扱いに癖は出るが、折れ曲がった部分が片手で振った際に滑り止めの役割を果たす。
それを利用し、手の内でわざと滑らしながら振り下ろせば、相手の目測を誤らせる工夫となる。何にしろ、この刀は美術目的の工芸品ではなく実戦目的の実用品に他ならない。
鞘に隠れた刃には幾筋かの痕が残る。かつて、この方なの持ち主が雷を切った際に付いたとされるその独特の痕が残る刃文はこの刀の美しさを損なう物ではなく、寧ろ人知ならざる美しさすら見る物に感じさせる。反りは強く見事な太刀拵えである。
銘を『千鳥』。その由来は――
――その由来は、何だったか。
そこまで思考してはたと我に返った。刀を手に取った瞬間、膨大な情報が流れ込んでくるような錯覚が自分を襲った。冷静に鑑みれば、それは記憶に他ならない。失われた記憶。喪失された己の足跡。その一端が、刀という端末を通して己に流れ込んできた。
錯覚というのは流れ込んできたわけではなく、元々あった記憶が鮮明となっただけだから。自分が今まで何をしていたのかは、全く思い出せないけれど、刀を扱っていた事だけはどうにも確かだ。それだけの知識が、己の中には眠っている。
由来が思い出せないのは、それがより深い自分の過去に繋がっているからなのだろう。刀を扱っていたという体に染みついた知識は思い出せても、自らの根源に繋がる部分は器用にも隠されたままだ。
どうにもうまくできている。それが、記憶を失った原因がうまくできているのか、人間の記憶分野の構造がそういう風に出来ているのか。全く判断のしようがないけれど、ここまで綺麗な線分けがあるなら、そういうものかと納得もしてしまう。
なんにしろ。自分はどうにも、この刀と繋がりがあるらしい。なら、手放しておくのはもったいないとそれを手に、今度こそ立ち上がる。
動作は一瞬。痛みに多少のぎこちなさはあったけれども、両足はしっかりと雪原を踏みしめた。
右手に刀を持ちながら体の各所を確かめる。実際に動かしてみれば、思った以上に体は動く。
自分の周囲には、少しばかりぞっとするほどの、鮮烈な色彩がぶちまけられているけれど、それだけ長い間、この場所に倒れていたのだろうから仕方がないと、強引に自分に言い聞かせて心を落ち着かせた。
「さて、何処に行こう――か」
全周囲に一切の差異はない。等しく何処までも雪景色一色。歩いて、歩いたその先に正解か間違えかという差はあるだろうけど、今この場において、全ての選択は等価値だ。純粋に、天運次第というギャンブルなこの状況は、空っぽの自分には丁度良さそうだった。
そこで、気ままに足の向くまま、歩けるところまで歩こうとしたところで立花八雲はひとつの音を耳にした。
――――ォォオン
重厚なバスサウンド。腹の底から振るわせてくるその音は、もはや振動となって到達した。その音が三発。少し遅れてもう一発。合計四発の重低音は、控えめに言って爆発音だ。控えなければ空爆音。実際に耳にしたかは判らないが、知識はそれくらいのとんでもなさを己に伝える。
「――――。」
暫くの思考的沈黙。だが今度の判断は一瞬で決まった。
「――行こう」
音がすると言う事は、すなわち何かしらの現象が起きているという事。それがとんでもなければ、とんでもないほど、そこにはそれを引き起こすだけの何かがいる筈。
たいていの場合、それは自然か、そうでなければ人間の仕業だ。
元々、指標となる物が一切ないこの状況。野次馬根性だろうと、なんだろうと、指標が出来たら行くしかあるまい。
音は間断なく続いている。
この音が一体、どんな未来を自分に与えるのか。
この選択がどのような意味を持つのか。
立花八雲という名しか持たない己には一切の想像も出来ないが、不思議と予感だけはしっかりあった。
――これは意味のある選択だ
と。
その意味が、どのような物なのか。
それを知りに行こうと、
立花八雲は雪原に一歩を踏み出した。