Drahenstein(13)
気が付いたその時には顔面にめり込む靴の感触があった。
細剣の投擲をブラフにしての本命――細剣と同じ軌道を描く右足による跳び蹴り。
額を痛打したそれは、頭蓋を振動させ格納された脳を激しく揺らす。
「――――」
意識の断絶。
こちらを足場に天高く跳躍するルスティカーナが奇妙なまでにスローモーションに見える。
意識の断絶。
姿勢は衝撃に崩れ、倒れ伏そうとしている。上空、ルスティカーナは弾かれた細剣を掴み取り、こちらへの降下を始めた。
断絶。
細切れに映し出される映像に対して思考は平静を保つ。
このままではやられるな、と冷静な判断を返す己は、その次のステップを求める。
断絶。
つまり、如何にしてこの状況を打破するのか。
迎撃――不可能。姿勢の崩れたこの状況では、相手の全体重と加速が乗る一撃を相殺する迎撃は放てない。
回避――不可能。体勢の崩れたこの状態では、まともな回避運動は取れず、ルスティカーナの一撃に反応は出来ない。
防御――不可能。威勢の崩れたこの切羽では、もはやそのような余力は何処にも無い。
故に、不可能。
状況の打破を可能とする能力が、今の己には致命的に欠けている。
断絶。
判断は下り、目の前には振りかぶられたルスティカーナの剣が迫りつつある。
剣戟の軌道は過たず首筋を狙うもの。
必中を以て放たれたそれは、間違いなくこちらの首に直撃し、微かに残るこの意識すらも刈り取っていくだろう。
(最早、どうしようもない)
抵抗を諦め、全身の力を抜く。
だが、辛うじて繋ぎ止められた意識を手放し、緩やかに思考を放棄し始めたその時、視界の端に少女の影を捉えた――倒れつつ世界の中で、建物の上にこちらを見つめるノルンの姿を。
口元や細められた瞳も、胸元で結ばれた両手ですらも強ばっているように見えるのはなぜか。
(ああいった表情を浮かべるときと言うのは――)
なんだっただろうか。
思い出そうにも記憶の蓄積は無く、該当する映像は失われている。
だが、微かに――ノイズ交じりに――何か――頭に引っかかるものが――ある。
こちらを見つめる黒髪の少女/叫び声/背丈はノルンと同程度/切なげに細められた瞳/叫び声/血に濡れた着物/倒れ伏している自分/周囲は森/一面が血の海と化した大地/叫び声/突き刺さる刀/暗雲/降り出した雨/刀に伸ばされる手/人が這いずる音/叫び声/追撃/回る世界/見上げる天/叫び声/叫び声/叫び声
――目が覚めた。
脳裏を一瞬だけ、膨大な情報が通り過ぎていった感触があった。明確には一切を思い出せないが、違和感だけが痛烈に残っている。
そのおかげか、ノルンが浮かべている表情の正体が今の自分にはよく判る。
(あれは見たくもない光景を前にした人間が、それでも瞳に結果を焼き付けようとしたときに浮かべるものだ)
懸命に、顔をそらしそうになる己を律し、身体を強ばらせてでもまっすぐに瞳を向け続けた人間が、ああいった表情を浮かべるのだ。
その理由には、様々あるが、今この場合に於いては、
(間違いなく、負けようとする俺の姿に対して、せめて最後まで目をそらさずにいようという気概だろうな)
精一杯戦っているものに対する、礼儀とも言える姿勢だ。
同時に、その胸中にあるのは残念であり、期待の末路だ。望んだ光景が得られなかったからこその拒否反応でそれに対する強ばりに他ならない。
(要するに、今の自分は期待外れだと言う事だろう)
出来れば勝って欲しい、そうで無くとも善戦して欲しい。それだけの期待に応える力が貴方には無かったと、あの表情に現実を突きつけられている。
悔しくもあり、情けなくもあり、彼女の期待に応えられなかった無力感が胸中に去来する。
(せめてもの救いは、これが模擬戦だと言う事か――)
ルスティカーナの一撃が首筋に叩き込まれる。骨を折るような一撃では無く、手加減のされた、綺麗な意識だけを刈り取るものだ。
痛撃によって今度こそ完全に意識を失いながら、その寸前に八雲は、思った。
(もし、次の機会があるのだとすれば、あのような表情を浮かばせはしまい)
一撃が奔った――。
◆
「終わったな」
アーデルハイトの呟きに、しかし、応えずノルンはフィールドに倒れ伏す八雲を見つめていた。
(最後に目が合いましたね)
ルスティカーナによる一撃が加えられる直前のことだ。動きの中でのことなので、ノルンには自信が持てなかったが、一瞬だけ、彼がこちらを見つめた気がした。
彼を見つめる視線と、彼がこちらを仰ぎ見たそれがぶつかり合った気がしたのだ。
その時に、一瞬だけ彼が浮かべた表情。
「あれは――」
「ん?」
「……いえ、なんでもありません」
フィールドからそれなりに離れている。自分は視力も良いわけではなく、動体視力に優れているわけでもない。故に、ここから人の表情の一つ一つをつぶさに見分けられるわけもなく、
(きっと気のせいでしょう)
と、自分の中で自己完結するにとどめた。
「そろそろ城に戻るか。次からは、彼に対するリリィからの講義の時間になるだろうし、見ていたとしても仕方がない」
「そうですね」
告げながら建物内へと戻っていくアーデルハイトにノルンも続いた。バルコニーの扉をくぐれば、暖かい空気に満たされた室内だ。
寒さに凍えていた体が、暖かさに弛緩するのを感じる。階下へ続く階段へと進みながら、ノルンの脳裏には最後に八雲が浮かべた表情がこびりついて離れなかった。
(……悔しそうで、哀しそうで)
こちらの期待に応えられないという悔恨の表情。だが、その前に、
(……どこか、今にも泣き出しそうな顔をしていました)
見間違えか、見間違えではないのか。無かったとしたら一体、どういった意味をもった表情だったのか。
(……やはり、考えても仕方の無いことですね)
今、己の中で答えを出しても仕方の無いことだと再度結論し、ノルンはアーデルハイトの背中を追いかけてこの場をあとにした。
◆
目が醒めたとき、最初に瞳に飛び込んできたのは青空に幾何学模様の光が奔る空だった。自分の中の常識にあるそれよりも色濃い青には星の輝きも見て取れる。
「……目が醒めた?」
降りかかるようにして声と視界を覆うようにのぞき込む顔が来た。桃色の髪に彩られた無表情。ルスティカーナだ。
近い距離で、視線と視線がまっすぐに絡み合う。こちらの瞳の奥をのぞき込むルスティカーナのそれは、金色の虹彩を持っている。
「ん……瞳も揺らいでないし、大丈夫そう」
言いながらルスティカーナが体を起こす動作に併せて、頭の後ろに身じろぎの感触が伝わる。
(膝枕、されていたのか……)
頭を軽く動かして、周囲を確認すれば場所は練習場脇のベンチだった。どうにも気を失った自分は、ここに運ばれ目が醒めるまで膝枕で介抱されていたという事らしい。
「……具合が悪いなら、もう少しこのままにしているけど」
「いや……大丈夫だ」
告げながら、体を起こすと額から布が落ちた。拾えば、それがハンカチだと分かる。軽く湿っているのは濡らされているからだろうが、周囲を見渡すまでもなくここいら一帯は雪景色が広がっている。
額に手をやれば凍り付いたように冷たい感触の肌があった。
(……純粋な好意なのだろうか)
それとも、嫌がらせの意味も少なからず含まれているのか。なんにしろ、若干以上の寒気を感じた。
「これは」
「ん」
視線で尋ねるとルスティカーナはこちらに右手を差し出してきた。どうにも彼女のものらしい。
ハンカチを手渡すと、彼女はそれを開いてから丁寧にたたみ直し始めた。先ほどまで、明らかになっていなかったハンカチの模様が目に入る。
(あれは……英雄と少女と竜、か)
多分に象徴化された絵である。それ故に、大多数は推測に頼るしかないのだが、どことなく既視感を覚えるフォルムの為か、すんなりと発想が頭に浮かんだ。
何処で見たものか、と考え、すぐさま答えにたどり着く。
(そうか、謁見の間のステンドグラスだ)
あそこにあった絵もまた、英雄と少女と竜を描いたものだった。
(何か繋がりがあるのかも知れないな)
思いながら、ほぼ確信に近い自信が心中にはある。ただ、それがどのような意味を持つのかという話になると、推測はとたん、曖昧になっていくのだが。
(おそらくは、以前話して貰った異邦人のエピソードに絡んでいるとは思うのだが)
今度、しっかりとその辺りを話して貰った方が良いのかも知れない。
そうこう考えている間に、ルスティカーナはハンカチをたたみ終えるとズボンのポケットへとしまい込んだ。
「体調に異常が無いなら、続きをする」
「続き?」
問いかけてから、言葉の意味に思い至る。
「模擬戦の、か」
ルスティカーナはその言葉にこくりと頷きを見せると、建物の方へと足を向けた。どうするつもりなのかと、視線で追いかければ、入れ替わる形で向こうから歩いてくる人影がある。
白に近い、薄緑の色彩を髪に宿す、ルスティカーナと似た造形の少女。
「ふふふ。目が醒めましたのね」
重畳ですわ、といいながら現れたのはリリベッドだ。
彼女はそのまま近づいてくると、ベンチに座ったままのこちらを前に両足を肩幅に開いて立ち止まった。
地面を力強く踏みつける動作。
それと共に、左手とその人差し指をこちらに突き出すと、告げた。
「――ふふふ。これから、貴方に魔術というものを教えて差し上げますわ!」
その表情に浮かぶのは満面の笑み――形容として、それに嗜虐的という単語が付く。
「覚悟して頂きますわよ?」
言葉に、静かに頷きを返す。
(自分は、ルスティカーナに負けた)
未知を前に、為す術もなく。竜を倒すだけのポテンシャルがこの体にはあるというのに、それを発揮する術を思い出すこともなく。
気を失う寸前に、視界に捉えたノルンの表情が脳裏に浮かび上がる。
(力を、手に入れなければならない)
あるいは、手に入れ直すというのが正しいのか、どちらにしろ、それは彼女を護っていく上で絶対に必要なことだ。すなわち、この世界で生きていくために必須と言う事でもある。
(だから、この世界についてを知っていこう)
事細やかに、彼女を護る術とこの世界で生きる術の両方を手に入れるために。
そのためにまず、リリベッドに魔術についてを教わる。
蠱惑的で、挑戦的な笑みを浮かべる少女を前に立花八雲はそのための覚悟を決めた。