Drahenstein(12)
眼前、ルスティカーナが瞳を閉じ、集中力を高めるのを見て八雲は弾んでいた呼吸を一息で飲み干した。
呼気を塞ぎ、吸気を蓄え力を練る。
あの、理路を平然と越えてくる速度に対抗するためには、間違えても息を吐き出し力の抜けたタイミングに合わせられるわけにはいかない。
ルスティカーナが瞳を開く。瞬間、彼女の周囲に風が舞い上がった。
フィールドの地面は除雪がされて雪はほとんど積もってない。
あるのは、僅かばかりに残され、あるいは除雪後に降り積もった柔らかな粉雪だ。
それらは風に舞い上げられると、ルスティカーナの四方を巡る彩りとなる。
雪風の最中に立つ彼女の二つに結われた長い髪は、今や垂れ下がること無く、地面に対して水平だ。
(これほどの威圧感があるとは)
もはや神々しいまでの存在感を少女はその場で発している。
魔術・魔法の類を見たこともない自分だからこそ、そう感じるのかと八雲は疑問し、首を振って否定した。
(それは違う)
魔術の全てが、魔法の全てがこれほどまでに完成された美しさを宿すはずがない。
(あるとすれば、ルスティカーナという少女が予想以上に規格外の存在だと言う事だ)
彼女についての情報もまた、自分の中にはほとんど無い。
謁見の間で出会い、彼女が自分を守護者に推した。
その時の言葉と、表情が自分の知る情報の全てだ。
アーデルハイトの近くに居り、ノルンと親しげな様子が微かに見受けられる。
それから察することは出来たとしても確証には至らない。
だから、模擬戦をすることになった時もそういう心得があるのだと、推測するしか無かったのだが――心得などと言う、生やさしいものでは無かったと、そう言う話だ。
(彼女は間違いなく、この国でも有数の使い手だろう)
それが魔術か、剣術か。その双方なのかは分からない。
そんな達人が、自分の相手を務める模擬戦。
その意味は、ただ単純に、自分の実力を測るためではないのだろう。
(試されているな)
と八雲は感じた。
実力以上に、神秘全般に対する対応の仕方そのものを。
敵わぬ相手を前にどのような判断を下すのかという、人間性そのものを。
何かを護ろうとするとき、必然、どうしようもない状況というものは訪れる得るものだ。
誰かを弑しようとする相手は、こちらを窮地に追い込もうとする。追い込んでから、殺そうとする。
その状況で、一体、護衛者はどのような動きをするものか。
無論、ルスティカーナを苦も無く倒すような使い手であれば心配など無用のものという腹づもりもあったのだろう。
(自分には、竜を倒し、ノルンを救ったという評価がある)
その事実が、果たしてどれ程一人歩きしているのかは分からない。
竜を殺した力が失われた今となっては、もしかしたら過大評価の原因となっているかも知れない。
自分にそのような力は無く、自分に期待されるような資格はない。
自分は、ルスティカーナを前に苦も無く退けられるような使い手では断じて無く、今までも、凌ぐだけで精一杯。この場に立っているだけが出来ることの精々だった。
だがそれも、彼女の美しい術の前に、果たして出来るかどうか。
(だから、ここが分水嶺だ)
刀は今までと同じく地摺八双――身体の後ろに刀身を流した下段の構え。
(この一撃で見極められる)
それが果たしてどのような結果を生み出す事になろうとも、答えはきっと出てしまう。
(ならせめて、後悔がないように全力を尽くす)
薄桃色の、強い燐光を纏って、ルスティカーナが一歩を踏み出した。
◆
瞬間、立花八雲の瞳は有り得ないものを目にした。
「な――――」
それは、一歩を踏み出したルスティカーナが二歩目に宙を駆ける光景。
八雲の視界において弧を描くようにして舞い上がった少女は、桃色の燐光と共に神速を以て迫り来る。
「くっ――」
対して、瞬間の判断を八雲は行った。
しっかりと地面を踏みしめていた両足への重心を踵に移し、そのまま左足を後方に浮かせながら、右足で地面を蹴り出す。
必然、身体は後方に倒れながら、その動作を加速させを推進を得る。
その動作に、左方へ向けた腰からの捻りこみを合わせれば、自身の右方下段にあった刀はその動きに巻き込まれる。
「――ぁぁあ!」
叫びと共に、刀を振った。前進の回転を載せた一撃が、宙を駆けるルスティカーナの軌道上に差し出される。
激突。振るわれた剣戟に、合わせられた刀身が金属音と火花を上げる。
一瞬の交錯の後、ルスティカーナは迫った勢いのまま後方に流れ、
(だが、まだ終わりじゃない――)
半ば以上に倒れていた身体を、後方に流していた左足で支えると、膝を曲げつつ強引に立て直す。
そのまま、真後ろを向いた身体に合わせ、顔を正面にへと上げれば、鋭角を描き、旋回するルスティカーナの二撃目が目に入る。
彼女は旋回を入れながら、身体を捻りこみ、その右手に担った細剣を逆手に持った。
肩の高さまで上げられたその姿勢から予想される一撃は、
(――投擲ッ!)
思考と同時、神速の飛翔によって加速された細剣が彼女の手より発射された。
「――ッ!」
対して、身体は強引な捻り上げからの回転切りに崩れきった体勢をさらけ出している。
必然、返す刀は間に合わず頭部をめがけて飛翔する剣をかわすより他が無い。
(――だが、その後に待つのは崩れた体勢を、更に崩した後の転倒だ)
これ以上姿勢が崩れると、今度こそ練習場に倒れるだろう。
その場合、果たしてこちらを見逃すだろうか。
(素手であっても十分にこちらを仕留めに来るかも知れない)
であるならば、ここで倒れるわけにはいかない。
倒れられない以上、この細剣をなんとしてでも弾かねばならず、それを判断として一つの行動を行った。
左手を刀の柄から外し、左に傾いでいる状態で右手を大きく外へ振るう。
可動域が解放されたことにより、身体の右方に対し自由となった刀が可能としたのは一つの結果だ。
柄頭による飛翔する細剣に対する迎撃。
「――――」
最早、目前へと迫った細剣に対してそれを実行した。
甲高い金属音と共にかち上げられるルスティカーナの細剣。
瞳だけでそれを追えば、空高く舞い上がる輝きが見える。
(弾いた――)
だが、視線を外した一瞬、ルスティカーナへと戻された瞬間にそれは来た。
「――迂闊」
少女の呟きと、細剣と共に放たれた第二の攻撃。
ルスティカーナ自身による神速の跳び蹴りが、八雲の顔面に叩き込まれた。
◆
「うわ……ぁ」
痛そうという言葉すら生ぬるい。
視線で追うことすら難しい速度で叩き込まれた跳び蹴りが、八雲の顔面に見舞われたのにノルンが口に出来たのは言葉にならない呟きだけだ。
「むち打ちは必至だな」
と、隣に佇むアーデルハイトはどこか楽しげな声音で口にする。
言われ、確かにとノルンも思った。あれだけの速度で、避けようのない一撃を顔面に受けたのならば、首に掛かった負荷は相当のものだろう。
無論、折れないように調整はしてあると思うが、
(どう考えても、数日は首をまともに曲げられそうにありませんね)
それくらいの一撃に間違いあるまい。
「しかし、ルスティカーナも流石はノルネア幻想国に名高い妖精騎士だけはある」
「確かに、そうですね。あれ程の魔術運用精度と、速度はそう簡単には見られません」
ノルンの視線の先、跳び蹴りを八雲に見舞ったルスティカーナはあの速度のまま、上空高くに飛び上がっている。
彼女の周囲を舞うのは、髪の色よりやや薄い、桃色の燐光――マナの光だ。
「ルスティカーナは、肉体強化系の魔術運用者としては非凡だ。マナの運用力にしろ、凡百のものにあれ程の芸当は出来まい――血統や種族のこともあるが、間違いなく彼女の才能だな」
「そう、ですね」
頷きを返しつつ、思うのは彼女が身に纏う、その光の美しさだ。
マナの光は魔術を運用する際、その術者の周囲に余波として現れるものである。
その色は、個々人によって千差万別、様々であり、特に魔力の強いものは身体の一部に特徴として現れる。
(ルスティやリリィは髪の毛に特に顕著ですね)
髪というのは特にマナの導線として優秀だとされている。
そのためか、髪の色が自身の魔術光と同じ色合いに染まるのは此の世界では良くあることだ。
だから両親とは髪の色がまったく違うという状況が珍しくない。
それが例え双子の姉妹であったとしても、別人である以上魔力光が同じ色になるとは限らないのだ。
(偶にそれが問題で、誰の子だという騒動に繋がったり社会問題化したりもしますが)
まぁそれは、魔術に対する一般と知識層との違いと言う事で仕方が無いかとも、ノルンは思う。
普段は息するように、この世界の人間であれば誰であれ、すくなからずの魔術は使える。
だが、魔力光やマナに関する知識というのは、地域や国、あるいは種族によって驚くほどに違うのだ。
マナに対する感能力の差によって魔力光に髪色が影響されない場合も多々ある。
黒髪というのは色が濃いためもあってか、一般には影響されにくい髪の色とされているし、それは一点に於いては確かな事実なのだが、
(しかし、絶対では無いんですよね)
そもそも、黒の魔力光だってあり得るのだから、元々黒髪かどうかと言う判断だって難しいのだ。
影響されてないから、黒髪。影響されているから、黒髪。どちらだって十分あり得る。
だから、この世界においては髪の色は個々人の特徴だ。
両親から受け継ぐ形質としてのそれではなく、それ以上に、その人の持つ魔術的才能を現す指針となりやすい。
その上で、美しい光を持つ人間は、その心も容姿も美しいものとして尊敬される。
貴族はよりマナの美しい光を求め、そういった女性や男性を集めて、婚姻を繰り返していく。
決して受け継がれることの無いその輝きは、しかし、集められた尊敬の数だけ次世代に、心のありようとして継承されてくこととなる。
(その、最たる例がルスティやリリィの実家である賢明伯家)
別名を、魔術伯爵や賢人伯とも呼ばれる、世界きっての魔術の名門だ。
かつては独立した中立都市として名高かった学術都市ケラススを領地に持つ叡智の一族。
その末裔である、彼女の魔術光は桃色の淡い輝きで、今や眼下のフィールド一杯に光の華を咲かせている。
(誰もが、魔術の勢家として認め、敬う一族です)
だが、それだけではないとアーデルハイトは言っている。
彼女にあるのは、血統や種族。それももちろんあるだろうが、この輝きと、技の冴え。
その完成度に潜む美しさとも言うべき研鑽の煌めきは、間違いなく彼女個人の才能であると。
ノルンも、そのことに対して意見は無い。
彼女が獲得した、心の正しさについて疑う余地はもちろんないし、何より彼女を友人として慕ってもいる。
それ故に、獲得しえた強さだと承知しているし、鍛え上げられた才能の冴えだというのも分かっている。
分かっているが――
(ヤクモにも……)
それに匹敵するだけの強さが、あったのだ。
だが、彼はその強さを忘れ去ってしまっている。
力の全てを発揮する、その術を失ってしまっている。
故に、それを知るのは自分だけしかこの場に居ない。
竜を倒し、自分を救った強さが誰に知られることも無く、この模擬戦は終わろうとしている。
「そろそろだな。とどめが来るぞ」
アーデルハイトの言葉に、思考していた意識を慌ててフィールドへと戻す。
舞い上がったルスティカーナは緩やかな弧を描いて、上空を旋回すると、弾かれ、落下してきた細剣をその手に掴んだ。
そのまま、一瞬だけ速度を落としての宙返り。
頭を真下に、視線を八雲に向けるや、天を蹴るような速度での垂直落下を開始する。
それは、鮮やかなまでの急上昇と急降下。
必殺の一撃が、桃色の閃光となって奔るのをノルンは眺めた。
(これで、終わりですか……)
出来ればまだ終わって欲しくないという残念を、ノルンは思いながら。