Decline→Birth 第一稿版
こちらは第一稿です。
どちらで読んでも現段階では齟齬が生まれないと思います。
また、両方読む必要もありませんので、基本的には片方だけで十分です。
今後の展開次第では片方、削除を行うかも知れませんがご了承ください。
第零章
――雪が降っていたことにさえ気が付かないでいた。
時刻は夜。
立花八雲は人気のない路地裏に、壁を支えに立っていた。
平静は歓楽街から一歩入ったかしましさの後ろにある影といった趣の場所だが、表通りに明かりはあれど人気はない。
普段は出歩いているだろう人々は、いまこの時に限って部屋の中、建物の中に籠もりきりだ。
人が居ないのに不自然に明るい妖しげな夜。
左手は腹部に強く押し当てられている。
だが。
押さえきれない赤い血が、指の隙間から流れ落ちていた。
掌に感じられるどくん、どくんという脈動は心臓がポンプの役割を果たしているから。
一切の遅滞なく、ルーチンワークをこなす臓器はいまこの時も勤勉だ。
ただ唯一の欠点は、そのポンプが既に欠陥品で、巡るべき血管には致命的な穴が空いているということ。
せめて物語でよくあるように、口端から血でも吐けばそれらしいかも知れないが、生憎とその気配はない。自分は主人公としては役不足だ、といつかの誰かに文句の一つも言いたい気分だ。
血を吐く気配はない。ただ、その分だけ傷口の辺りに神経が集中していて、脳内麻薬で感覚なんてなくなっているはずの、麻痺しきった神経がじんわりとした熱を伝えている。その熱こそが、今の自分を生かしている生命そのものに違いあるまい。
雪降る空を見上げて思う。
どうしてこうなってしまったのか。
考えようにも、立花八雲にはそれを判断するために必要な記憶が最低限しか存在しない。
あるのは、この世界にやってきてからの記憶だけだ。それ以外の物は綺麗さっぱり遺失している。
消失ではない、と告げたのはノルンだったか。あの表情の薄い、他人に感心のなさそうな少女が俺が記憶を失っていると知って、妙に熱く語っていたのを良く覚えている。
遺失と消失の違いは、失われた物のあり方だと彼女は言った。遺失はどこかに落としてしまっただけで、物自体はどこかにあるのだと。完全に、その存在そのものが消えてしまう消失とはわけが違う。
多分に言葉遊びに過ぎないけれど、妙に納得のいく話だとあの時は思った。
そんな大事な物さえ簡単に、頭の中から零してしまえるのは妙に自分らしいと。
今は、記憶どころか命さえ指の隙間から零れ落とそうとしている。
どうしようもない落伍者だ。何のためにここにいるのか、そんなことさえ胡乱極まりない。
目的は、あったのだ。与えられたのだ。それだけは今でもしっかりと、胸の中心にある。
ノルンを守る。ただのそれだけ。借り物みたいな、居てもいいという理由付け。
アーデルハイトに与えられた数日間の日常は、過去をどこかにおいてきた自分にとってどうしようもなく輝いて見えたから……。
たとえ借り物だろうと、絶対になくしちゃいけない大切な物にいつの間にかなっていた。
そんな目的が、ついさっきまで、あったというのに……。
それもついになくしてしまった。うっかり者だとは思っていたけれど、ここまで致命的だとは我ながら驚くしかない。守るだけで良かったのに、それさえも出来なかった。
雪だけが音もなく降り続けている。この世界に来てから、随分と見慣れたものだ。
この分だと、雪は随分、つもるに違いない。流れ落ちているこの血の跡すらも、一晩経てば跡形もなくなる。
失せ物を探すには、少々辛いかも知れないな、とぼんやり思った。
それが大切な物ならば、尚更だ。早く動いて、早く探さなければ。
もし――まだ間に合うのであれば、早く。
自分には、アーデルハイトのような高潔さはないだろう、と思う。あの高貴なる熱量そのもの如き、気高くも苛烈に美しい少女のそれに、己の高潔は遠く及ばない。
ノルンのように背負う何かしらを持ち合わせているわけでもない。彼女が担う期待の総量はきっと世界そのものにだって劣りはしない。
ルスティとリリィの双子にだって、なにごとにも命を懸けるだけの熱量があった。そのための努力の一片を自分にも分けてもらえた。今だって本当に感謝している。
生きるという行為に対し真剣な人間はそう多くない。
誰だって漫然と生きている。努力している人間ですら一握りだというのに、その努力が必死に値するなんていう人物は、本当に奇跡みたいな存在だ。
誰にだって命は大事。何よりも大切で、何よりも尊い。だから消費なんて容易くしたくない。
大切な宝物は、誰にも奪われない場所にしまっておく。それが当然。正しい生き方、普通の生き方って言う物だ。
だが。
それでも。
命だけが、生きるという行為を激しく燃え上がらせる代償なのだ。
自分にはそれだけの覚悟があるか――?
命を努力の代償と捧げ、
それだけ大切な物をただ今という時間のためだけに消費する覚悟があるか――?
自問自答は即、行動に変わった。自由な右手が、空間に文字を書く。
これを教えてくれたのはあの双子だ。極々初歩的な発火魔術。本当なら精神の集中だけで十分だけど、慣れない自分には動作を伴った方が確実だろうと、簡単な身振り手振りを付け加えてくれた。
描かれた文字は"炎”の意。簡単な精神集中を以て、集約したマナは体内に取り込まれ、明確な想像を現実に"再現”する。為されたのは炎の魔術。右手の上に極高温の炎が燃え上がる。
だが所詮は生兵法。炎は想像の不安定さから、それ自体も弱々しい。すぐにも消えてしまいそうな、揺らぎを持っている。
もう一度の自問自答。自分には覚悟があるか。
「――守ると決めた」
――その誓いに、一切の曇りもないと。
右手の炎を左手の下、押さえられていた刺創へ叩き付けるようにぶち込んだ。
「ぁ――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――ッッ!」
悲鳴は声にならなかった。この程度が、断末魔になるのであれば降り積もる雪と共に消えてしまえと、見上げる空に強く思った。
肉の焼ける嫌な匂い。自分が焼ける音が体内から直接聞こえる。
耳の裏でじゅうじゅうと、音が廻る。どくん、どくんと、傷口は狂ったように脈打っている。
破損したポンプは、強引な止血に怒り狂ってる。体が行為者に反逆しているかのよう。勝手にくの字に折れ曲がって、まっすぐに立つことすら拒否している。
ずりずりと、支えにしていた壁をずり落ち、雪の積もり始めた地面へと座り込んだ。
見上げる空は、夜だというのに不思議と明るい。一面を覆う雲が、街の光に白んでいるのだ。
頭は胡乱で茫洋として。思考は体の反逆に逃げ惑ったのか、ほうほうの体で散りもばらばら、どこに何があるのかすらわからない。
さだまらない思考は、渦を巻くように始まりを目指した。
立花八雲が持っている記憶はこの世界に来てからの幾日がすべてだ。
この世界で目を覚ました最初の記憶。
立花八雲が致命的にしでかしてしまった、あの日の記憶だ。
◆
――ようこそ、この世界へ
告げる声音を聞いたあの日。
世界に立花八雲は再生した。
雪の降る日の出来事だ――。