Drahenstein ― 帰路 ―
『Drachenstein』
◆
森林の中に一軒の小屋がある。周囲に道らしい道は見えず、昇ったばかりの朝日に照らし出されたそれは、休憩所かあるいは臨時の避難所といったおもむきだ。
太い丸太で組み上げられたその小屋はログハウスだ。
屋根には一本の煙突があり、小さな三角形の覆いが穴を塞がないよう、四本の支柱で宙に浮くように備え付けてある。
煙突の中に雪が吹き込まないようにという工夫だろう。煙突からは微かな煙がたなびいていた。
小屋の前には幾つかの足跡があるが、薄い。刻まれてから幾ばくかの雪が降った痕跡があった。
周囲は木々から雪の落ちる音が響き渡るほどに静かだ。鳥たちの静かなさえずりと、朝日に溶け出した雪の雫が落ちる音がその沈黙を彩る。
と、その静寂を乱す隊列があった。
森のただ中を進むには軽装な出で立ちの一群だ。防寒着こそまとっているが、その下に着ている服装が見て取れるのは厚着をしていないからに他ならない。
ローブの下、集団が身につけている服装は大別して二つ。
メイド服と軽装の鎧。兵士と侍女の集団が森のただ中を駆けている。
彼らはやがて、小屋へとたどり着くと立ち止まった。
皆が皆、お互いの顔を見合わせ無言のうちに何かを示し合わせている。
暫時のち、彼らの中から一人の侍女が一歩前に歩み出た。
彼女は緊張した様子で扉に手をかけ、それを小屋の内側へと開いた。
◆
「――ノルン様ッ!」
小屋の扉がけたたましい音を立てて打ち開かれたのは、ノルンに包帯を交換して貰っている最中のことだった。
外の空気をしばらく吸って後、彼女は「そういえば、目が覚めたら包帯を交換するように言われてたんでしたっけ」と思い出したように呟いたのだ。
勧められるまま、ベッドの上に逆戻りした八雲は上着を脱ぎ彼女に背中を向ける形でその場に座った。
ノルンも替えの包帯を取り出すと八雲の背中に回り、ベッドに腰掛ける形で座った。
彼女が包帯を剥がすと、幾ばくか滲んだ血と塗り薬とが肌に張り付いてペリペリという音が鳴る。
それに、微かな痛みを感じながらされるがままに八雲は身を任せていた。
やがて、包帯が完全に剥がされ、上半身が裸になる。
「一度拭きますね」
と声を掛けてからノルンは、清潔な水に浸した布で八雲の肌を軽く清拭した。自然と力がこもり、ノルンの胸と八雲の背中がほど近くなる。
そこに室内へと闖入者が来た。
叫び声に近い呼び声に対して反射的に振り向く二人。対して、闖入者は室内を見渡すとすぐに八雲とノルンを見つけ出し、自然、視線がかち合う。
ベッドの上、上半身裸の男に寄り添う少女と、闖入者であるメイドが数秒、そのまま見つめ合った。
ノルンがやがてメイドから視線を離して八雲の方へと振り向く。
八雲はメイドへ視線をやっていたから顔の角度はそのままだ。自然と、ノルンは彼の横顔を至近距離から見つめることになる。
続いて、ノルンは自分が布ごしに触れている彼の背中を見下ろした。
初めて触れた異性の背中だった。城では夏場に食材等や資材を運び入れてくる運送の小間使いがその暑さと運動量から上半身裸で働いている姿を遠くからみることはあった。
けれども、こんな至近距離で異性の裸を見る機会などノルンにはそうそう無かった。
(というか、そういう場面になったら周囲の手でものすごい勢いで遠ざけられてましたからね)
割と純粋培養で育てられた自覚がノルンにはある。そんな自分が、そういえば今、異性の背中に触れている。
怪我人の背中を清拭するという名目があってのことだが、闖入者の呆然とした表情からは傍目にどう見えているかがよく察せられた。
それにより、名目にフィルタリングされていた実情がノルン自身にも冷静に把握された。
裸の男の背中に寄り添い、顔を触れあいそうなほどに近づけている構図。
八雲が首をかしげた。闖入者が誰なのかを把握してない、疑問の動きだ。
事情を知っていそうな知人、というと彼にとってはノルンしかその場にいない。
自然と彼は、ノルンの方を振り向こうと顔を動かし、八雲の顔を見ていたノルンと視線がかち合う。
「――め、メイクラヴ禁止ですぅぅっ!」
ノルンの顔が真っ赤に染まって、爆発寸前というところで闖入者の叫びが入った。
◆
「申し訳ありません、申し訳ありません」
衣服を着直した八雲の前で、闖入者――メイドはぺこぺこと頭を下げ続けている。
「いや」
しかし謝られている八雲からしたらなんと答えて良いのか、反応に困る場面だ。
傍目から事情も知らずに目撃されれば、確かに体裁の悪い場面だったのには違いない。寧ろ謝るべきは自分なのか、と一瞬脳裏によぎるがそれはそれで何だか致命的な気がする。
謝ると言う事は後ろめたいことがあると言うことだ。この場合で言う後ろめたいことというのは余り考えたくない。
「頭を上げてくれ」
言われてメイドは顔を上げた。闖入してのち、ノルンと八雲を引きはがしてから事情を察し、誤り倒しだった彼女の顔をまじまじと見るのはこれが初めてだ。
肩に掛かるほどの黒髪に黒瞳。
シャープな印象を与える切れ長の瞳と顔の輪郭線。
大きすぎると言うほどではないにしろ、女性にしては高身長な身体は背筋がまっすぐに引き延ばされていて、それだけで彼女という人格を物語っているような印象を与える。
シックな紺色のメイド服に身を包んだ少女と言うよりは女性といった年頃の、凜とした美しさをたたえた人物のように、八雲には思われた。
「アティ、謝るのも良いですがまずは」
ノルンからの促しが入り、アティと呼ばれたメイド服の女性は「あっ」と我を取り戻すと、両の手で衣服の裾を払った。
そして両の手を几帳面にそろえてのおじぎ。
「申し遅れました。私はノルン様の近侍をさせていただいております、フルヴィアティリスです。
呼びづらい名前ですので、気軽にアティとお呼びください。
以後、お見知りおきを」
近侍、ということはノルンの専属かそれに近しい世話役という事なのだろう。
(なるほど、小屋に入ってきたときの反応はそういうことか)
教育係的な面もあるだろう女性からしてみれば、世話をしている少女が裸の異性と触れあっている場面というのは神経を使うに違いない。
反応ももっともだな、と思いながら八雲は一歩前に出て右手を差し出した。
「立花八雲だ」
挨拶は名乗りだけにとどめた。よろしくと言って良いのかどうなのか、とても微妙な立場だからだ。
こちらからこれからもよろしく、と告げてしまっては何だか長居する気満々といった風で、どうも引け目を感じたのだ。
ならば簡潔にとどめよう、と少々無愛想かもしれないと思いつつも八雲はそれ以上は言葉を重ねなかった。
「ヤクモ……」
ヤクモが差し出した右手を握り返し、握手を交わしながらアティは告げられた名前を口の中で反芻している。
その余韻を確認しているようでいて、しかしその響きがどうにも名前としてしっくりこないのだろう。
しばらく考え込むようにしてから、何かに思い至りはっとした面持ちでノルンに視線を送る。
ノルンはその視線を受け止めると、黙って頷いた。
自身の思い至りと、ノルンからの肯定にアティは表情を変えながら、呆然といった様子で呟いた。
「異邦人……?」
視線は、握手を交わしている八雲の顔を見つめている。
彼女の瞳には、その視線を戸惑いの表情で受け止める八雲の姿が映り込んでいた。