Birth(8)
◆
竜の息吹からの回避運動は立体を以てして行われた。
八雲は大地を跳躍するとそのままの勢いで正面にある幹の側面に対して、更なる飛翔のための蹴りを叩き込んだ。
先ほどの再現ともいえる三角跳びは、しかし、林立する幹に対して連続で行われた。
幹から幹へ。木々の合間を八雲は立体に駆け巡る。
然してその背後より――来た。
マナの集約、その迸り。圧倒的な魔力量を以てして襲い来るのは灼熱の再現。
竜の業火が全てを焼き尽くさんと吐き出されたそれは、木々をなぎ倒し、燃え上がらせ、一瞬のうちに炭化させながら林の中を迸る。
触れれば人体など一瞬で溶ける。近づいただけでも衣服は燃え上がり、かすめただけで致死にいたる火傷は必至。
その絶望的業火の最中を、木々を盾に、目隠しに。己を隠蔽しながら、八雲は駆け抜ける。
木々が燃え上がるその一瞬前にそれを蹴り出し、業火が遅れた一瞬の合間を跳躍で逃れる。
(――死)
その一語が脳裏にこびりついて離れない。すぐ間近にそれはある。
足を滑らせれば終わり。丁度良い位置に幹が無いだけでも終わり。樹が予想以上に早く燃え上がっても終わり。それだけで死は己を捕らえる。
衣服が焦げ臭い。全身から流れ出る血が、凝固せずに蒸発寸前といった熱を帯びている。
ここはオーブンのただ中。戦場とは名ばかりの、竜による竜のための調理場。
叩き込まれれば、それで終わり。
あとは程よく焼き上がるまで、調理者はただそれを眺めている。
この状況になっただけで詰んでいる。
常ならば生物は常に生物的優位性の前に敵わない。
竜という絶対的捕食者を前に、人間という個は蹂躙されるのをただ待つのみ。
灼熱の調理場に於いてそれは絶対無二にして唯一の結果。
ただの人間に、この状況は変えられない。
(――だがそれでも)
肉体は告げる。竜は打倒しうる存在であると。
この状況を前にしても、肉体は一切の遅滞を意識に対して許しはしない。
諦めを知らない無言の支配者は、配下に休み無き労働を求め続けている。
肺が痛い。高温すぎる大気を吸い込み、肺が内側から焼けていく。
ひりつく肌。浮かぶ汗は先ほどから、雫を作る前に蒸発している。
口の中は空からで、喉は酸素よりも水分を求めて喘いでる。
高温と酸素不足。遅滞無き連続運動。
アタマはもうふらふらで、肉体に命令を出し続ける事すら覚束ない。
それでも。
(――竜を殺す)
そのための最後の一手を、肉体に求められるまま八雲《意識》は許可した。
幹を蹴り、樹上への跳躍を行えば眼下になぎ払いのブレスが通過していく。
空中で竜を見れば、いつの間にか地上に降り立っていた竜にはブレス後の隙がある。
焼き払われた林の大地。それを足場に、再度の疾走を八雲は再開した。
目指すは竜の巨体。
再度の撤退はもはやあり得ない。
◆
竜との接近戦に際して行われるのは、窮極的にはその巨体に如何に接近するかそれを拒むかというやりとりである。
竜は全力で挑戦者の接近を拒み、その身に攻撃を加えることすら許しはしない。対して、挑戦者は竜に対して巨体による致命の一撃をかいくぐって如何に必殺を以て仕留めるかを強いられる。
その点に於いて、先のやりとりは竜との接近戦とは異なる例外的なやりとりだったと言える。
竜は挑戦者に対して拒みを入れたが挑戦者は必殺の一撃ではなく、ただの打撃を加えたのだから。
振るわれる一撃一撃が必殺にして致命の竜に対して、距離を開けさせる打撃は通常であれば割に合わない。距離が空けばそれだけの疾走を必要とする。疾走の時間は攻撃の機会が無い。
一方的に狙い撃たれる致命の一撃を躱しての接近。
言うは易く行うは難し。
吹き飛ばしの打撃と、ブレスからの逃走。それによって空いた両者間の距離をまずは埋める。
右肩に担っていた刀を半円を描くようにして振り下ろせば負傷していた腕から血しぶきが飛ぶ。
失血量的にも、この挑戦あとに続く時間はありそうにない。
刀は、そのまま右後ろへ引き絞り、地摺り八双の構えへと切り替える。
体を前傾に倒し、跳躍に近い地を這うような疾走をしかし、まっすぐではなく木々を回り込むようなジグザグで行う。
眼前、竜はなぎ払いのブレスではなく単発の砲弾のような火球を口から打ち出してきた。
木々を隠れ蓑に、その照準をズラし続ける。
火球は木々をなぎ払っては大地への着弾と轟音を八雲の背後にまき散らす。
(――あと三歩)
火球が八雲に対して正面からまっすぐ飛び込んでくる。
反射の動き。もはや倒れる寸前まで身を倒しながら左前へ踏み出し、なおかつ体をバレルロールさせれば火球は八雲の衣服をかすめながらもギリギリ背後へ流れていく。
衣服が焼ける。その炎すら、背後に置き去りつつ着地。
(――あと二歩)
燃え上がった衣服の裾がちぎれ飛ぶ。竜の火球が背後で炸裂し爆風が巻き上がる。
衝撃で眼前の木が八雲の前に倒れる。
再度の踏み込みは木々の真下を如何に早く通り抜けるかという速度勝負。
踏み込みの回数は一度。全力の蹴り出しと前傾姿勢はしかし、木々をくぐり抜けるには間に合わない。
――足りない分を補うのは右下に下げていた刀の一撃。
切り上げられたその一刀は、木々の切断という結果を以て疾走の筋道を作り出す。
(――あと一歩ッ!)
眼前の竜と視線が絡み合う。
まだ挑むのかという竜の問いかけに、言葉なく視線のみで"応ッ”と答える。
切り上げた刀を右肩に担い直す。変形の蜻蛉。後の一歩は技の踏み込み。神楽のための一歩。
右足による強い踏み込みと、左足の制動に近い滑り込みに腰の運動による回転を加えれば、
(神楽・回迅――)
――しかしそれは竜も知悉している。二度の打撃は、竜にとって学習するには十分過ぎる。
竜はその回転の始まりを見るや、即座に迎撃ではなく先制を選択した。
剣術で言う先の先。つまりは動作の始まりに対する攻撃による拒絶。
竜はそれを爪による攻撃でもなく、尾による回転でもなく第三の手段で行った。
――すなわち、牙。
長大な首による絶対的リーチを利用した巨大な顎による噛みつき。
人体丸ごとを飲み込んでなお余り有るその一撃が回転を始めた八雲に襲い来る。
だが。
二度の神楽・回迅による打撃の一撃。それによる行動の予測。その認識固定。
動作の始動に対する迎撃を、しかし、
(――あと零歩ッ!)
――立花八雲も待ち構えていた。
伸び来る顎に対して選択したのは回転の停止ではなく続行。加える動作はスライドではなくステップによる強引な前方への踏みだし。
伸び上がった姿勢は、自然と体を低く長く。回転は竜の首を逆巻くように。
右肩に担った刀を竜喉元に当てて奔らせれば、一撃に対する受け流しは完成する。
然して竜の顎は背後へ、八雲は竜の体へと到達する。
回転を殺し、制止。
両足を肩幅に。刀を垂直に構え胸元へ寄せると、頭上へと掲げる。
それは神楽全体の始動を告げる雪立の構え。その変則系。
掲げた刀を左腰の鞘へと納刀すれば、一撃から戻った竜と視線があう。
だから宣言した。
「――これより、竜殺しの神楽を始める」
――神楽の一歩を立花八雲は踏み出した。