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なぜか名字を思い出すことができないのだが、小学五年生の頃、自然教室で同じ部屋になった班の中に、みゆきという名前の、極端に背の低い女の子がいた。
穂花はみゆきとは小学五年生の時に初めて同じクラスになった。容姿だけでなく、静かで控えめなところまで似ていた二人は、すぐに打ち解け、互いに親友と思えるまでの仲になったが、穂花にとっては忘れたいくらいショックだったその事件が起きたのは、自然教室が中盤に差しかかった二日目の晩のことだった。
『ほのちゃん、私先に行くよ』
『あ、ちょっと待って。私もすぐに行くから』
『もう、あんまり遅いとおいてっちゃうよ』
『終わった終わった。すぐ行くから待って』
夕食後、食器を片づけてみゆきと一緒に自室に戻ろうとした穂花だったが……。
『松下の皿きったねえ。女とは思えねぇよ』
『え……?あれ?』
体格も顔もゴリラに似た男子生徒にちょっかいを出された一瞬の隙に、みゆきの姿を食堂から見失ってしまった。穂花はその瞬間、約一年前、間宮に無理矢理車に連れ込まれたことを思い出し、半ばパニックに陥りながらも食堂内を見渡し、不審な男がいないか確かめると、食器を律義に片付けてから自分達に宛てられた305号室へと脱兎の如く駆けつけた。
みゆきは薄暗い部屋の中心、木製のテーブルの上で、一人膝を抱えて座っていた。灯りも点いていない部屋の扉を開けてすぐに、目に入ったのがみゆきの後ろ姿だと理解できたのは、数十年ぶりに大接近していた月の光が、開け放たれた窓の外から部屋の中に差し込んでいたからだ。
『みゆ、部屋に戻ってたんだ。突然姿見失ったから心配したよ』
穂花は部屋の電灯のスイッチを押し、部屋中を明暗の明で浸食させると、みゆきの背中に優しく声をかけた。しかし、穂花が当然のように笑顔で振り返ると思っていたみゆきは、
黙って満月に目を向けたまま微動だにしなかった。
『どうしたの?みゆ』
無視されて、僅かな苛立ちを覚えた穂花はみゆきの肩を軽く叩いた。と、同時にみゆきは言葉通り飛び上がり、部屋の隅で障子と壁に寄り掛かり、穂花が見たことのない歪な表情を覗かせた。
その時のみゆきの表情は、穂花が幼い頃に図書館で、魔法使いの『魔』という文字に惹かれて手にした『聖女と魔女』という本で見た、ルーベンスの『メドゥーサの頭部』という絵のメドゥーサにそっくりだった。親友の面影を失くした少女を見て、穂花はショックで絶句し、声が出なかった。
みゆきは歪な表情のまま、肩まで伸びた長い髪を両手でぼさぼさにすると、血走った目で穂花を睨んだ。
『俺をその名前で呼ぶんじゃねぇ!』
狂乱になったみゆきに怒鳴られ、涙目になりながら穂花は力なく足を崩した。
『ご、ごめん……』
穂花は怖かった。みゆきと話をするのが。みゆきに怒鳴られるのが。そして何より男みたいなみゆきと二人だけでいることが、穂花には泣いてしまうくらい怖かった。
『ごめんで済んだら警察なんていらねぇだろ!俺を何だと思ってるんだよ、お前は。あぁ?おい何泣いてんだよ!泣きたいのはなぁ、俺のほうなんだよ!おい……。おい前見ろ!顔上げろよ話する時は相手の顔を見て話すって教えただろ馬鹿!この出来損ない!』
穂花が永遠続くと思ったみゆきの罵倒は、騒ぎを聞いて駆けつけてきた、隣室の同級生達が部屋に入り込んだ途端に終わった。
みゆきは305号室に続々と同級生の少女達が集まって来ると、歪な怒りの表情を一変し、子供向けのアニメに出てくる、ひ弱な小動物が怯えたような表情になった。しかし、普段の彼女のイメージからは程遠い乱暴な口調が変わることはなかった。
『お前等みんな俺なんか死ねば良いって思ってるんだろ?良いよ。死んでやるよ』
みゆきがおもむろによたよたと窓辺に向かって歩き始めると、いよいよ少女達は騒ぎ始めた。が、穂花がそうであったように、305号室で固唾をのむ全ての少女が、全身が石になってしまったかのように、みゆきを止めに入ることができなかった。
『良いか?ちゃんと見てろよ!お前等の望み通り今から飛び降りて死んでやるよ』
みゆきが窓枠に手をかけた時、国語の女性教諭が部屋に押し入って来た。
『ちょっと何やってんの!やめなさい!』
幸か不幸か、結局みゆきは国語の教諭に押さえつけられて、自殺することはできなかった。
『やめろ!放せ、放せよ!俺は今から死ぬんだよ死なせろよ!やめろ。はなせ。はなせはなせえええええぇぇぇぇえええ!』
少し遅れて後から駆けつけて来た二人の教諭と、計三人にみゆきは手足の自由を奪われ、熱を逃がす為に伸びをする小動物のような姿勢で、叫びながら運ばれていった。




